Ⅶ-Ⅳ 夢
不思議の国へ行ったアリス。彼女の目覚めと共に不思議の国は終わりを告げた。ハートの女王もイカレ帽子屋もチェシャ猫も、すべては夢の中にだけ存在する夢の住人達。アリスが夢を見なければ存在できない儚い存在。
しかし夢は必ずいつか覚める。永遠の夢など存在しない。必ず夢と共に終わる住人達。彼らを殺すのは誰か。
世界で一番簡単な殺害方法。罪は夢と共に消え、やがて記憶は薄れる。世界で一番軽くて、一番つまらない命。蟻を踏みつぶすより簡単な、それ以下の命。
空想の産物、夢の中の住人、彼らに価値はない。すべては目を覚ませば消える幻。消えた夢はいずれ忘れていく。消しゴムで消すかのように。
昨日の夢を覚えているだろうか、生まれて最初の夢を覚えているだろうか。
忘れられてしまった彼らはどこへ行ってしまったのだろうか。
「君が消えれば夢は終わる。本に埋もれる司書も、親子ごっこをする女も、狂ったように作品を作り続ける芸術家も、笑いの仮面を付けた少女も、そして私も、皆消える。私達がいた痕跡は何処にも残らない。ただ君の夢として残り、忘却の海に消えていくだけだ」
箱の中の猫は生きているのか死んでいるのか。
誰がコマドリを殺したのか。
さあ見よ、この蓋の開いた箱の中身を。
さあ見よ、この血まみれの弓と矢を。
それさえも夢、誰かの空想。被害者も加害者もいない、事件は始まらず名探偵も殺人鬼もいない。罪と贖罪は最初からなかったかのように消える。誰も覚えてはいない。
「君は消える、そして猫箱も壊れる。この世界は君という楔が打たれた時点で結末が決まっていた。打たれた楔を引き抜けば罅が入る。罅はやがて裂け目となりすべてを破壊するまで止まらないだろう」
この世界から出る為の二つの方法。その両方が提示され、僕は必然的に両方を選ぶこととなる。
「先ほど君にお姉さんはここにいないと言ったが、それは君が会えないだけであって、彼女がこの世界にいなかったという意味ではない。もしかしたらいたのかもしれない。そして方法があれば再び君と会うことができるかもしれない」
しかしそれは、
「そう、それはあまりにも希望的観測だ。彼女がすでに世界の一部となり見えない存在となっているかもしれない可能性だってある。それは生きていると言うべきか死んでいるというべきか、生死の定義がないこの世界では説明できない。だが、それでも君は箱を壊さねばならない」
彼女が存在するかもしれない世界を壊す。もはや彼女と会えないのならそれはいないのと同じなのか。
否、僕の存在も望みも関係なく、世界は廻り彼女も生きる。
「君は猫が生きているかもしれないのに箱ごと猫を殺す事ができるかい?」
それはかつて司書にも問われた言葉。
猫が生きているなら殺してやりなさい。
猫が死んでいるなら殺しなおしてあげなさい。
猫の死を証明しましょう。
「覚悟はあるつもりです」
僕はこの選択を後悔する日が来るのだろうか。
僕の身勝手の為にこの世界とそこに住まう人々すべてを犠牲にする。そして最悪なことに、僕はそんなことよりも姉に二度と会えないこと、彼女を殺してしまうことが何よりも恐ろしい。
そんな僕の心境を察したかのように、研究者は言う。
「覚悟したなら後ろを振り向かず進みなさい。それが犠牲となる我々の為に君ができる唯一の事だ」
哀れみも、後悔もいらない。そんなものあっても何も変わらない。我々が君をどう思うかは何も変わらない。
「さあ、君は手段を知った。そして決めた。なら行くべき場所はわかるはずだ」
この世界で唯一外に繋がる場所、だからこそ誰も近づかない、彼以外。
「君が必要としているものはすべてそこにある。ここで出来ることなど何も残ってない。さあ、行きなさい。そしてさようなら、少年よ」
研究者はあっさりと別れを告げる。これが最期となることなど思わせないかのように。
僕は黙って彼に頭を下げ、そして部屋を出て行く。研究者はもう僕を見てはいなかった。ただ、またいつものように研究に没頭する。先など無いことなど関係ないと言うかのように。
部屋を出ると、珍しく司書が本のベッドから降りていた。司書は僕の顔をつまらなさそうに眺める。
「全部予定通りでつまらないよ。どんな本よりもあんたの物語はつまらないな」
「そうかもしれない。でも、人の人生なんてそんなものなのかもしれないよ」
人の人生が他人の心を沸き立たせるほど刺激的なものばかりなら、フィクションなど存在しない。ここに並ぶ本の群も必要ないだろう。
「確かにな、それもそうだ」
司書はそう言って一冊の本を棚から抜き出す。
司書はその本の一節を読み始める。
「ある男が夢を見た。蝶になる夢だ。ひらひらと宙を舞う事は楽しかった。
目を覚まして男は思う。私は蝶になる夢を見ていたのか。
それともあの蝶こそが現実で、今の私は蝶が視ている夢なのだろうか」
ぱたりと本は閉じられる。司書はその本をそのまま僕の足下に投げつけた。それはかつて僕が手にした落書き帳だった。司書が朗読した話はまったく書かれていない、ただのポーズだ。
また僕は本を投げ飛ばしたくなった。今度は司書めがけてだ。むろん、さらにバカらしくなるので実行には移さないが。
僕の心中を読み取っているかのように司書は笑う。
「あんたにとって、この世界は男が見る夢なのか? それともあんたは蝶なのか?」
「どちらが夢か現実かなんて考える方がバカらしくないか?」
「それを考えるのが人間さ。そんな下らない悩みを一生抱え続ける。だが、夢は覚めれば忘れる。あんたにとって俺たちは夢と共に消える幻かもな」
研究者も同じ事を言っていた。
「勘違いするなよ。別にあんたを憎んでいるわけじゃない。ただあんたがすることは夢から覚めるのとさして変わらない、言い換えればその程度のことだということだ。あんたは外からやってきて、ここは夢に過ぎないと証明したに過ぎないんだ」
罪悪感も、後悔も、すべて僕一人が抱える何でもない主観でしかないと、彼は言い切る。ただ存在するだけの彼らの命綱を断ち切ることに、何の罪悪感もないと言い切るほど僕は冷酷ではない。そして強くもない。
僕は永遠にこの痛みを抱えることができるのだろうか。それともやはり夢のように忘れ、すべては忘却の海へと沈んでいくのだろうか。
司書は外へ向かう僕を見送ることもせず、再び本のベッドに横たわり本を読み始める。それこそ最期の時まで彼はそうしているのだろう。
本当にそれだけのことなのかもしれない。少なくとも消えたくないと叫んだあの少女とは違い、彼らはただあるがままを受け入れる。それが、この世界の本来のあり方なのかもしれない。




