その134 「 止まらない男」
いい加減認めちゃえばいいのに。
朝。
悠馬の机にはすでに三つのファイルが並んでいた。
今日処理する案件。
予定は詰まっている。
問題はない。
処理可能。
むしろ余裕がある。
悠馬は最初の書類を開く。
数字を追う。
確認。
整理。
修正。
三分後、書類は閉じられる。
次。
ペンが走る。
速い。
迷いがない。
止まらない。
秘書が書類を置く。
「佐伯さん、こちらも」
「ありがとうございます」
悠馬は視線も上げずに受け取る。
処理。
確認。
判断。
終わり。
「もうですか?」
秘書が思わず言う。
「はい」
淡々とした声。
秘書は少し笑う。
「最近、すごく速いですね」
悠馬は答える。
「通常です」
同じ返答。
秘書はそれ以上言わない。
言っても変わらないと知っている。
悠馬は次の書類を開く。
止まるな。
動け。
考える時間を減らせ。
余白を作るな。
それだけでいい。
昼前。
会議室。
エドワードが資料を見ている。
ノアは椅子にもたれている。
悠馬は立って説明する。
「こちらの契約ですが、三社比較の結果――」
言葉は滑らか。
整理も正確。
だけど。
ノアがふと眉を上げる。
「兄さん」
悠馬が止まる。
「はい」
ノアは資料を指さす。
「これ」
悠馬は視線を落とす。
数字。
一桁。
ずれている。
ほんのわずか。
計算ミスではない。
入力ミス。
すぐに直せる。
でも。
悠馬は一瞬止まる。
ほんの一瞬。
「失礼しました」
すぐに修正する。
ペンが走る。
数字は戻る。
完璧。
問題はない。
ノアは笑う。
「珍しい」
軽い声でのからかい。
「兄さんミスするんだ」
悠馬は答える。
「人間ですので」
静かな返答。
会議は続く。
資料は進む。
結論も問題ない。
案件は承認される。
会議は終わる。
ノアは椅子を押しながら言う。
「兄さん」
「はい」
「休め」
悠馬は首を振る。
「必要ありません」
ノアは笑う。
「だろうね」
それ以上は言わない。
ドアが閉まる。
部屋には二人残る。
悠馬とエドワード
エドワードは資料をもう一度見る。
指が数字をなぞる。
「……速いな」
独り言のような声。
悠馬は答えない。
必要ない。
エドワードはページを閉じる。
視線は悠馬に向かない。
窓の外を見ている。
「最近、仕事を増やしているな」
事実だけ。
悠馬は答える。
「処理可能です」
「そうだろう」
エドワードは否定しない。
むしろ当然のように言う。
「君は優秀だ」
評価。
感情はない。
ただの事実。
悠馬は軽く頭を下げる。
「ありがとうございます」
沈黙。
数秒。
エドワードは言う。
「だが」
悠馬は顔を上げる。
エドワードは窓の外を見たまま続ける。
「速い時ほど」
一拍
「人間は見落とす」
悠馬は黙る。
否定はしない。
肯定もしない。
ただ”聞く”。
エドワードは椅子から立つ。
書類を机に置く。
「気をつけろ」
それだけ。
叱責ではない。
忠告でもない。
ただの観察。
エドワードは部屋を出る。
ドアが閉まる。
静かになり、悠馬は机に向かう。
書類を開く。
数字を見る。
誤差。
ほんのわずか。
だが確かにあった。
止まるな。
思考が言う。
止まるな。
動け。
悠馬は次の書類を開く。
ペンが動く。
速度は落ちない。
むしろ少しだけ上がる。
夕方。
廊下。
ノアが兄の背中を見る。
歩く速度。
速い。
無駄がない。
ノアは小さく笑う。
「……兄さん」
声はかけない。
ただ見送る。
兄は止まらない。
”止まらないようにしている”
理由はわからない。
でも。
明らかに何かある。
ノアは肩をすくめる。
「まあいいや」
兄は強い。
たぶん、大丈夫だ。
たぶん。
窓の外。
ロンドンの空はまだ冷たい。
春は近い。
そして。
ドイツでは。
ロッテが試験結果を待っている。
まだ誰も知らない。
この小さな誤差が。
静かに。
広がっていくことを。
ここまで読んでくださってありがとうございます!
『佐伯悠馬の結婚事情(仮)』始まりました。
結婚する気がない男の結婚事情(仮)です。
相変わらず周囲がうるさく、悠馬の胃が忙しいです。
更新はのんびりですが、完結まで書いていく予定なので
よかったらまた覗いてください。
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