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第二章 向島

 渡し船は、三分で着く。

 尾道と向島を隔てる水道の幅は、わずか二百メートルほどだ。橋でも渡れるが、自転車なら渡し船の方が早い。百円を払い、ロードバイクを押して乗り込むと、甲板にはすでに四、五人の先客がいた。学生服の少女がひとり、自転車のハンドルを握りながら海を見ていた。作業着の男がふたり、言葉を交わさずに並んで立っていた。老婆がひとり、膝に買い物袋を乗せて腰かけていた。

 誰も、慎也を見なかった。

 船が動き出すと、尾道の岸壁がゆっくりと遠ざかった。

 慎也は振り返った。老人が言った通り、来た道が見えた。坂の上に古い家々が重なり、その上に山があり、山の斜面に寺が張り付いていた。朝の光が斜めに差し込んで、町の影と光の境界がくっきりしていた。尾道はこちらを見ていなかった。ただそこにあって、朝の中にいた。

 二百メートルの水が、世界をひとつ隔てた。

 向島の岸壁が近づいてきた。

 船を降りた瞬間に、何かが軽くなった気がした。

 うまく説明できなかった。重力が変わったわけでもなく、荷物は昨日と同じ重さだ。でも足が地面に触れた感触が、少しちがった。尾道で踏んでいた地面とは、別の地面だ。当たり前のことだが、それが妙に新鮮だった。ここは島だ。四方を海に囲まれた、尾道でも今治でもない場所。慎也の過去を知っている人間は、ここには誰もいない。

 それを軽さと感じた。

 あるいは、そう感じたかっただけかもしれない。


 向島に入ると、しばらくは道沿いに造船所が続いた。

 巨大なドックが海際に並び、鉄の臭いが漂っていた。クレーンが空に突き出ていた。まだ朝の早い時間だったが、どこかで金属を叩く音が聞こえた。規則的な音ではなく、思い出したように鳴って、また止んだ。島の産業が、こちらの都合に関係なく動いていた。

 道を外れて海側に出ると、波が小さく寄せていた。

 瀬戸内の海は穏やかだと聞いていたが、本当に穏やかだった。波というより、水面が呼吸しているような動きだ。対岸の尾道はまだ見えた。来た場所が見える、という感覚は不思議だった。逃げてきたのに、逃げた先からも見える。

 自転車を停め、慎也はしばらく水を見た。

 潮の匂いが濃かった。磯の生臭さと、どこかから流れてくる油の匂いが混ざっていた。造船所の匂いだろう。それは不快ではなかった。むしろその混ざり具合が、ここの正直さのような気がした。観光地として整えられた匂いではなく、この島が実際にやっていることの匂いだ。

 島の内陸へ入ると、みかんの畑が広がった。

 向島はみかんの産地だと、出発前に調べて知っていた。畑は段々になって山の斜面を覆い、一月を過ぎた今も実がいくつか残っていた。収穫されなかったのか、それとも木守りとして残されているのか、橙色の丸いものが青い空の下でぽつぽつと光っていた。葉の緑が濃く、冬の光の中で妙に鮮やかだった。

 道は細くなり、舗装が古くなった。

 ところどころ苔が出て、タイヤが滑らないように慎重にペダルを踏んだ。両側に石垣が続き、石垣の上から雑草が垂れ下がっていた。曲がり角を曲がるたびに、また別の景色が現れた。農機具の置き場、錆びた郵便受けが並ぶ民家の列、誰もいない公民館の駐車場。

 何かが生きている気配と、何かが止まった気配が、交互に現れた。


 民宿の看板を見つけたのは、昼をすこし過ぎた頃だった。

 手書きの看板で、「民宿 潮の家」とだけ書かれていた。矢印の先に進むと、海を見下ろす小高い場所に木造の建物があった。白い壁が日焼けして薄黄色になっており、縁側に洗濯物が干されていた。花柄のエプロン、紺色のタオル、何かの作業着。生活の証拠が、風にゆれていた。

 予約はしていなかった。しまなみ海道の宿は、オフシーズンなら飛び込みでも泊まれると読んだことがあった。

 チャイムを押すと、すぐに出てきた。

 四十代と思われる女だった。背が高く、動きがきびきびしていた。髪を後ろで束ね、エプロンをしていた。顔立ちは整っていたが、それより目が印象的だった。何かを見るとき、焦点が少し定まらないような目。焦点が合っているのに、どこか見ていないような。

「泊まれますか」

「泊まれますよ」

 彼女は間を置かずに答えた。

「一泊でいい?」

「ええ、そのつもりで」

「夕食は食べていきますか」

「はい、お願いします」

「じゃあ入って」

 それだけの会話で、慎也は招き入れられた。

 玄関に入ると、畳の匂いがした。廊下に小さな棚があり、貝殻がいくつか並んでいた。奥から魚を煮る匂いがした。女将と呼べばいいのか、彼女は靴を揃えながら言った。

「ここは私ひとりでやってるから、至らないことがあっても許してね」

 名前を聞かれた。

「杉本といいます」

「杉本さんね」

 彼女は繰り返した。

「私は岡本よ。岡本幸恵」

 差し出された手を、慎也は握った。乾いた、強い手だった。


 部屋は二階だった。

 六畳の和室で、窓から海が見えた。桟橋の先に、水平線があった。空と海の境界が、午後の光の中でぼんやりとにじんでいた。机の上に湯呑みと急須が置かれていて、押し入れにはきちんと畳まれた布団があった。壁には何も掛かっていなかった。何もないことが、かえって落ち着いた。

 荷物を置き、顔を洗い、慎也はしばらく窓の前に立った。

 海を見ると、考えがゆっくりになる気がした。東京では考えが速かった。スケジュール、企画書、会議、数字。何かを処理し続けていた。でも海の前では、思考が潮の速さに合わせる。来ては返す、来ては返す。それだけのことを繰り返す。

 ポケットの封筒に触れた。

 三枝澄花の手紙と地図。向島にも丸印があった。島のどこかに、何かがある。あるいは何もないかもしれない。でも澄花はここに印をつけた。理由があるはずだ。

 しかし今日は探す気になれなかった。

 いや、正確には、今日探すことが正しいのかどうかがわからなかった。自分には、三枝の最後の原稿を探す資格があるのか。その問いが、朝から底に沈んでいた。足を踏み出すたびに、沈んだものが少しだけ浮いてきた。

 窓を開けると、潮風が入ってきた。

 遠くで船の汽笛が鳴った。


 夕食は食堂で出てきた。

 一階の奥、テレビが置かれた六畳ほどの部屋にテーブルがあった。慎也のほかに客は一組いた。老夫婦で、しまなみを車で旅しているらしく、食事の間中、どこのサービスエリアがよかったかという話をしていた。

 岡本幸恵は料理を運んできながら、合間に慎也の隣に座って話をした。

「東京から来たって言ってたわね」

「ええ」

「仕事は?」

 慎也は一瞬止まった。

「今はただの旅行者です」

「今は、ね」

彼女は繰り返した。

「前は何してたの」

「……出版社にいました」

「本を作ってたの?」

「編集者でした」

「へえ」彼女は特に驚いた様子もなく、魚の皿を慎也の前に置いた。

「私も昔、本に関係した仕事してたのよ」

「図書館ですか」

「違う違う」彼女は笑った。

「書店。丸の内の大きな書店。平台担当だったから、何を前に出すかずっと考えてた。売れそうな本、売りたい本、どっちを前に出すか」

「どちらを出してたんですか」

「売れそうな本に決まってるじゃない」

 彼女は言った。

「でも、たまに売りたい本も混ぜてた。上司に怒られながら」

 慎也は魚に箸をつけながら、

「今はここで民宿を?」

と言った。

「そう。夫が死んでからここを引き継いで。夫の実家の宿だったの」

「長いんですか」

「十年かな。それ以上かも。正直、よく覚えてない」

 彼女は笑った。

「毎年似たような日が続くから、どこがどこかわからなくなってくる」

 魚は白身で、出汁の味がした。みかんを使った甘酸っぱいたれがかかっていた。香ばしく、それでいて繊細だった。慎也は久しぶりに、食べ物の味をしっかり感じた気がした。

「おいしいです」

「そう」

 岡本幸恵は素っ気なく言って、台所に引っ込んだ。


 食事の後、縁側に出ると、彼女が煙草を吸っていた。

 慎也が来ても驚かず、

「吸う?」

と一本差し出した。断ると、

「そう」

と言って煙を吐いた。夜の海が、縁側の先に広がっていた。島の灯りが水面に映り、揺れていた。

 慎也は縁側の縁に腰かけた。しばらく、ふたりで黙っていた。

 沈黙は不快ではなかった。岡本幸恵の沈黙には、埋めなければならない圧力がなかった。彼女はただ煙草を吸いながら、夜の海を見ていた。

「ここには何度も来るお客さんがいるの?」

と慎也は聞いた。

「いるわよ。毎年来る人も」

「この島が好きで来るんですか」

「さあ」彼女は煙草の灰を落とした。

「聞いたことないから。でもたぶん、島が好きというより、ここに来ると何かを忘れられるんじゃないかしら。東京から来る人は特に」

「忘れに来る、ですか」

「逃げてくる、って言う人もいた」彼女は横を向いて、慎也を見た。

「あなたは?」

 慎也は答えをすこし考えた。

「どちらかといえば、逃げてきた方かもしれません」

「正直ね」彼女は言った。

「たいていの人はそう言わないのに」

「言えた方が楽だと思って」

 それは本当のことだった。でも本当のことをどこまで言えるかは別の話で、慎也は三枝のことには触れなかった。触れれば話が続く。話が続けば、自分が何をしたかを語らなければならない。

 逃げてきた、という一言だけが、今夜の自分の本当だった。


 岡本幸恵は話しながら、経歴を変えた。

 最初は書店員だと言った。次に、書店の前は教師をしていたと言った。中学で国語を教えていた、と。慎也は特に矛盾を指摘しなかったが、しばらくして彼女が

「昔、小さなライブハウスで歌ってたことがある」

と言ったとき、少し引っかかった。

「書店の前は教師で、その前は歌手だったんですか」

「歌手じゃないわよ、ただ歌ってただけ。プロじゃない」

「それは……書店員の前ですか、教師の前ですか」

 岡本幸恵は一瞬、目を細めた。それから笑った。笑い方が、少し投げやりだった。

「細かいわね」

「すみません」

「いいのよ。つじつまが合ってなくても、話してる方は楽しいんだから」

 慎也はその言葉をそのまま聞いた。

 彼女が嘘をついているのか、記憶が混乱しているのか、それとも意図的に話を作っているのか、判断できなかった。でもどこか、嘘をついている人間の顔ではなかった。もっと複雑な何かが、あの焦点の定まらない目の奥にあった。

 夜が深くなる頃、老夫婦が部屋に引き上げた。

 慎也も立ち上がろうとすると、岡本幸恵が言った。

「本当のことばかり言う人って、信用できないのよ」

 突然の言葉だったが、唐突な感じはなかった。ずっとそれを言いたかったように聞こえた。

「なぜですか」

「本当のことだけ話す人は、自分を守るために本当のことを使ってる。本当のことを言ってます、って顔をすることで、何かを隠してる」

 慎也は返す言葉を持たなかった。

 自分が今夜話した本当のことと、話さなかったことを、頭の中で並べてみた。逃げてきた。編集者だった。今はただの旅行者だ。全部本当だ。でも三枝拓海のことは言っていない。言えなかった。

「私はたまに嘘をつくけど」

 岡本幸恵は言った。

「隠したいものは隠さないために嘘をつく。わかる?」

「少しだけ」

「少しわかれば十分よ」

 彼女は縁側から立ち上がり、煙草の吸い殻を灰皿に押しつけた。

「おやすみなさい」

と言って、廊下に消えた。


 部屋に戻り、慎也は机の前に座った。

 ノートを開いた。何も書けなかった。書こうとすると、岡本幸恵の言葉が邪魔をした。本当のことばかり言う人は信用できない。隠したいものを隠さないために嘘をつく。

 彼女が正しいのかどうか、慎也にはわからなかった。

 ただ、自分が今夜ここにいられたのは、本当のことを全部言わなかったからだ、という感覚はあった。

「今はただの旅行者です」と言ったとき、少しだけ楽になった。その言葉は嘘ではなかったが、全部でもなかった。全部を言えば、ここにいられなかったかもしれない。

 嘘でしか、ここにいられない。

 その言葉が、自然に浮かんだ。

 嘘というのは正確ではない。省略と言った方が近いかもしれない。でも何かを省略することで、今いる場所に留まれるというのは、本当のことだった。三枝拓海の担当編集者だったと言えば、なぜここにいるのかを説明しなければならない。説明すれば、罪悪感の話になる。罪悪感の話をすれば、赦されたいという自分の欲望が顔を出す。

 それを、この宿の縁側でするべきではなかった。

 窓の外で、海が動いていた。

 向島の夜は静かだった。尾道より静かだった。船の音さえ聞こえなかった。波の音だけが、規則正しく続いていた。来ては返す、来ては返す。

 慎也はノートに書いた。

 「嘘と省略の、どちらが誠実か」

 答えを書けるつもりはなかった。それでも問いを書くことで、何かが少し外に出た気がした。

 布団を敷き、横になった。

 天井に、窓から入る月の光が映っていた。長方形の白い光が、ゆっくりと移動していた。慎也はその光を眺めながら、今夜の岡本幸恵の言葉を繰り返した。本当のことばかり言う人は信用できない。

 彼女はいくつもの経歴を語りながら、それでも何かの真実を語っていたのかもしれない。どの経歴が本当でも嘘でも、彼女がここで十年以上、ひとりで宿をやっているということは変わらない。夫を失って、この島に留まって、毎年似たような日が続いて、どこがどこかわからなくなっていく。

 それが彼女の、省略できない部分だ。

 慎也は目を閉じた。

 眠れるかどうかわからなかったが、昨夜よりはましな気がした。


 早朝、出発前に縁側に出ると、海が光っていた。

 朝の瀬戸内は、前日とは別の海のように見えた。昨夜の暗い水面が、今は白金色に輝いていた。対岸の山の輪郭がくっきりして、空の青が深かった。どこかでカラスが鳴き、それから静かになった。

 岡本幸恵はすでに台所に立っていた。

 朝食は質素だった。ご飯、味噌汁、焼き魚、漬物。それだけだったが、温かかった。慎也は黙って食べた。彼女も特に話しかけてこなかった。昨夜の縁側とは別の時間のように、朝の台所では互いに静かだった。

「また来ますか」

 精算のとき、彼女は聞いた。

「わかりません」

 慎也は答えた。

「でも、来るかもしれません」

「来たら泊めるわよ」

 彼女は言った。

「覚えてるかどうかはわからないけど」

「名前は言います」

「それだけあれば十分」

 玄関で靴を履きながら、慎也は少し迷ってから言った。

「ここにくる前、尾道の古本屋に立ち寄りました。三枝拓海という作家の本を買って」

「知らない名前ね」

「もう亡くなった作家です。あまり売れなかった人で」

「そう」

 岡本幸恵は慎也を見た。

「大事な人だったの」

 慎也は答えを探した。

「……大事にしなかった人、かもしれません」

 彼女はその答えを聞いて、少しの間、黙っていた。それから

「そういう人の方が、残るのよ」

と言った。

「残る、ですか」

「心に。大事にした人より、大事にしなかった人の方が、ずっと長く引っかかる。あなた今、すごく引っかかってる顔してる」

 慎也は何も言えなかった。

 岡本幸恵は玄関のドアを開けてくれた。外の光が入ってきた。

「気をつけて行って」

「ありがとうございました」

 自転車にまたがり、坂を下りながら、慎也は一度だけ振り返った。

 岡本幸恵は玄関の前に立っていた。エプロン姿で、朝の光の中に。こちらを見ているのか、空を見ているのか、あの焦点の定まらない目では判断できなかった。

 慎也は向き直り、ペダルを踏んだ。


 次の島、因島へのルートは、海沿いに続いていた。

 道の左手に瀬戸内の海があり、冬の光がその上に平らに広がっていた。みかんの畑が丘の上に続いて、橙色の実がいくつかまだ木に残っていた。造船所のクレーンが遠ざかっていった。

 向島は、ゆっくり後ろへ流れていった。

 嘘と省略の話を、慎也はまだ考えていた。

 大事にしなかった人の方が、ずっと長く引っかかる。

 その言葉が、ペダルを踏む度に蘇った。波のように。



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