表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/9

第八章 今治

 来島海峡大橋は、三つの橋が連なっている。

 来島第一大橋、来島第二大橋、来島第三大橋。大島の南端から今治の糸山まで、四キロ近い距離を三本の橋が繋ぐ。しまなみ海道の中で最も長く、最も南に位置する橋だ。この橋を渡れば、本州側から数えてきた島旅が終わる。尾道から始まった道が、ここで陸に戻る。

 朝の来島海峡は、嵐の後の顔をしていた。

 空は白く、雲が低かった。でも昨夜のような雨はなかった。風はまだあったが、方向が変わっていた。昨夜は南から来たが、今朝は北西から来ていた。嵐が過ぎて、別の風が入ってきていた。海面は荒れたままで、白波が立っていた。波頭が崩れ、また立ち、また崩れた。昨日までの穏やかな瀬戸内とは、別の海だった。

 慎也と澄花は、橋の入口に自転車を停めた。

 澄花も自転車を持っていた。大島まで輪行で来たと、朝の食事のときに聞いた。しまなみを走ったことはないが、最後の橋だけ一緒に渡りたいと言った。慎也は断る理由がなかった。断る気持ちも、なかった。

 橋の入口に立つと、風が正面から来た。

 海峡の幅が広いから、風の通り道になっている。遮るものがなく、四方から海が見えた。来島海峡は潮の流れが速いことで知られていた。見ていると、水面に筋が走っているのがわかった。流れの速い場所と遅い場所が、海面に模様を作っていた。

 慎也はペダルを踏み始めた。

 澄花が隣に並んだ。

 橋の上では、言葉がなかった。風の音が大きくて、話しても聞こえなかったかもしれない。でもそれだけではなかった。言葉を出す必要がない時間というものがある。昨夜、嵐の中で話すべきことを話した。今朝の朝食でも、少し話した。今は、走るだけでよかった。

 橋が続いた。

 第一橋から第二橋へ。第二橋から第三橋へ。繋ぎ目のたびに、橋脚があり、その下を海が流れていた。急流の瀬戸内は、橋の下で渦を作っていた。海面が複雑に動き、白い泡が筋を引いていた。その動きを見ていると、止まれなかった。渦に引き込まれるように、ペダルを踏み続けた。

 第三橋の中ほどで、来た道を振り返った。

 大島が見えた。

 嵐の後の島が、白い空の下に静かにあった。宮窪の集落は見えなかったが、亀老山の稜線が見えた。昨日、霞んで見えなかった山が、今朝ははっきりと見えた。来た道が、見えた。

 老人がそう言っていた。橋の上から振り返ると、来た道が全部見える、と。

 尾道は見えなかった。向島も、因島も、生口島も、大三島も、伯方島も、霞の向こうで見えなかった。でも大島が見えた。昨夜の嵐の島が、見えた。

 慎也は向き直り、また走った。

 橋の先に、陸が近づいてきた。


 糸山の橋の入口に降りると、今治だった。

 陸の感触が、島とは違った。道幅が広く、建物が多く、車の音がした。信号があった。コンビニがあった。島では何日も見なかったものが、一度に現れた。慎也はその密度に、少し目眩がした。

 自転車を押しながら、しばらく歩いた。

 澄花が隣を歩いていた。

 今治の町は、造船と染色の町だった。来る前に調べて知っていた。今治タオルが有名だが、それ以上に造船の町で、国内有数の造船所がいくつかある。因島と同じく、海の産業で生きてきた町だ。しまなみ海道のゴールとして賑わうのは春から夏の話で、冬の平日の今は、観光客の姿は少なかった。

 商店街に入ると、人の気配が増えた。

 アーケードがあり、その下を地元の人が歩いていた。買い物袋を持った老婆、制服姿の学生、作業着の男。尾道のアーケードを思い出した。旅の始まりに歩いた場所と、似た空気があった。シャッターが多い点も似ていた。でも尾道には観光地としての演出があり、ここの商店街にはそれがなかった。生活のための通路として、そこにあった。

 港の方へ歩くと、海が見えた。

 今治の港は、島の港とは違った。規模が大きく、フェリーの桟橋があり、倉庫が並んでいた。タンカーが一艘、沖に停泊していた。工業の港だった。瀬戸内の海が、ここでは産業の道具として使われていた。悪いことではなかった。ただ、島々から見てきた海とは別の顔だった。

 慎也は港の端に立ち、来た方向を見た。

 来島海峡大橋が見えた。

 橋は今朝渡ったばかりだが、こちらから見ると遠かった。白い靄の中に橋が浮かび、その向こうに大島の山影があった。尾道を出てからの七日間が、あの橋の向こうにあった。

 澄花が隣に立った。

「渡り終えましたね」

と澄花は言った。

「ええ」

 それだけだった。


 昼食を食べようと、港の近くの食堂に入った。

 今治らしい店を選んだつもりだったが、実際には何が今治らしいのかわからなかった。引き戸を開けると、カウンターとテーブルが並び、昼の時間で地元の客が入っていた。メニューに焼豚玉子飯があった。今治の名物だと、出発前に読んでいた。

 ふたりともそれを頼んだ。

 どんぶり飯の上に、厚切りの焼豚が乗り、半熟の目玉焼きが乗っていた。甘辛いたれがかかっていた。シンプルで、量があった。慎也は食べながら、味をしっかり感じた。

 生口島以来、食べ物の味がよくわかった。

 旅に出る前の東京では、何を食べているか覚えていなかった。コンビニの弁当、立ち食いそば、残業後のラーメン。味より量と時間の問題として食事があった。でもこの旅では、食べるたびに味がした。島の塩、島の魚、島の土の味が、口の中に残った。

 澄花は静かに食べていた。

 昨夜の嵐の話が、まだ二人の間にあった。話し終えたわけではなかった。話しきれないものが残っていた。でも澄花は急がなかった。食べ終わると、茶を飲みながら窓の外を見た。

「今日はどうしますか」

と慎也は聞いた。

「少し、町を歩きたいです」

 澄花は言った。

「兄が来たことのある町だから」

「大島以外にも来ていたんですか」

「この町にも来ていたと、日記に書いてありました。しまなみを渡った後、今治で一泊することが多かったと」

「どこに行ったか、書いてありましたか」

「今治城、と書いてありました」

 慎也は少し考えてから言った。

「一緒に行きませんか」

 澄花は慎也を見た。それから、うなずいた。


 今治城は、港のすぐそばにあった。

 海城だった。城の石垣が海に接しており、かつては船で直接城に入れる構造だったという。今は堀が城を囲み、橋を渡って入る。

 石垣は高く、苔むしていた。

 積まれた石の一つひとつに、時間がついていた。江戸時代から積まれた石が、今も崩れずに立っている。その重さと年数が、石の表面に染み出ていた。

 天守閣に上ると、今治の町が見えた。

 港、造船所のクレーン、商店街の屋根、住宅地。そして来島海峡。橋が見えた。今朝渡ってきた橋が、白い靄の中に伸びていた。

 澄花は欄干の前に立ち、その景色を見た。

 しばらく、黙っていた。慎也も隣に立った。

「兄は、この景色を見たんですね」

 澄花は言った。

「おそらく」

「同じ橋を見たんですね。橋の向こうの島々も」

「そう思います」

 澄花は風に髪を揺らしながら、言った。

「兄は生きることが、うまくじゃなかった。小さい頃から。感じすぎる人だった。何でも深く受け取って、返すのに時間がかかって。書くことが、返す方法だったんだと思います」

「書くことが、返す方法」

「受け取ったものを、言葉に変えて、出す。それが書くことだったんだと、日記を読んで思いました。だから書けなくなることは、受け取ったものを出せなくなることで、それが兄には一番つらかったんじゃないかと」

 慎也は澄花の言葉を、丁寧に聞いた。

 三枝のことを、こういう角度から考えたことがなかった。書けなくなることの意味を、書く側の体の構造から考えたことがなかった。

「原稿を返したとき、書き直しを求めました」

 慎也は言った。

「それが、書けなくなることに繋がったと思っています」

「そうかもしれません」

 澄花は言った。またしてもその率直さが、慎也を揺らした。

「でも、杉本さんが原稿を返さなくても、兄はどこかで詰まったかもしれない。それはわからない」

「わからないことが、ずっとわからないまま続くかもしれないと思っています」

「そうですね」

 澄花は静かに言った。

「私も、わからないままです。なぜ兄があの選択をしたか、本当のことは、誰にもわからない」

 来島海峡の風が、天守の上を通っていった。

 冷たく、湿っていた。でも昨日の嵐の風よりは、柔らかかった。


 天守を降り、城の庭を歩いた。

 冬の庭は花がなく、木の枝だけが空に伸びていた。でも松が数本、緑を保っていた。松の幹は曲がっていて、それが力強く見えた。まっすぐでなくても、立っている。

 堀の端に、ベンチがあった。

 二人で座った。

 澄花が切り出した。

「お願いがあります」

「なんですか」

「兄の最後の原稿を、続けて書いてほしいんです」

 慎也は、そう言われることをどこかで想定していた。来る前から、澄花の手紙を読んだときから、その可能性が頭の隅にあった。でもいざ言われると、言葉が出なかった。

「伯方島のノートの続きを」

 澄花は続けた。

「灯台守の物語の続きを。杉本さんに書いてほしい」

「なぜ、自分に」

「兄の日記に、杉本さんのことが書いてあった。何度も。嫌いとも好きとも書いていなかったけれど、何度も名前が出てきた。それだけ、杉本さんのことを考えていた。その人に書いてほしいと思いました」

「自分には、資格がありません」

 その言葉が、口から出た。

 ずっと思っていたことだった。三枝の原稿を切り捨てた人間が、三枝の書きかけた物語を続ける資格は、どこにもない。

「資格、ですか」

 澄花は繰り返した。

「三枝さんの物語を傷つけることになるかもしれない。続けることで、もともとの物語が別のものになってしまうかもしれない」

「そうかもしれません」

 澄花は言った。

「でも、誰かが続けなければ、あのまま途中で終わります。それでもいいとも思う。未完成のまま残ることが、正しいかもしれない」

 慎也は堀の水を見た。

 水面に城の石垣が映っていた。冬の空の白さも映っていた。

「でも」

 澄花は続けた。

「兄は、書こうとしていた。それだけは確かです。続きを書こうとしていた。その意志が、途中で止まった。その意志の続きを、誰かが受け取ることは、できるんじゃないかと思うんです」

 慎也は答えなかった。

 答えられなかった。

「すぐに決めなくていいです」

 澄花は言った。

「考えてください」

 堀の水が、風に揺れた。

 城の石垣が、水面の中で揺れた。


 午後、二人は別れて、別々に町を歩いた。

 慎也一人になると、今治の町の感触が変わった。

 澄花がいるときは、二人でいることを意識していた。でも一人になると、この町そのものが見えてきた。商店街の裏に入ると、細い路地があった。古い建物が続き、ところどころに植木鉢が置かれていた。誰かが手入れしている花が、冬でも咲いていた。葉牡丹の紫が、鮮やかだった。

 タオルの店があった。

 今治タオルを売る小さな店で、のれんが白かった。中に入ると、棚に色とりどりのタオルが並んでいた。手に取ると、柔らかかった。今治タオルは吸水性が高いと聞いていたが、その柔らかさが肌に馴染む感覚があった。

 白いタオルを一枚、買った。

 特に理由はなかった。でも何かを買いたかった。この町で、自分がここに来たことの証拠を、一つ持ちたかった。

 店を出て、また歩いた。

 港の方へ向かうと、造船所のドックが見えた。因島でも、向島でも見たドックだ。しまなみの島々を旅してきて、それぞれの島に造船所があることを知った。この海で生きてきた人々の産業が、どの島にもあった。鉄を叩く音が、今日も聞こえた。

 嵐が終わっても、造船所は動いていた。

 その当たり前が、今日は心強かった。


 夕方、慎也はホテルの部屋に戻った。

 今治のビジネスホテルだった。旅の間、島の民宿に泊まり続けていたから、ビジネスホテルの無機質さが久しぶりだった。白い壁、薄いカーテン、テレビ、冷蔵庫。どこにでもある部屋だった。

 テーブルにバッグを置き、三枝のノートを取り出した。

 最後のページを開いた。

 それでも今夜の灯りを。

 その続きを、書けるだろうか。

 慎也は自分に問いかけた。

 書くことと、書く資格があることは、別のことかもしれない。書く資格がなくても、書けることはある。書く資格があっても、書けないことはある。

 三枝の物語の続きを書くことは、赦されるためではない。

 それは昨夜、嵐の中で考えた。赦されるために書くなら、それは自分のための行為だ。矢野が言った、祈るのは自分のためだ、という言葉と同じことになる。

 では、何のために書くのか。

 三枝が書こうとしていたからか。

 澄花が望んでいるからか。

 それも自分以外の何かのためになる。他人のために書く、というのも、どこかで自分の動機と交差している。純粋に他者のためだけに書けるかどうかは、わからない。

 慎也はノートを閉じ、自分のノートを開いた。

 この旅で書いてきた問いのノートだ。尾道で書いた最初の一行から、大島で書いた言葉まで、断片的な問いが並んでいた。

 最後のページの余白に、ペンを走らせた。

 「書くことは赦されるためではない。では何のためか」

 書いて、止まった。

 答えが、出なかった。

 でも問いを書いた。書いたことで、少し外に出た。

 窓の外に、今治の夜の町が広がっていた。港の灯り、ビルの灯り、車のヘッドライト。島の夜とは違う、密度のある光の集まりが、窓の向こうにあった。

 その光の中に、来島海峡大橋がかすかに見えた。

 渡ってきた橋が、夜の中に白く浮いていた。


 夜、澄花と電話した。

 澄花は別のホテルに泊まっていた。互いの場所を聞き合い、それから話した。昼間の続きではなく、別の話になった。

「兄の子供の頃のことを、聞いてもいいですか」

 慎也は言った。

「もちろん」

 澄花は話した。

 三枝拓海は、幼い頃から本を読む子どもだったという。小学校の図書室の本を、学年が終わるまでに全部読んでしまう子どもだった。読むだけではなく、読んだものについて誰かに話したがった。話す相手を求めていた。でも話せる相手が、あまりいなかった。

「クラスで浮いていました」

 澄花は言った。

「悪い子ではなかったけれど、話の速度が合わない。深く行きすぎる。相手が疲れてしまう」

「書き始めたのは、いつですか」

「中学です。話す相手がいないから、書くことにしたんだと思います。書けば、いつか誰かに届くと思って」

 慎也は聞きながら、三枝の文章のことを考えた。あの文章の独特な呼吸は、そういう子供時代から来ていたかもしれない。話す相手のいない子どもが、届くはずの誰かに向けて書き続けた文章。

「届きましたか、誰かに」

「届いた人は、いたと思います」

 澄花は言った。

「少なかったかもしれないけれど、いた」

「自分には、届いていました」

 慎也は言った。

 言った後で、その言葉の重さを感じた。本当のことだった。三枝の文章は、確かに慎也に届いていた。売れないと判断しながら、届いていた。その矛盾を三枝は受け取れなかった、と澄花は昨夜言った。

「届いていたのに、伝えられなかった」

 慎也は続けた。

「それが、後悔しています」

 電話の向こうで、澄花が少し間を置いた。

「それを聞けてよかったです」

 澄花は静かに言った。

「ありがとうございます」

 礼を言われるとは思っていなかった。

 慎也はしばらく言葉が出なかった。

「続きを、書きます」

 気づくと、そう言っていた。

 決めたわけではなかった。でも口から出た。口から出た言葉は、慎也の中のどこかで決まっていたことだと、言った後でわかった。

「資格がないことは、変わりません」

 慎也は続けた。

「でも、三枝さんが書こうとしていたことを、自分が引き受けることは、できると思います。引き受けることが正しいかどうかは、わからない。でも、書かないよりは書く方を選びます」

「それでいいです」

 澄花は言った。

「それだけでいいです」

 電話を切った後、慎也は部屋の中にしばらく座っていた。

 書く、と言った。

 言ったことが、現実になった気がした。言葉にしたことで、実体を持った気がした。


 深夜、慎也は自分のノートを開いた。

 問いのノートではなく、白紙のページに向かった。

 ペンを持ち、止まった。

 三枝の物語の続きを書こうとした。灯台守が、今夜の灯りを灯そうとしていた。その続きを。

 でも手が動かなかった。

 書こうとしていた言葉が、口の中で形を作れなかった。灯台守のことを書こうとすると、三枝のことが先に来た。三枝が何を書こうとしていたかを想像しようとすると、自分が何を書けるかがわからなくなった。

 慎也はペンを置いた。

 今夜は書けなかった。

 それでよかった、と思った。今夜書けなくても、明日書けないわけではない。明日書けなくても、また別の日がある。三枝は何度もこの旅をして、書き続けた。一度の旅で書けなかった続きが、次の旅で書けることもあったかもしれない。

 慎也にも、この後が続く。

 今治で終わりではない。この旅は終わるが、旅が終わっても日々は続く。東京に戻り、また何かを始める。何を始めるかは、まだわからなかった。でも書く、という言葉を言った。言葉にしたことを、次の行動に繋げる責任が、今の自分にはあった。

 窓の外の来島海峡大橋が、まだ光っていた。

 深夜になっても、橋の灯りは消えなかった。

 橋は、渡る人のためだけでなく、見る人のためにも光っている。自分が今いる場所から、来た道の先を見るための、光の目印として。

 慎也はノートに最後に書いた。

 「書くことは赦されるためではない。書くことは、灯りを灯すことだ」

 答えを書いたつもりはなかった。

 でもそれが今夜の、自分の言葉だった。

 ペンを置き、ノートを閉じた。

 橋の灯りが、窓の向こうに静かにあった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ