24話 セルペンス制圧作戦②
中へ入った瞬間、濁った空気が肌にまとわりついた。
外から見た印象とは違い、内部はかなり広い。
石造りの通路が奥へ伸び、左右にはいくつもの部屋が並んでいる。
壁には魔石灯が埋め込まれていた。
薄暗い赤紫の光が廊下を照らし、石壁に不気味な影を揺らしている。
本来なら、足音や話し声、奥から漏れる物音が響いているはずだった。
だが、今は何も聞こえない。
アッシェが張った魔法の結界によって、アジトの内部は完全な静寂に包まれていた。
通路を進む三人の靴音さえ、耳には届かない。
ローブの裾が擦れる音も、息遣いも、床を踏む感触だけを残して消えている。
まるで、音だけが世界から切り取られたようだった。
しばらく進んだところで、二人の男と鉢合わせる。
男たちは、すでに異変に気づいていたのだろう。
互いに顔を見合わせ、何かを言い合っている。
だが、その声はない。
口だけが動き、喉だけが震える。
怒鳴っているのか、問いかけているのかも分からない。
ただ、赤紫の光に照らされた顔だけが、じわじわと困惑に歪んでいく。
そのうちの一人が、アッシェたちの姿に気づいた。
目を見開き、慌てて隣の男の肩を叩く。
もう一人も振り向き、咄嗟に叫ぼうとした。
口が大きく開く。
だが、声は出ない。
助けを呼ぶはずだった叫びは、無音の結界に呑まれ、形になる前に消えた。
二人が戸惑う、そのわずかな隙。
ガレットが、楽しげに口元を吊り上げて前へ出た。
そして肩越しに振り返り、アッシェとシトラスへ親指を立てる。
この場は任せろ、という合図らしい。
次の瞬間、ガレットの両手に漆黒の拳銃が現れる。
何もない空間から引き抜かれたように、二丁の魔導拳銃がその手に収まった。
黒く鈍い光を帯びた銃身が、迷いなく男たちの額を捉える。
弾丸が放たれた。
だが、銃声はない。
火花も、衝撃も、硝煙の匂いさえあるのに、音だけが存在しない。
二人の男の額に、同時に赤い点が咲いた。
声を上げることもできず、男たちはその場に崩れ落ちる。床に膝がつく音も、身体が倒れる音もない。
ただ、赤紫の魔石灯に照らされた床に、血だけが静かに広がっていった。
命が消えていく瞬間でさえ、この空間は沈黙したままだった。
ガレットは銃口をくるりと回し、満足げに笑った。
何か軽口を叩いているようだったが、その声も届かない。
アッシェは小さく頷き、先へ進む。
彼らもまた、異変に気づいていた。声が出ないことに焦り、互いに身振りで何かを伝えようとしている。
だが、遅い。
アッシェが指先を軽く動かす。
白銀の紋章が、二人の男の足元で淡く輝いた。次の瞬間、光の輪が伸び、腕と脚を絡め取る。
二人は必死に暴れた。
だが、床を蹴る音も、拘束を振りほどこうとする呻き声もない。ただ、開かれた口と見開かれた目だけが、彼らの恐怖を示していた。
そこへ、シトラスが静かに歩み寄る。
淡い金色の魔力が、彼女の指先から溶けるように広がった。二人の男の目から、ゆっくりと光が抜けていく。
そして、そのまま膝を折って床へ崩れ落ちた。
残った一人は、背を向けて逃げ出そうとした。
だが、数歩も進まないうちに、ガレットの銃口がその背を捉える。
音のない弾丸が放たれ、男は声もなく倒れた。
赤紫の光の下、通路にまた一つ、血の跡が増える。
叫びも、警報も、断末魔もない。
敵が異変を知らせる手段は、最初から奪われていた。
音のない空間で、三人の連携だけが淀みなく機能していく。
言葉は不要だった。
無音のアジトの中で、セルペンスの者たちは、自分たちが何に襲われているのかも分からないまま倒れていった。
さらに奥へ進もうとした、その時だった。
アッシェの眉が、わずかに動く。
アジト一帯を包み込んでいた結界に、異変が走った。
空気が軋む。
目には見えないはずの結界の輪郭が、一瞬だけ白銀の光を帯びて浮かび上がる。
次の瞬間。
無音の空間に、亀裂が入った。
見えない硝子が砕けるように、白銀の光が幾筋にも裂けていく。
そして、アジトを覆っていた結界は、粉々に散るように消えた。
音が戻る。
床を踏む足音。通路の奥で男たちが叫ぶ声。遠くで扉が乱暴に開かれる音。
先ほどまで沈黙に支配されていたアジトに、ざわめきが一気に流れ込んできた。
アッシェは、わずかに目を細める。
「思ったより早かったわね」
広範囲に展開した結界は、そのぶん魔力の密度が薄くなる。
破られやすいことは分かっていた。
それでも、想定より早い。
このアジトには、結界に干渉できるだけの魔法士がいる。
それも、ただの使い手ではない。
「姉御!」
ガレットの声が、通路に鋭く響いた。
「左方向、壁の向こう側からなんか来るぞ!」
その一言だけで十分だった。
アッシェは即座に右手を掲げる。
手のひらに白銀の紋様が浮かび上がり、淡い光が空中へ広がっていく。
「――『守りの刻印』」
白銀の光が、三人を包むように展開された。
それは盾というより、薄い膜のような防御結界だった。幾重にも重なった光の紋様が空間に浮かび、アッシェたちの前面を覆う。
直後。
壁が爆ぜた。
轟音とともに石壁が砕け、粉塵と破片が通路へ散る。その中心を貫くように、金色の光の矢が飛来した。
光の矢は一直線にアッシェたちを射抜こうとする。
だが、防御結界に触れた瞬間、眩い火花を散らして弾かれた。
衝撃が通路全体を震わせる。
「ほう」
粉塵の奥から、しわがれた声が響いた。
「ワシの矢を受け止めるとは、なかなかやるのう」
粉塵がゆっくりと晴れていく。
その向こうから、小柄な老人が姿を現した。
白い髭。
枯れ枝のように細い身体。
皺だらけの顔には、ひどく不愉快そうな笑みが張りついている。
だが、その身体は床に触れていなかった。
ぼろ布のような外套を揺らしながら、ふわり、ふわりと宙に浮かんでいる。
背後には淡い金色の魔力が輪のように漂い、薄暗い通路を照らしていた。
華やかな光をまとっているはずなのに、老人の笑みはひどく邪悪に見えた。
「侵入者とは無粋じゃのう」
老人は、にたりと笑った。
「ワシは“光矢”のラムート。この聖域を守る者じゃ」
「聖域?」
アッシェは冷たく返す。
「ここのどこが聖域なの?」
ラムートは一瞬目を丸くした。
それから、喉の奥でくつくつと笑う。
「ふわっはは、哀れな小童じゃ」
細い目が、アッシェを値踏みするように眺めた。
「神の光に照らされたこの場所の素晴らしさが、分からんとは嘆かわしい」
「聖域を名乗るなら、もっと綺麗に掃除しておくことね」
アッシェは眉ひとつ動かさずに返した。
「ゴミが多いわよ」
「ほう……口だけは達者じゃな」
ラムートは愉快そうに目を細める。
「じゃが、その澄ました顔も、どこまで保つかのう。膝をつき、泣き叫び、許しを乞う頃には――その醜い顔も、少しは見られる顔になるかもしれん」
「ああ?」
ガレットが一歩前へ出た。
その顔から、いつもの軽薄な笑みが消えていた。
赤い瞳だけが、ラムートを鋭く睨み据えている。
「今、姉御に何つった?」
ラムートは、そこで初めてガレットへ視線を向けた。
「なんじゃ。赤毛の小娘。仲間を貶されて腹を立てたか」「もう一回言ってみろよ、ジジイ」
ガレットの声が低く沈む。
ラムートは鼻で笑った。
「ふん。醜いと言ったんじゃよ。澄ました顔をしておるが、所詮は無知な小娘。泣き叫ぶ姿の方が、よほど似合うじゃろうて」
その一言で、ガレットの目つきが変わった。
怒りが、赤い瞳の奥で燃え上がる。
「姉御、シト姉。先に行ってくれ」
低く抑えた声だった。
だが、その奥には隠しようのない苛立ちが滲んでいる。
「コイツはアタシがやる」
「大丈夫ですか? ガレットさん」
シトラスが少し心配そうに声をかける。
その横で、アッシェは一瞬だけラムートを見据えた。
壁を貫いた光の矢。結界を破ったタイミング。そして、こちらの進路を塞ぐように現れた位置。
おそらく、セルペンスの幹部の一人だろう。
だが、光の矢の威力はそれほどではなかった。
この場は任せても問題ない。
そう判断し、アッシェは小さく頷いた。
「ここはガレットに任せるわ」
「分かりました。ガレットさん、無理はしないでくださいね」
「おう。すぐ追いつくぜ」
アッシェとシトラスは一瞬だけ視線を交わし、即座に走り出した。
その動きを見て、ラムートの目がぎらりと光る。
「逃がさんよ」
ラムートの背後に、二本の光の矢が生まれる。
金色の矢は空気を裂き、アッシェたちの背へ向かって放たれた。
だが。
「させねえよ」
ガレットの両手が跳ね上がる。
何もない空間から二丁の魔導拳銃が現れ、そのまま火を噴いた。
放たれた弾丸が、空中で光の矢を正確に撃ち抜く。
金色の矢は、アッシェたちに届く前に弾け散った。
砕けた光の破片が、雨のように通路へ降り注ぐ。
その隙に、アッシェとシトラスは通路の奥へ駆け抜けていく。
ラムートの眉が、わずかに上がった。だが、それ以上の追撃はなかった。
ガレットが、完全に進路を塞いでいたからだ。
「ほう。我が神の奇跡を撃ち落とすか。やるのう、小童」
「そんな遅えのが奇跡かよ」
ガレットは嘲るように笑った。
二丁拳銃を握ったまま、両腕を軽く回す。
そして見せつけるように銃口を下へ向け、親指だけを立てた。
ゆっくりと、それを下へ落とす。
「寝言は、あの世でほざいてな」
「生意気な小娘たちじゃ」
ラムートの周囲に、さらに無数の光の矢が浮かび上がる。
通路の壁や天井に、金色の光が反射した。
光の矢の一本一本が、鋭い殺意を持っているかのように、ガレットへ向きを変える。
ラムートは両手を広げ、恍惚とした笑みを浮かべた。
「後悔するがよい。我が神罰を下そうぞ」
「後悔だあ?」
ガレットの口元が、獰猛に吊り上がる。
「するのはてめえだよ。姉御を侮辱したこと、死ぬほど後悔させてやるよぉ」
ガレットは二丁拳銃を構えた。
銃身に赤い魔力が流れ込む。
漆黒の銃に刻まれた紋様が、血のように淡く光った。
「さっさと来いよ」
赤い瞳が、爛々と輝く。
「撃ち合おうぜ、ジジイ」
その声には、隠しきれない歓喜が滲んでいた。
ラムートの周囲から、無数の金色の矢が一斉に放たれる。
同時に、ガレットの漆黒の銃口が火を噴いた。
金色の矢と漆黒の弾丸が、セルペンスのアジトに轟音を響かせて激突した。




