32話 セルペンス掃討戦⑧
「……少し、甘く見ていたわ」
アッシェの声は、先ほどまでと変わらず落ち着いていた。
しかし、全身から放たれる魔力は、まるで別物だった。
復讐のためにディクトと契約して以来、アッシェは本来の姿を封じ、その力にも制限を課していた。
ただし、その制限は三つの条件下で解放される。
一つ目は、ディクトが彼女の本当の名を呼んだとき。
二つ目は、対処が困難なほどの強敵と対峙したとき。
そして、三つ目は――。
今、満たされたのは二つ目の条件。
銀色の髪は燃えるような赤へと変わり、長らく抑え込まれていた膨大な魔力が解き放たれる。
かつて名門エルドレッド家の令嬢、アンナ・エルドレッドとして生きていた頃の力が、その姿とともに蘇っていた。
「……てめえ、どこまで化け物なんだよ」
ジムグリが低く吐き捨てる。
そんな男を前に、アッシェは静かに口を開いた。
「あなたの魔法、ようやく理解したわ。指輪だけではなかったのね」
アッシェの視線が、ジムグリの首元へ向けられる。
先ほどまで首に下げていた太い金鎖が、いつの間にか消えていた。
最後の指輪を犠牲にした際、ジムグリはもう片方の手で金鎖に触れていた。
あのときは指輪に注意を奪われてしまったが、今なら分かる。
指輪ひとつで、あれほど膨大な魔力が生み出されたわけではない。
ジムグリは指輪と同時に、金鎖までも代償にしていたのだ。
「価値あるものを代償にして魔力を生み出す。それがあなたの魔法ね」
「……ああ。そうだぜ」
ジムグリの固有魔法――『代価』。
それは、金貨や宝石など、価値ある財貨を魔力へと変換する能力だった。
生み出した魔力は、攻撃だけでなく、防御や身体強化にも利用できる。
これまでアッシェの攻撃を受けても無傷だったのは、指輪を犠牲にして得た魔力で、ダメージを防いでいたからだ。
そして、代償にする財貨の価値が高いほど、得られる魔力も大きくなる。
「だが、気づいたところでどうしようもねえぜ?」
ジムグリは背後へ視線を向けた。
そこには、まだ大量の財貨が残されている。
指輪を使い果たしたところで、固有魔法が使えなくなるわけではない。
むしろ、この部屋そのものが、ジムグリにとって巨大な魔力の貯蔵庫なのだ。
「俺には、まだこれだけの財貨があるんだからな!」
「……そう」
アッシェは静かに右手を掲げた。
その手のひらに、紅蓮の紋章が浮かび上がる。
先ほどまでの白銀とは異なる、鮮やかな赤。
そこから放たれる魔力に、ジムグリの表情がわずかに強張った。
「いくらあっても意味はないわ」
「……?」
「――『獄炎の刻印』」
次の瞬間、紅蓮の紋章から凄まじい炎が噴き出した。
「なっ……!?」
ジムグリは咄嗟に両腕を突き出し、残された魔力を防御へと回した。
しかし――。
轟ッ!!
炎はその防御を押し潰すように広がり、ジムグリの巨体を呑み込んだ。
「ぐああああっ!!」
悲鳴が響き渡る。
全身を焼く激痛に耐えきれず、ジムグリは床へ倒れ込んだ。
そのまま苦しげに身をよじり、炎を振り払おうと何度も床を転がる。
やがて炎が収まると、ジムグリは荒い息を吐きながら、ふらつく足で立ち上がった。
「……ぐっ……!」
衣服の一部は焼け焦げ、両腕には痛々しい火傷が広がっている。
「……う、嘘だろ……?」
ジムグリは信じられない様子で、自分の腕を見下ろした。
手首に嵌められていた高価なブレスレットが、粉々に砕け散っていた。
相当な値打ちの品だった。
それを代償に生み出した魔力を、すべて防御に回したはずだった。
それなのに、攻撃を防ぎきれなかったのだ。
ジムグリは火傷を負った腕を見つめたあと、アッシェへと視線を向けた。
少女は、何事もなかったかのように佇んでいる。
その全身からは、今も膨大な魔力が溢れ出していた。
(……冗談じゃねえ)
先ほどまでとは、まるで別人だった。
あれほどの魔法を放っておきながら、少しも消耗した様子がない。
それどころか、まだ余力を残しているようにさえ見える。
(……殺される)
不意に、そんな考えが脳裏をよぎった。
「どうしたの? 余裕がなくなったように見えるけど」
アッシェが静かに一歩を踏み出す。
目に見えぬ威圧に押されたかのように、ジムグリは反射的に後ずさっていた。
「……!」
額から冷たい汗が流れ落ちる。
このまま戦えば、殺される。
そう悟ったジムグリは、必死に周囲を見渡した。
棚に並んだ宝石。
壁を飾る絵画。
異国から取り寄せた高価な美術品。
長年かけて集めてきた、大切な財産の数々。
それらを犠牲にすることなど、本来なら考えられなかった。
だが、今はそんなことを言っていられない。
「……くそったれが……!」
ジムグリは歯を食いしばり、両腕を大きく広げた。
「――『無尽の供犠』!」
次の瞬間、部屋中の財貨が一斉に輝き始めた。
棚に並ぶ宝石や壁に掛けられた絵画から淡い光が溢れ出し、無数の光の筋となってジムグリへと流れ込んでいく。
「……っ!」
ジムグリの身体が大きく震えた。
濁った茶色の魔力が全身から噴き上がり、周囲の空気を激しく揺さぶる。
その魔力量は、先ほどの身体強化とは比較にならなかった。
「……はっ……はは……」
ジムグリは自分の両手を見下ろした。
身体の奥底から、次々と魔力が湧き上がってくる。
「ははっ……はっはははは!」
ジムグリは愉快そうに笑いながら、両腕を広げた。
「そうだよなぁ! 俺にはまだ、積み上げてきた財産があるじゃねえか!」
全身を包み込む魔力が、さらに膨れ上がる。
足元の石床に亀裂が走り、周囲の瓦礫が小刻みに震え始めた。
つい先ほどまで感じていた死への恐怖は、いつの間にか薄れていた。
「……さあ」
ジムグリが獰猛に笑う。
「今度はこっちの番だぜ!」
ジムグリが床を蹴った。
ドンッ!!
巨体が凄まじい勢いで加速する。
先ほどとは比較にならない速度だった。
「おらぁ!」
一瞬で間合いを詰め、巨大な拳を振り抜く。
しかし、アッシェは慌てることなく上体をひねり、その一撃をかわした。
「……ちっ!」
ジムグリが続けざまに左拳を繰り出す。
アッシェは身を沈めてやり過ごすと、そのまま横へ跳んだ。
直後、拳が背後の石壁へ激突する。
ボガァンッ!!
轟音とともに壁が砕け、無数の石片が飛び散った。
「はっははは! 逃げ足だけは大したもんだな!」
ジムグリは笑いながら右手を突き出す。
手のひらに濁った茶色の魔力が集まり、複数の魔力弾が形成される。
「そら、こいつも食らいな!」
次の瞬間、魔力弾が一斉に放たれた。
アッシェは即座に右手を掲げる。
「――『聖域の刻印』」
紅蓮の紋章が輝き、正面に強固な防御結界が形成された。
ドドドンッ!!
魔力弾が次々と結界に激突する。
凄まじい衝撃が連続して襲いかかるものの、結界はびくともしなかった。
アッシェもまた、涼しい顔で攻撃を受け止めている。
その間にも、壁に飾られていた絵画が淡い光を放ち、光の粒となって消えていった。
「……へっ!」
ジムグリが口元を歪める。
魔力弾が結界へ集中した、その瞬間だった。
ジムグリは再び床を蹴り、魔力弾による攻撃を続けながら、一気にアッシェとの距離を詰めた。
「こいつはどうだ!」
巨大な拳が横合いから迫る。
しかし、アッシェはすでにその動きを捉えていた。
防御結界を解除すると同時に身を翻し、拳をかわす。
さらに、ジムグリの懐へ踏み込んだ。
「――『轟雷の刻印』」
右手に浮かぶ紅蓮の紋章から、凄まじい雷撃が放たれた。
轟ッ!!
紫電を纏った雷撃が空気を震わせ、至近距離からジムグリの巨体を直撃する。
「……ぐっ!」
ジムグリが苦悶の声を漏らした。
しかし、全身を覆う濁った茶色の魔力が雷撃を受け止め、その身体を守っていた。
同時に、背後の棚に並んでいた骨董品がいくつか砕け散る。
「はっははは! もう、てめえの攻撃も怖くねえな!」
ジムグリが反撃の拳を振り下ろす。
アッシェは軽やかに後方へ跳び、その一撃をかわした。
その間にも、棚に並ぶ宝石が淡い光を放ち、ひとつ、またひとつと消えていく。
アッシェは着地すると、ジムグリの様子を静かに観察した。
先ほどから、ジムグリは大量の魔力を消費している。
それにもかかわらず、全身を包み込む魔力は一向に衰える気配がない。
強力な雷撃を防いだ直後でさえ、その魔力量はほとんど変わっていなかった。
そのとき、アッシェの視界の端で淡い光が瞬いた。
飾り棚に並んでいた宝石がひとつ、光の粒となって消えていく。
続いて、壁に掛けられた絵画も淡い光を放ち始めて消滅した。
それは、先ほどから何度も目にしていた光景だった。
財貨が消失するたびに、淡い光の筋がジムグリの身体へ吸い込まれていく。
そして、それに呼応するように、消費されたはずの魔力が補充されていた。
(……なるほど。そういうことね)
アッシェは、その仕組みを理解した。
これまでの『供犠』は、指輪などを代償にして、一度に魔力を得るものだった。
しかし、今度は違う。
恐らく、部屋中の価値ある品々を代償の対象とすることで、継続的に魔力を供給しているのだ。
魔力を消費するたびに、それに見合う価値の品物が犠牲となり、失われていく。
つまり、この部屋に価値あるものが残っている限り、ジムグリは膨大な魔力を維持し続けられるということだ。
「どうだ! これこそが富の力ってやつだ!」
ジムグリは両腕を広げた。
「てめえがどれだけ強かろうが無駄だ! 俺には積み上げてきた莫大な財産があるんだからな!」
「……そう」
アッシェは興味なさそうに答えた。
確かに、ジムグリの代価魔法は強力だった。
だが、その力の源が財貨である以上、決して無限ではない。
(……だったら、やり方を変えるだけね)
アッシェは静かに室内へ視線を走らせた。
豪華な飾り棚。
壁に掛けられた絵画。
そして、先ほど背中を打ちつけた巨大な金庫。
それらを確認すると、再びジムグリへ向き直った。
「どうした、嬢ちゃん!」
ジムグリが両手を突き出す。
濁った茶色の魔力が集まり、複数の魔力弾が放たれた。
アッシェは迫る攻撃を次々とかわしながら、飾り棚の近くへ後退する。
そして、飛来する魔力弾を身をひねってかわすと、勢いを利用して飾り棚へ右手をついた。
その瞬間、触れた場所に小さな紅蓮の紋章が浮かび上がった。
しかし、紋章はすぐに輝きを失い、何事もなかったかのように消えてしまった。
「おらぁ!」
ジムグリがさらに魔力弾を放つ。
アッシェは床を蹴り、壁際へと移動した。
迫る魔力弾をかわしながら、壁に掛けられた絵画へと近づく。
そして、その脇を通り抜ける際、右手で額縁に軽く触れた。
再び、紅蓮の紋章が浮かんでは消える。
「ったく、ちょこまかと……!」
ジムグリが苛立ったように舌打ちする。
しかし、すぐに余裕の笑みを取り戻した。
「まあいいさ! 俺にはいくらでも魔力があるんだからな!」
ジムグリは次々と魔力弾を放ち、アッシェを追い回した。
一方、アッシェは攻撃をかわしながら室内を移動し、近くにあった骨董品にもさりげなく手を触れていく。
そのたびに、触れた場所へ紅蓮の紋章が刻まれ、すぐに姿を消した。
「はっははは! どうした、どうした!」
ジムグリが愉快そうに笑う。
「逃げ回ってるだけじゃ、いつまで経っても俺は倒せねえぞ!」
「…………」
アッシェは答えなかった。
ただ、ジムグリの動きを冷静に見極めながら、攻撃をかわし続ける。
そして、室内をひと回りしたところで、ぴたりと足を止めた。
「……あ?」
ジムグリが怪訝そうに眉をひそめる。
「何だよ。もう終わりか?」
「……ええ」
アッシェは短く答えた。
「すでに、この戦いは終わっているわ」
「……?」
ジムグリは眉をひそめたが、すぐに鼻で笑った。
「へっ! あっけない幕切れだぜ!」
右手を突き出し、膨大な魔力を集中させる。
濁った茶色の魔力が渦を巻き、巨大な球体へと凝縮されていく。
だが――。
「……?」
ジムグリの表情が変わった。
膨れ上がっていた魔力弾が、不意に勢いを失ったのだ。
「……何だ?」
さらに魔力を込めようとするが、思うように集まらない。
球体は不安定に揺らぎ、徐々に小さくなっていく。
「……一体、どうなってやがる……?」
そのときだった。
ぴしり。
小さな音が、室内に響いた。
ジムグリが振り返る。
棚に並んでいた宝石のひとつに、細かな亀裂が走っていた。
それだけではない。
隣に置かれていた宝石も輝きを失い、透明だった結晶が白く濁っていく。
さらに、壁に飾られていた絵画にも異変が生じていた。
色鮮やかだった絵の具が変色し、表面がぼろぼろと剥がれ落ちていく。
高価な骨董品にも亀裂が入り、繊細な装飾が次々と崩れ始めた。
「……な、何が起きている!?」
ジムグリは慌てて周囲を見渡した。
その間にも、財貨の劣化は進んでいく。
そして、それに呼応するように、全身を包んでいた魔力が大きく揺らいだ。
先ほどまで絶え間なく供給されていた魔力が、明らかに弱まっている。
「……くそっ、どうなってやがる……!」
ジムグリは焦りを募らせながら、アッシェへと視線を向けた。
少女は、そんな男の様子を涼しい顔で眺めていた。
「……てめえ! 何かしやがったな!」
ジムグリが怒鳴る。
「あなたの魔法は、価値あるものを代償にして魔力を生み出すのでしょう?」
「……っ!」
「だったら、その価値を失わせればいい」
アッシェは静かに右手を掲げた。
「――『風化の刻印』」
その言葉とともに、室内のあちこちに紅蓮の紋章が浮かび上がった。
「……なっ!?」
ジムグリが目を向ける。
飾り棚、絵画の額縁、そして高価な骨董品。
いずれも、先ほどアッシェが触れていた場所だった。
『風化の刻印』。
それは、刻印を施した対象を急速に風化させる魔法だった。
アッシェはジムグリの攻撃をかわしながら、室内の各所に密かに刻印魔法を仕込んでいたのだ。
その効果は刻印を施した時点から徐々に広がり、周囲の品々を少しずつ蝕んでいた。
そして今、風化は部屋の広範囲にまで及んでいる。
「どれほど高価な宝石でも、輝きを失ってしまえば、価値は下がるでしょう? 絵画や骨董品も同じ。価値を失ったものからは、以前ほどの魔力を得られない」
「……くそっ!」
ジムグリは歯を食いしばり、再び魔力を引き出そうとした。
しかし、先ほどまでの勢いは戻らない。
高価な宝石や美術品の多くが風化によって価値を失い、残された財貨も『無尽の供犠』によって次々と消費されている。
もはや、あの膨大な魔力を維持することはできなかった。
「……どうやら、魔力の供給が追いつかなくなったようね」
アッシェが静かに告げる。
「ふ……ふざけんな!」
ジムグリは慌てて棚へ駆け寄った。
そこには、かつて大金を投じて手に入れた宝石が並んでいる。
そのひとつを、震える手で掴み上げた。
しかし――。
パキンッ。
宝石は指先で砕け、細かな破片となって床へ零れ落ちた。
「……おい……嘘だろ……?」
次々と財産が失われていく。
長年かけて集めてきた、何よりも大切なものたちが。
「……ああ……!」
ジムグリの喉から、かすれた声が漏れた。
「俺の……俺の宝が……!」
先ほどまでの高揚感は、完全に消え失せていた。
その表情に浮かんでいるのは、絶望と怒り。
そして、どうしようもない喪失感だった。
「……てめえ……!」
ジムグリはゆっくりと顔を上げた。
その目に、激しい憎悪が宿る。
「よくも……!」
アッシェは、そんな男を冷ややかに見つめていた。
「言ったでしょう? 何も残らないって」
静かに右手を掲げる。
その手のひらに、紅蓮の紋章が浮かび上がった。
「――『獄炎の刻印』」
次の瞬間、凄まじい炎が噴き出した。
轟ッ!!
灼熱の炎は一直線にジムグリへと迫る。
「……くそっ!」
ジムグリは咄嗟に魔力を防御へ回そうとした。
しかし、もはや十分な魔力を集めることができない。
形成された防御は、炎を受け止めた瞬間に砕け散った。
「ぐあああああっ!!」
ジムグリの巨体が炎に呑み込まれる。
凄まじい轟音とともに身体が吹き飛び、背後の石壁へ叩きつけられた。
壁が砕け、大量の石片が降り注ぐ。
やがて炎が収まると、ジムグリは崩れた壁の下で横たわっていた。
「……ぐっ……がはっ……!」
苦しげな咳が漏れる。
全身には火傷が広がり、もはや立ち上がる力も残されていなかった。
先ほどまで全身を包んでいた膨大な魔力も、今では見る影もない。
「……くそっ……」
ジムグリは身を起こそうとしたが、激痛に顔を歪め、再び床へ倒れ込んだ。
荒い息を吐きながら、周囲を見渡す。
かつて豪華絢爛だった部屋には、砕けた宝石や壊れた美術品が散乱していた。
長年かけて築き上げてきた財産は、見る影もなくなっている。
(……これで終わりか……)
ジムグリは力なく目を伏せた。
そんな男のもとへ、アッシェが静かに歩み寄る。
燃えるような赤い髪が、かすかに揺れる。
「……あなたを殺す前に、ひとつ確かめておきたいことがあるの」
「……何だ……?」
ジムグリは苦しげに顔を上げた。
アッシェはしばらく男を見下ろしていたが、やがて静かに口を開いた。
「……マリンラナ」
その名を口にした瞬間、アッシェの眼差しが鋭くなる。
「この名前に、聞き覚えは?」
声は落ち着いていた。
しかし、その瞳の奥には、隠しきれないほどの憎悪が宿っていた。
「……マリンラナ……?」
ジムグリは怪訝そうに眉を寄せた。
しばらく記憶を探るように考え込んでいたが、やがて小さく首を横に振る。
「……悪いが、知らねえな……」
アッシェは男の反応を静かに観察した。
どうやら、嘘をついている様子はない。
「……そう。ならいいわ」
それ以上、追及することはなかった。
アッシェが右手を掲げようとした、そのときだった。
「……なあ、嬢ちゃん……」
ジムグリが、かすれた声を漏らした。
「何をそんな必死に探してやがるんだ?」
「…………」
「さっきの目だよ……あの名前を口にしたときのな……」
ジムグリはアッシェを見上げ、かすかに笑った。
「何が何でも、そいつを探し出してえ……そんな目をしてやがったぜ」
「……あなたには関係ないわ」
アッシェが冷たく言い放つ。
「……へっ。俺には分かるんだよ……」
ジムグリは小さく息を吐いた。
「俺も昔はそうだったからな……」
その視線が、床に散らばった宝石へと向けられる。
「スラムで生まれて……何ひとつ持っていなかった俺は、とにかく欲しくて仕方なかったんだ。金も、力も……何もかもな」
ジムグリは自嘲するように笑った。
「だが、どれだけ金を手に入れても、決して満たされることはなかった。いつしか、その満たされない飢えがどす黒い執着に変わり、俺を突き動かしていたんだ……」
そして、再びアッシェを見上げる。
「……今のてめえも、あの頃の俺とそっくりな目をしてやがるぜ……」
アッシェの表情は変わらなかった。
「私は、あなたとは違うわ」
それだけを、きっぱりと告げた。
ジムグリはしばらく少女を見つめていたが、やがて力なく鼻を鳴らした。
「……はっ。つれねえ女だぜ……」
アッシェは、それ以上何も答えなかった。
静かに右手を掲げる。
その手のひらに、紅蓮の紋章が浮かび上がった。
ジムグリは、もう抵抗しなかった。
「……まったくよ……」
かすれた声が漏れる。
「とんでもねえ……大損だぜ……」
次の瞬間、アッシェの右手から紅蓮の光が放たれた。
一瞬、室内が眩い光に包まれる。
そして――。
すべてが静まり返った。
アッシェはしばらくその場に佇んでいたが、やがて静かに息を吐いた。
「……これで掃除は終わりね」
全身から溢れていた魔力が、徐々に収まっていく。
燃えるように赤かった髪も、ゆっくりと元の白銀へ戻っていった。
そのとき、アッシェの身体がわずかによろめいた。
咄嗟に壁へ手をついたものの、力が入らず、そのまま床に座り込んだ。
どうやら、本来の力を解放した反動は、思っていた以上に大きかったらしい。
「……執着、ね」
ふと、ジムグリの言葉が脳裏をよぎる。
家族を死に追いやった者たちへの復讐。
そのためにディクトと契約し、今日まで生きてきた。
自分もまた、復讐という執着に突き動かされているのかもしれない。
「……少しだけ、疲れたわね」
アッシェは壁に背を預け、そっと目を閉じた。
それから、どれほど経っただろうか。
「姉御!」
廊下の向こうから、聞き慣れた声が響いた。
(……ガレット)
アッシェはゆっくりと目を開けた。
その元気な声を聞いただけで、張り詰めていた心がふっと和らぐ。
今の自分には、大切な仲間がいる。
そう思うと、自然と笑みがこぼれた。
アッシェは壁に手をついて立ち上がると、メイド服の乱れを整えた。
そして、声のする方へ静かに歩き出した。




