誤解
満開の桜は、先週の風雨で跡形もなく散ってしまった。
私という人間への評価も、桜の花びら同様、地に落ちて茶色く朽ち果ててしまったような気がする。
去年の今頃は、花の新入生として持て囃され、これから始まる新しい生活への希望に満ちていたというのに。
学生生活は、単位の取得も人間関係も全く問題なく平穏そのものだった。
部活のことくらいで評価も何も大袈裟過ぎるだろうと、自分で自分を慰めるのだが、やはりなかなか割り切れないものがある。
なぜなら、故郷を離れ、見知らぬ土地で暮らすようになってから、一番親しく交流を深めてきたのが、バレーボール部の仲間たちなのだから。
この一年間の嬉しいことも悲しいことも、思い出の多くが部活での出来事に繋がる。
それだけに、仲間内で囁かれているらしい、自分の悪い噂には大いに傷ついていたのだ。
そのことについては、何も解決せぬまま新年度を迎え、私は短大の二回生に進級し、先日、二十歳の誕生日を迎えた。
立ち上る紫煙が、穏やかな四月の青空に溶けてゆく。
アパートのベランダの手すりにもたれながら、細いメンソール煙草を燻らせる化粧っ気のない童顔の私は、知らない人から見れば、ただの粋がっている中学生に見えるかも知れない。
祖父も父もヘビースモーカーなせいか、私は煙草の匂いには幼い頃から慣れていた。
しかし、元来真面目が服を着て歩いているような性格ゆえ、未成年での喫煙など考えたこともなく、高校時代、こそこそと煙草を吸っている同級生たちをどこか冷ややかな目で見ていたのだ。
とは言え、今の私は酷くやさぐれていた。
とことんスレた女になってしまおうと思っていた。
二十歳を迎えてから初喫煙するという、いたって真っ当ではあるが、どこか背徳的な行為で、そのやさぐれた気持ちを表そうとしていた。
部活の先輩である優子さんを虐めているという、バカバカしい濡衣を着せられていることは、美彩にも、咲子や綾にも相談していない。
彼女たちだけは、私をそんな目で見ていないはずだと信じている。
なぜなら、いつも私と優子さんの一番近くにいる彼女たちなら、私がそんなことをしていないということは百も承知のはずだから。
彼女たちに相談したとて、「早く誤解が解けるといいね」としか言いようがないだろう。
問題は、噂の出どころだと藤崎くんから教えて貰った水沢さんや、その同級生である葛西さんや奥田さんたち今年の四回生と、松宮さんたち三回生、そして藤崎くんと同じ二回生の部員たちである。
まさか、今年の新入部員たちにまで「あのマネージャーはふしだらな女で、虐めまでしてる」などと、おかしなデマを吹き込んではいないと信じたい。
ましてや優子さん本人には、「私があなたを虐めてるって噂、知ってますか?」などと聞けるわけもなく、以前となんら変わらぬ先輩後輩としての付き合いを続けていたのだった。
ちなみに、優子さんと松宮さんは、おおっぴらにイチャイチャするようなことはなかったが、交際は続いているようだった。
しかし、私にとってそれはもう全くどうでも良いことで、相変わらず奥田さん宅での徹夜麻雀に夢中になっていたのだ。
いつも集まる面子の中にも、悪い噂を信じて、私のことを疑っていたり、嫌っていたりする人もいるのでは……と、モヤモヤした気分が晴れることはなかったのだが、麻雀が上手くなりたいという気持ちの方が、そのモヤモヤを凌駕していたのだから、どれだけ熱中していたのか計り知れない。
ところで、奥田さんと美彩は今はもうすっかり疎遠になってしまっていた。
いや、普通に会話はしているが、家に遊びに行くような密な付き合いはなくなったということだ。
それは、二ヶ月ほど前のある出来事がきっかけだった。
◇◇
バレンタインデーを過ぎ、あと十日ほどで三月という頃のこと。
遅めの夕飯の後、テレビを観ながらダラダラとしていた私は、電話で美彩に呼ばれて一階の彼女の部屋に向かった。
彼女はいつもと変わらぬ様子で、小さなテーブルに向かい合って座る私の前に、お茶請けの煎餅の載った菓子皿と、淹れたての緑茶の湯呑をコトンと置いた。
「奥田さんに告白したよ」
私が湯呑のお茶を一口飲むのを見計らうかのようなタイミングで、美彩はおもむろにそう言った。
「えっ、いつ!? どこで!? 何て言うたん!?」
興奮した私の矢継ぎ早な質問にも、美彩は落ち着き払った様子でいる。
「……昨日の夜、奥田さんちに行って直接伝えたの。『ずっと好きでした』って」
「ええっ! 凄いやん!」
「えへへ、私、頑張ったでしょ?」
美彩は、照れたように笑ってそう言った。
「……で、どうやったん?」
「うん。まあ、ダメだった」
彼女は、あっさりとそう言うと、湯呑みのお茶をゴクリと飲んだ。
「えっ、なんで……? 何て言われたん?」
私は、当の美彩より動揺していた。
まさか、そんな結果になるとは予想もしていなかったからだ。
その頃の二人は、必ず上手くいくだろうと思えるほど仲睦まじく見えたのだ。
美彩自身、勝算はあったのではないだろうか。
「返事は、電話で今日貰ったの。『一晩考えたけど、今は恋愛とか考えられへんねん、ごめんな』って」
「はあ? 別に好きな人とか彼女がおるわけでもないんやろ?」
「うん。そういう相手はいないみたい」
「じゃ、オッケーしてくれてもええのにな……」
美彩にはそう言ったものの、私は奥田さんの気持ちも分からないではなかった。
自分とて、今は麻雀の方が楽しくて恋愛など考えられない。
誰しも恋愛のことばかり考えているわけではない。
奥田さんも、今は何か別のことに興味が向いているのかも知れない。そう思ったのである。
しかし、よくよく考えてみれば、そもそもあの男は恋愛に関心があるのだろうか……ふと、そんな疑問も湧いてきた。
失礼ながら、彼は決してモテるタイプではない。
この好機を逃したら、恋人ができるチャンスなどさほど多くないのではないか。
そんな彼がなぜ、こんなに家庭的で尽くしてくれそうな美彩を振ったのだろう。
外見の好みや、告白のタイミングの良し悪しはあるだろうが、少なくとも性格の相性は悪くなさそうだったのに。
「美彩ちゃん、奥田さんて誰かと付き合ったことあんの?」
「……あんまり詳しくは知らないけど、高校生のとき、お姉さんの友達とそんな雰囲気になったとか言ってた」
「そんな雰囲気? 何なんそれ」
「さあ? でも、確かお姉さんとは八つくらい歳が離れてるらしいから、そのお友達って言うと……」
「かなり、大人」
「うん。香水も、その人の好みだったりして」
「それはありえるなぁ。それにしてもあの奥田さんにそんな色っぽい過去があったんや……なんか意外」
「私も、初めて聞いたときはそう思ったよ」
「でも、そんなら女の子に興味がないわけやないんやん」
「だよね。でも、もういいの……」
「……諦めるん?」
「うん。告白したら気が済んだ」
美彩は、そう言っておもむろに立ち上がり、本棚の上に置いてあった小さな白い箱を手に取ると、ひらひらと振ってみせた。
「えっ、煙草? 美彩ちゃん吸うの?」
「ふふっ、煙草は二十歳になってからだよ! だから、四月になったら吸おうと思ってる」
「真面目か! でも、美彩ちゃんも四月生まれなん? 私もやで」
「えっ、そうなんだ。そう言えばお互い誕生日って言ってなかったね」
「うん。四月生まれってさあ、進級したてとかで、何となくうやむやになりがちやん?」
「だよねえ」
「お互い四月で二十歳か……」
「成人だね」
「うん。自分が成人とかって信じられへん」
「じゃあ、来月は合同誕生会ってことで、煙草吸ってお酒も飲んじゃう?」
「うわ! それいいなあ。高校デビューじゃなくて成人デビューってのが、私と美彩ちゃんらしくて真面目やん!」
私たちは、大いに盛り上がってそんな約束を交わした。
美彩はあまりにも普段通りだったから、失恋したことが彼女にとってどれほどの痛手だったのかは、結局分からないままであった。
◇◇
私と美彩は、約束した通り数日前に二人で誕生会を開き、初喫煙と初飲酒を経験した。
お酒は、お互いビールや甘い缶チューハイを舐める程度であったが、美彩にもらったメンソールの煙草は最初から難なく吸うことができた。
美彩も同様で、清純な雰囲気の彼女なのに、煙草を燻らせる姿は妙に堂に入っていて格好良く、随分と大人びて見えた。
思えば、彼女も私同様にやさぐれたい気分だったのかも知れない。
それ以来、同じ銘柄の煙草を吸っている私たちなのである。
◇◇
今年の新歓コンパの主役は、勿論私達ではない。
会場は、去年と同じ学生御用達の居酒屋であった。
つい先日まで高校生だったのが丸わかりといった感じの、素朴で初々しい男の子たちが、ビール瓶を持ってウロウロと先輩たちにお酌しにまわったり、コーラやウーロン茶など飲んだりして談笑している。
女子マネージャーは、今年は二人入部した。
大阪出身の真希ちゃんと、滋賀県出身の佐奈ちゃんだ。
二人とも、化粧っ気がなくてあどけない雰囲気である。
ふと、去年の自分もこんな風だったのだろうかと、何だか不思議な気持ちになった。
この子たちと自分はたったひとつしか歳が違わないはずなのに、自分は随分トウが立ち、輝きを失ってしまったような気がする。
あのときは岡本さんにアプローチされて困ったが、それももう遠い昔のことのように思える。
彼は故郷で元気にしているのだろうか。
若い父親にでもなっているのだろうか。
「佳也子先輩、よろしくお願いしまーーす!」
ぼんやりと思い出に浸っていた私の前に、人懐っこい笑顔を浮かべた真希ちゃんが近づいて来てそう言った。
彼女は、半分ほどになった私のグラスに、ビールを注いでくれた。
真希ちゃんは、今年大学を卒業し地元企業に就職した美由紀さんを彷彿とさせる、チャキチャキと元気な女の子で、仔犬のような黒い瞳と、サラサラのボブヘアが快活な彼女のイメージを更に引き立てている。
「ありがとう、こちらこそよろしくね」
まださほど飲めない私は、真希ちゃんの注いでくれたビールをコクッと一口飲んだ。
やはりまだ、美味しいと思えるほどではない。
しかし、このふわふわとしたほろ酔いの気分は悪くない。
真希ちゃんは私の隣に座る美彩にもお酌をしようとしたが、美彩は「ありがとう。でも、私ビール飲めないから今日はウーロン茶にしとくわ」と、やんわりと断っていた。
咲子と綾は、確かまだお酒を飲んだことはないらしく、もう一人の新人マネージャーである佐奈ちゃんのお酌を断っていた。
大人しそうな佐奈ちゃんは少し困っているようだったが、優子さんのグラスが開いているのを見つけると、ホッとした表情を見せ、そのグラスになみなみとビールを注いだ。
優子さんは、儚げな見た目とは違って普段からかなりいける口なのだ。
私も優子さんにお酌しに行って話をしてみようかと思ったが、何を話せばいいのやら分からなかった。
考え事をしているうちに、私は知らず知らず飲み過ぎていたようで、化粧室に立ったときには足元がふらついていた。
用を足して出て来ると、丁度男性用化粧室から出てきた水沢さんと鉢合わせになった。
私の悪い噂の出どころだと藤崎くんから聞いている彼である。
私は、やはりそのときかなり酔っ払っていたのだろう。
ニコッと笑って無言で席に戻ろうとした水沢さんを、「ちょっと待ってください」と、引き止めてしまったのだった。
「なに?」水沢さんは、笑顔を崩さずそう言った。
「ここではちょっと……外に出ませんか?」
この台詞、我ながらまるでドラマでよく見る男同士の喧嘩の始まりか、宴席をそっと抜け出すカップルのようだと思った。
水沢さんの張り付いたような笑顔からは感情が読めなかったが、私の申し出を拒むことはなく、一緒に店の外に出てくれた。
皆がいる座敷の方を、出掛けにチラリと見てみたが、誰も私たちのことを気に掛けている様子はなかった。
すっかり出来上がっている人たちも多かったので、他人の行動など気にしてはいないのだろう。
それに、他にもかなり客が入っており、店内は酔っ払いの大きな話し声や、器の触れ合う音で騒がしかった。
外に出た私たちは、少し距離をとって向かい合って立っていた。
話の口火を切ったのは水沢さんだった。
「佳也子ちゃん、どうしたの?」
「……あの、ちょっとお聞きしたいことが、あるんです」
私は、勇気を振り絞ってそう言ったが、水沢さんは相変わらずのポーカーフェイスを崩さない。
彼は痩せ型で背が高く、短髪の似合う和風の美男である。
しかし、私から見ると感情の読めない謎の多い男で、一年経ってもさほど話したことはなく、部内で最も接点のない人のひとりだった。
「なに? 早く言ってくれる?」
水沢さんはにこにこしながら私を急かせた。
「あの……わ、私が、優子さんを、い、虐めてるって、噂なんですが……」
一生懸命普通に喋ろうとしたのだが、少し呂律がまわりづらいのと、唇が震えているせいで、スムーズに言葉が出てこなかった。
「ん? そうなの?」
水沢さんの表情はなおも変わらず笑顔のままだ。
「いえ、そ、そんなこと、してません。優子さんにも、き、聞いてみてください」
「ふーーん」
「水沢さんが、その……噂を広めてるって、聞いたんですけど……」
「えーーっ! なんで?」
「いえ、あの……」
「知らないよ。そんなこと」
「でも……」
「本当に知らないって! そんなこと言われても困る」
「……す、すみません」
私の頬には、いつの間にか幾筋かの涙が伝っていた。
「ちょっと飲み過ぎたんじゃない? 今日はもう帰った方がいいかもね」
水沢さんは、そう言って店内へと戻って行った。
私は、暫くそのまま外に佇んでいた。
きっと、泣いた目が今はまだ赤い。
誰かに気付かれて、どうしたのかと聞かれたくはない。
だから、このまま暫くここにいよう……
そんなことを考えながら、美しい星空を眺めていた。
「ちょっと飲み過ぎて頭痛くなったし、先に帰らせて貰ってもいいですか?」
優子さんにそう告げると、彼女は、グラスに入った水を私に手渡しながら、心配そうな表情で、「大丈夫? 一人で帰れる? お家まで送ろうか」と、気遣ってくれた。
「あっ、私送ります。同じアパートだし」
美彩がそう言ってくれたので、優子さんと二人で話す機会はなかったのだが、私はやはり、優しい彼女のことを信じたいと思った。
結局、あの噂についての真相は分からず終いだった。
少なくとも、その後の水沢さんと私の関係が更に疎遠になったと言うことだけは確かなことだった。




