蛍の恋
青から紫、そして薄紅色……そこかしこに咲き誇る紫陽花の、夢見るように移り変わる色彩のグラデーションをぼんやりと眺めていると、どこか異世界に誘われるような気がして、目が眩みそうになる。
故郷の家の側に祀られている、古い小さなお地蔵様の横に、祖母の育てた紫陽花が、毎年鮮やかな青い花を咲かせていた。
祖母は時折その花を切り、新聞紙でふわりと包んで登校する私に持たせてくれた。
梅雨時の教室に、晴れた空のように青い一朶の花が涼やかで、どんよりとした季節の一服の清涼剤であった。
そんな思い出のせいか、私はこの花が好きなのである。
紫陽花の寺で名高い、宇治の三室戸寺に行ってみたいと思ったまま、まだ行けずじまいだった。ライトアップされた夜の花園は幻想的で、昼間見るそれとはまた違った妖しさと色気があるのだそうだ。
京都には名所が数多あるのに、いつでも行けるからと高を括って後回しにしているうちに、学生生活も、もうあと一年を切ってしまった。
私がここで暮らせる時間はあと僅かかも知れないし、自らの決断一つでもっと長く、ともすれば一生ここに住むこともできるかも知れない。
しかし、両親は、私が当然故郷へ帰って来るものと思っているし、妹からも、伊勢で一緒に暮らそうと言われている。
どうするかは、自分で決めなければならない。
美彩と咲子は、故郷へ帰って就職すると言っている。
地元京都出身の綾は、手に職を付けるべく、短大卒業後さらに看護専門学校へ進学するつもりだと話していた。
皆、それぞれの道を歩む準備を始めているのだ。
それは、私たちだけではなく、葛西さんや奥田さんたちバレー部の四回生も同じで、卒論や就職活動を考えれば、そろそろ部活だの麻雀だのに明け暮れている場合ではないはずである。
奥田さんの部屋に頻繁に出入りしていた四回生たちは、やはりそれぞれ忙しいのか、最近は麻雀に姿を見せなくなっていた。
また、後輩たちもさすがにそこは弁えているらしく、たまに遊びに来るのは、奥田さんと同じアパートの藤崎くんだけになっていた。
そんな中、私は、相変わらず週に二日は奥田さんの部屋を訪ね、彼と葛西さんに麻雀の手解きを受けていたのだ。
甚だ呆れた迷惑な奴である。
私は、今までこんな風に誰かに教えを請うことも、年上のひとに甘えることもしたことがなかった。
三姉妹の長女として跡取り娘として、我儘は言わず、人から頼られる人間になるようにと躾けられた。そして、いつしかそのように振る舞うことが身についていた。
子ども時代は学級委員や生徒会役員などを仰せつかることが多かったし、「しっかりしている」と褒められることもよくあった。
しかし、それは相当気を張って体面を保っているときの姿であって、本来の私はリーダータイプではない。
誰かの後をついて行く方が性に合っているのだ。
それゆえに、まるで二人の優しい兄がいるようなこの状況が楽しく、居心地が良過ぎたのかも知れない。
ところで、私が麻雀を始めてからかれこれ半年ほど経つが、さほど上達はしていない。
先輩二人に教えて貰っていながら、この体たらくなのである。
「佳也ちゃんは、高い手で和了ろうとし過ぎやで」
葛西さんや奥田さんには、いつもそう言われてしまう。
「大三元」「九蓮宝燈」「国士無双」……そういった派手な役で和了るのは、簡単なことではないとたしなめられるのだ。
確かにそうなのだが、私は、真面目で堅物な割には、どこか大雑把でせっかちで、地道な努力が苦手な人間である。
それゆえ、小さな手でコツコツと勝ちを積み重ねるやり方をつまらないと感じ、わかりやすく、派手な役でドカンと勝とうとしてしまう。
しかし、そんな全く言う事を聞かない、教え甲斐のない人間を相手にしているにも関わらず、二人はいつも優しく、私の気が済むまで付き合ってくれた。
と言うより、『何を言っても無駄だから、もう好きなように打て』と思われていたのだろう。
その日、奥田さんの部屋に最後まで残っていたのは私と葛西さんだけだった。
さっきまでいた藤崎くんは、遠距離恋愛中の彼女に電話する約束があるそうで、少し前に帰ってしまった。
暫くは三人で打っていたのだが、そろそろお開きにしようかと葛西さんが言ったため、九時前という、いつになく早い時間に、奥田さんの部屋をお暇した。
葛西さんと私は、二人並んで坂道を歩いた。
途中まで帰り道が同じなのだ。
私の住むアパートへと向かう上り坂には、いくつかの分かれ道がある。
葛西さんの住むアパートは、ここから二本目の分かれ道を左に折れて暫く行ったところにあるらしい。
今日は珍しく、余裕をもって門限までに帰れると思っていたのだが、私は、この機会に以前からもやもやしていたことを、思い切って葛西さんに訊ねてみようと思った。
しつこいようだが、いまだに少し疑心暗鬼になっているのだ。
件の私に関する悪い噂を、葛西さんや奥田さんまでもが信じているのではないかと。
私に優しくしてくれるのも、本当は上辺だけのものなのではないか……そんな風に疑ってしまう気持ちを拭い去れないでいた。
「葛西さん……ちょっと聞いてもいいですか?」
「ん、なんや? どうしたん?」
私を見る、その柔らかな表情や、深く優しい声のトーン。
彼の全てがほっこりと温かく、この人は上辺を取り繕って嫌いな人間と付き合えるような、そんな器用な人ではないことが一瞬で分かる。
むしろ、嫌いな人間など彼にはいないのではないだろうか。
それなのに、私はなぜこんなにも怯えているのだろう。
傷付くことが多すぎて、悲しいほどに捻くれてしまったのだろうか……この優しさを、丸ごと信じて裏切られるのが怖い。
「……私の噂って、聞いてますか?」
「ん?」
「優子さんを虐めてるとかって……」
「いや……知らん。なんやそれ? 佳也子ちゃんそんなことせんやろ?」
「はい……でも、それを信じてる人もいると思います……」
「……」
私は、うっかり涙を零さぬよう、目元に力を込め、唇をぎゅっと結んだ。
葛西さんは、そんな私を暫く黙って見ていたが、ふと、何かを思い付いたような顔をしてこう言った。
「佳也子ちゃん、蛍、見に行かへんか?」
葛西さんが言った台詞は、突拍子もないものだった。
「え?」
「ここからちょっと行ったとこに、有名な蛍の名所があるんや」
「そうなんですか?」
「うん。確か今の時期が見頃やし、時間も丁度ええと思う」
「行ってみたいです。私、蛍見たことないんですよ」
「よし、じゃあ行こか! そしたら一緒に俺のアパート来てくれる? 車取りに行きたいし」
「はい!」
葛西さんの白いセダンの中は、いつもすっきりと清潔で、微かなシャボンの匂いがする。
車が好きだと聞いたことがあるから、きっと大切に手入れして乗っているのだろう。
それに、彼は運転が上手い。
アクセルもブレーキも、いつ踏み込んだのか分からないくらい操作がスムーズだし、ステアリングさばきも滑らかだ。
車酔いしやすいマネージャー仲間の咲子など、遠征があるときはいつも葛西さんの車に乗りたがるほどである。
その優しい運転は、同乗する人への配慮でもあるのだろう。
ぐねぐねと曲がりくねった山道を行くが、彼の運転はやはりスムーズで、少しも酔ったりしなかった。
目的地は、もうすぐそこらしい。
それにしても、麻雀のときは、至近距離でアドバイスを貰っているくせに、こうして彼の運転する車の助手席に座っていると、何だか変な気分になる。
蛍狩りに誘うなど、葛西さんは何を考えているのだろう。
あまりにもらしくなく、ロマンティック過ぎやしないだろうか。
(もしかして……まさか、ありえへん)
私は、何を期待しているのだろう。
(そやけど、そのまさかやったらええのに……)
ふと、そんなことを考えてしまう自分に焦る。
やめよう。馬鹿みたいなことは考えないでおこう。
民家と田畑しかないような場所に、目的地の川はあった。
道路の端に車を停め、その川に掛かる橋の上まで並んで歩いた。
「ここからが一番よく見えるらしいで……」
葛西さんが小さな声でそう囁いた。
他にも、カップルらしき男女や、何組かの親子連れでそこそこ賑わっていたが、みんな声を潜めて会話しているせいか、とても静かだった。
「うわ……」
私は、思わず息を呑んだ。
草の生い茂る暗い川面に、無数の光の粒が、ふわりふわりと糸を引くように舞い上がり、舞い降り、行き交い、明滅する。
そのねっとりと不規則な動きは、まるで、何かを伝える意思を持っている小さな星たちのようだとも、人魂のようだとも思えた。
温度があるような、ないような、そんな妖しい光が乱舞する様は、この世ならざる美しさであった。
「綺麗やな……」
葛西さんがぽつりと呟いた瞬間、認めざるを得なかった。
私は、この人が好きなのだと。
どうしよう……
指先を伸ばせば、その手に触れることができるほど近くにいるのに、それをしたらきっと、この幸せが壊れてしまう。
この恋は、叶わないと知っている。
誰に言われなくても、そんなことは分かっているのだ。
彼が私を見る目は、恋している男のそれではない。
でも、それならばなぜ、この男は私をこんな場所へと誘ったのだろう。
はたして、落ち込んでいる後輩を慰めるだけのために、この特別な場所を選ぶだろうか。
私は、何を自分の都合の良いように考えようとしているのだろう。
それとも、少しだけなら期待しても良いのだろうか……
◇◇
あの蛍狩りの夜からひと月ほど経ったある夏の日の朝、蒸し暑い空気を切り裂いて、私は走っていた。
坂道を下る脚は、羽根が生えているかのように軽い。
一晩中考えた。いや、あれからずっと考えていた。
そして決めたのだ。
居ても立っても居られないくらい、この気持ちを伝えたかった。
彼はまだ眠っているだろうか。
こんな早朝の訪問など、きっと迷惑千万なことだろう。
でも、たった一度きりのことだから許して欲しい。
どうせダメなのだから、嫌われたっていい。
そんな高揚した気分のまま、ただただ走った。
鈍足なはずの私の脚が、とてつもなく軽く感じたのを覚えている。
弾んだ息を整えて、玄関のベルを押した。
思ったよりもずっと早く扉を開けてくれた葛西さんは、ぼんやりとした寝起きの顔に、毛玉の付いたくたびれたスウェットの上下、後頭部にはぴょこんと寝癖がついたままだった。
「……佳也子ちゃん?」
「葛西さん、好きです!」
「えっ……」
「ずっと好きでした!」
「えっ、いや……っ、えっ?」
「朝っぱらから驚かせてしまってすみません!」
「いや、大丈夫やで。そやけど……」
「それが言いたかっただけなんです。葛西さんにどうして欲しいとかはないんです」
「……」
「そやから私、これで帰りますね!」
私は、くるりと踵を返して走り去ろうとした。
急に我に返り、これ以上ここにいるのは恥ずかしくて堪らなくなったのだ。
振るなら今すぐ振ってくれてもいい。
「……佳也子ちゃん、待って」
「……」
「今晩電話する。それでちゃんと返事するわ」
◇◇
夜八時をまわった頃、電話のベルが鳴った。
私の心臓は、ドクンっと跳ね上がり、受話器を取る手は震えていた。
食事は喉を通らず、お風呂にも入らず、ただひたすら、葛西さんからの返事を待っていたのだ。
「佳也子ちゃん? 俺、葛西です。あの、今朝の返事させてもらお思て……」
「……はい」
「あんな……」
「やっぱり聞きたくないです」
「いや、聞いて」
「無理です」
「……」
「聞きたくないんです」
「……ごめんな」
「……」
「佳也子ちゃんのこと、ええなと思ってたことも正直言うとある。せやけど、今はもう友だちって言うか、可愛い妹っていうか……」
「……はい」
「ごめんな……」
「……いいんです。分かってました」
「ホンマ、ごめん」
「告白したときは、振られてもいいって思ってたのに、こっちこそごめんなさい」
「……」
「ちゃんと返事貰えて嬉しかったです。ありがとうございます」
「こっちこそありがとう。俺も嬉しかったで」
電話を切った後、私は、ほんの少しだけ泣いた。
恋を恋と自覚した瞬間、終わった恋だった。
まるで、儚い蛍の命のようだと思った。
こんな短い、心の通い合うこともない恋しかできない私は、いつになれば運命の人と巡り会えるのだろう。
そんな頼りない気持ちに、夏だというのに心が薄ら寒くなる。
しかし、人生初めての愛の告白をしたことについては、後悔など全くなく、不思議な爽快感すら感じているのだ。
私は、ちゃんと人を好きになれる。
こうやって、想いを告げる勇気まである。
その事実が、自分を愛する力になると思えたのだった。