恋と麻雀
ジャラジャラジャラと耳に心地良い音がする。
四人の男たちが、この夜何度目かの麻雀牌をかき混ぜる音である。
(面白そうやなあ、私にもやらせてもらえへんかなあ)
うずうずした気持ちを抑えつつ、私の目の前に座って卓を囲んでいる三回生の葛西さんと、その隣に座る一回生の藤崎くんの手元を交互に見ていた。
(へえ、その牌を捨てて、その牌を取っておくんや……)
ルールは何となく分かる……ような、分からないような。
葛西さんも藤崎くんも、全く違うことをやっている。
あがり方には『役』と呼ばれる決まった形があるらしいことは分かった。
取り敢えず、同じ牌を二個づつもしくは三個づつ集めたり、同じ種類の牌を一から順にずらりと集めたりすれば良いのだろうか?
他にも『役』はたくさんある様だが。
(あっ、葛西さん、どれ捨てるか悩んでる。藤崎くん、リーチってことは、待ってる牌を引くか、誰かが捨てたらあがりなんやな)
勝負の行方を見つめる、私の心の声が騒がしい。
麻雀の何がそんなに魅力的だったのかと問われると困るが、いかにも中国らしい雰囲気の、何とも不思議な図柄が彫られた牌に興味を持ったこと、「ロン」「ツモ」「ポン」「カン」「一盃口」「清一色」「混一色」など、全く意味の分からない呪文のような言葉を、誰もが皆、当然のように理解している様が格好良く見えたこと、もともと勝負事好きな自分の血がざわざわと騒いだこと、そのあたりが心惹かれた理由かも知れない。
淀みなく牌を切る、パチンパチンという音さえも心地良く、私は、延々と続くかのような勝負を飽きずわくわくと眺めていた。
私の隣にいる美彩は、麻雀になど全く興味はないようではあるが、彼女の想い人である奥田さんが淹れてくれた緑茶の入った湯呑を両手で包み込むようにして持ち、にこにこと微笑みながらちょこんと正座していた。
それにしても、麻雀牌を混ぜるこのジャラジャラという音、私にとっては快楽の音であっても、この部屋の隣戸や階下の住民にとっては甚だ迷惑な騒音だと言うことは、全く疑うべくもない。
「お前ら、頼むからもうちょい静かにやってくれ……」
この部屋の住人である奥田さんは、ベッドに腰掛けてお茶を啜りつつ、困惑を含んだ声でそう言った。
彼は、私の友人である美彩が密かに想いを寄せる相手である。
身長百七十五センチと、バレー部の中ではかなり小柄な体格ながら、ピンと背筋の伸びた姿勢の良さと、何気ない所作の美しさのせいか、そこはかとなく育ちの良さを感じさせる男だ。
そして、美彩が言っていた通り、いつもほのかにいい香りを纏っているということに、最近になって私も気が付いた。
それは、彼のお気に入りのオーデコロンのせいらしい。
甘い花の香りの中に微かにスパイシーさを含んでいる、どこかセクシーな香りである。
男のひとの匂いと言えば、祖父のポマードか仁丹の匂いしか知らなかった私は、お洒落な人もいるものだと驚いた。
しかし、失礼を承知で言えば、そんなセクシーな香りと奥田さんがどうにもイコールで結び付かないのだ。
なぜなら、彼はあまり格好良くはなく、色白の肌に太い眉毛、それにお人好しを絵に描いたようなへにゃっとした笑顔が、何となく気弱な犬を連想させるようなタイプであったからだ。
(やっぱり、美彩ちゃんのシュミってよう分からん……)
奥田さんという人を知れば知るほどそう思った。
実際、彼は人が良すぎて、年下からもナメられているようなフシがあった。
彼より上級生である四回生や同級生の三回生は言うに及ばず、年下である二回生や一回生たちでさえも、特に遠慮するでもなく、突然部屋に遊びに来るらしい。
このアパートが大学と目と鼻の先だというのも、奥田さんにとって運が悪かったのではないだろうか。
しかし、彼は文句も言わず、へらへらと皆の突然の訪問を受け入れてしまっているようだ。
そもそも、どうして私と美彩がこの場に紛れ込んでいるのかと言うと、そこで麻雀に興じている藤崎くんから「金曜日の夜、奥田さんちで鍋やるから二人も来る?」と、部活終わりに声を掛けられたからだ。
実際、鍋パーティーの後から麻雀大会となったのだ。
藤崎くんは、埼玉出身のヒョロっとした体型の男の子で、およそバレーボール選手という感じはせず、どちらかと言うと文化部にいそうなタイプである。
高校生か、見ようによってはまだ中学生くらいに見える童顔だが、意外なことに長い付き合いの遠距離恋愛中の彼女がいるのだそうだ。
私と美彩は同じアパートに住んでいるが、この藤崎くんと奥田さんもまた、同じアパートに住んでいる。
藤崎くんの部屋は一階突き当りの一〇五号室で、この奥田さんの部屋は、二階への外階段を上ってすぐの二〇一号室である。
つまり、同じ建物内でも一番離れた位置関係だ。
(奥田さん本人にお邪魔しても良いか、確認した方がええんやろか?)
その時、私は一瞬そう思ったが、まあ、奥田さんのことだ、来るなとは言わないであろう。
しかもこれは、美彩と奥田さんを接近させるビッグチャンスではないか。
当の美彩本人も同じことを考えていたようだ。
彼らのアパートと私たちの住むアパートは比較的近く、ゆっくり歩いても十分と掛からない距離である。
このアパートの前の坂道を上り切ったところに私たちのアパートがあるのだ。
今回は、そんなご近所のよしみで呼んでくれたのだろう。
しかし、こんなに大勢の人が居てはどうしようもない。
葛西さんと藤崎くんの他に、三回生の坂井さんと二回生の松宮さんもいる。
驚くなかれ、私の元カレである松宮さんも、今日はこの場にいるのである。
(この人が来るなら前もって教えてよ〜!)
そう思ったが、どうも私だけが気にし過ぎていたようで、松宮さんは、「佳也ちゃん、麻雀やってみるか?」と、私に声を掛けてくれたのだ。
「俺抜けるし、ここ座ったら?」
葛西さんもそう言って立ち上がった。
私はよほど麻雀をやりたそうな顔をしていたと見える。
「美彩ちゃん、門限までには帰るようにするから、ちょっとだけやってみてもええ?」
私がそう言うと、美彩は「いいよ」と、快く了承してくれた。
私は、待ってましたとばかりに、さっきまで葛西さんのいた席に座らせて貰った。
その後、松宮さんは帰り、代わりに奥田さんが卓に着いた。
葛西さんはまるで二人羽織のように私の後ろに付き、「この牌は捨てよか」「これは取り敢えず取っとこ」などとアドバイスをくれ、麻雀のやり方を手取り足取り教えてくれたのである。
彼は、面倒見の良い人柄で皆から好かれていて、奥田さんとは特に仲が良いようだった。
まるで『熊さん』というイメージの、縦にも横にも大きな体をしているが、よくよく見るとかなり整った顔立ちをしている。
少し垂れ目の奥二重の目に、キリッとした眉、スッキリと整った鼻梁。
その頃人気だった俳優に似ていると、マネージャー仲間でも一時期話題になったものだ。
そして、その触れると柔らかそうな全身から醸し出す雰囲気は、ひたすら優しかった。
笑顔も、話し方も、誰にでも別け隔てない態度も。
そんな彼の教え方はとても分かり易く、しかも麻雀も上手いので、私は何度か勝つことができ、ますますこの遊びにのめり込んでしまいそうだった。
◇◇
「なんか、ごめん。夢中になり過ぎて……」二人でアパートへの坂道を上りながら私がそう言うと、美彩は「気にしないで。でもさ、麻雀てそんなに面白い? 私にはさっぱり分かんないなあ」と首を傾げていた。
「美彩ちゃんはもっと奥田さんと話したかったやろ? あんなに人がおったら、なかなか難しいけど……」
「うん。でも、また遊びに行ってもいいって言ってたから大収穫だよ」
「そうやな。私は麻雀教えて貰えることになったんがすっごく嬉しい」
「佳也子ちゃんて変わってるねえ」
「何で? やってみてめちゃくちゃ面白かったもん。ハマりそうやわ」
「う〜ん、恋愛から打って変わって麻雀とはね……まあ、頑張ってね」
「恋愛より楽しいもん。それより、奥田さんちってみんなの溜まり場やん。あの人ってお人好し過ぎへん?」
「でも、めちゃくちゃいい人じゃない?」
「それはそうやけど、ちょっと気弱過ぎやろ。美彩ちゃんはそれでええの?」
「うーーん、誰にでも優し過ぎるのはちょっと嫌かも……」
「二人で部屋におるときに、誰かがいきなり訪ねて来そうやしな」
「ああ、それはヤダ」
「そうやろ? ええ人には違いないとは思うけどさ、もうちょっとハッキリ言えばええのにな」
そんなことを言いつつも、私と美彩は次の機会を心待ちにしていた。
恋と麻雀、目的は違えども。
◇◇
二月に入り、美彩は張り切っていた。
もうすぐバレンタインデーである。そのうえ、バレンタインデーの数日後には奥田さんの誕生日も控えているのだ。
彼女は、この機会についに愛の告白をしようと決めたそうだ。
私と美彩は、あれからちょくちょく彼の部屋に遊びに行くようになっていた。
彼に対して、誰かれ構わず部屋に招き入れてお人好しが過ぎるだの何だのと言っていたくせに、現金な話ではあるのだが。
奥田さんは、男を意識させないと言うか、どこか美彩と似たほのぼのとした雰囲気があるため、三人で居てもまるで女同士で集まって和んでいるような気分になり、私もすぐに打ち解け、すっかり心許す存在になっていた。
そんな似た雰囲気を持つ美彩と奥田さんは、とてもお似合いだったし、穏やかに語らう二人の距離は徐々に縮まっているように見えた。
それとは別に、私はひとりで彼の部屋へ遊びに行くことも増えていた。勿論、奥田さんと二人きりで会うためではなく、徹夜の麻雀修行のためだった。
まあ、平たく言えば徹マンである。
あの部屋で夜な夜なそれが行われていることを知った私は、仲間に入れて欲しくて奥田さんにお願いし、たびたびお邪魔する許可を貰ったのだ。
特に熱心に教えてくれたのは奥田さんと葛西さんで、他の人には、正直言って面倒くさがられていたかも知れない。
いや、葛西さんも奥田さんも面倒ではあっただろうが、そんな態度をおくびにも出さなかったため、ついつい甘えてしまっていた。
勿論、集まって来るのは、私以外男ばかりである。
指南書を買って勉強するほど麻雀にのめり込んでいた私は、その成果を実際に試してみたい一心で、そんな男だらけの空間で一人、しかも明け方まで卓を囲んでいたと言うわけである。
今考えると、どうかしているとしか思えぬ状況である。
この軽はずみな行動が、私のさらなる悪評に繋がったのであろうことは、想像に難くない。
何かに夢中になると周りが見えなくなる。それは、おそらく私の生まれながらの性質なのだろうが、その性質が際立っていたのがこの頃であろう。
高校時代は何かに夢中になることもなく、もっと淡々と生きていたのに。
丁度良い加減が苦手な私であった。
◇◇
「おまえ、優子さんのこと虐めてるってホントなのか?」
学食でばったり会った藤崎くんに突然そんなことを言われて、私の思考は一瞬停止し、その言葉の意味を飲み込むのに時間が掛かったことを覚えている。
「はあ? 誰がそんなこと!」
全く見に覚えの無い言いがかりに、私は思わず語気を強めてそう応えた。
「えっ、いや、その、三回生の水沢さんが……」
藤崎くんはしどろもどろにそう言うと、バツが悪そうに目を逸らす。
「水沢さん? 何であの人がそんなこと……私、あの人とあんまり話したことないのに」
「水沢さんて、確か優子さんと同郷で仲良いよな」
「そうなん? でも、そうやとしても何でそんなこと言うん? 私、虐めなんて全く身に覚えないのに……」
あまりにもショックで、話す唇が微かに震える。
「俺だって信じてなかったよ。おまえと優子さんが一緒にいるとこ見ても、全くそんな風には見えないし」
「本当に信じてくれる? 優子さんにも聞いてみてよ。誤解やって分かって貰えると思うし」
「いや、もう分かったって。水沢さんがなんでそんなこと言うのかは分かんないけど」
藤崎くんは、考え込むような顔をしてそう言う。
「私、あの人に嫌われてるんかもな……」
「何でだよ? 何か嫌われるようなことしたのか?」
「そんな事してないつもりやけど、お互いちょっと話し辛いっていうか、波長が合わん人っておるやろ?」
自分でそう言ってふと思い出した。
水沢さんは、私以外のマネージャーとは冗談を連発して楽しく会話していることを。
特に、咲子や綾は、彼を面白い人だと評していたはずだ。
「うーーん。それだけのことでそんな言われるか?」
「……もしかして、私が男に混じって徹マンとかやってるのがあかんのかな? 岡本さんのこととか、松宮さんのこととか、いろいろダーティなイメージ付いてるし」
「ああ、なるほどなぁ。でも、悪口言われる筋合いないだろ」
「そうやけど……あっ、時々、松宮さんが麻雀しに来るやろ? そこに私が一緒におるのが、優子さんにとっては許せへんとか?」
自分で言ったことだが、それはあまり信じたくないことだった。
もしそうなら、水沢さんにあることないこと言っているのは優子さんだということになってしまう。
私たちは、マネージャー同士穏やかに付き合っているつもりである。
線の細い儚げな優子さんの隣に立つと、どうしても私の方が気が強そうに見えるのは分かる。
だからと言って、私が優子さんを虐めているとは、かなり酷いデマである。
私は子どもの頃から正義感は強い方だと自負していたし、虐めのような卑劣な真似だけは絶対しないと決めている。
何より、気の弱いところがあるので、他人を虐めたり陥れたりすることなど、恐ろしくて出来ないのである。
男にだらしないとか、男に混じって徹夜で麻雀をするようなスレた女だとか言われるのはもう慣れた。
あながち間違っているわけではないし、『人の口に戸は立てられぬ』の諺通り、言い訳して回ったところでどうしようもないものだと諦めていたのだ。
しかし、この悪口だけは黙っていられない。
これは、私の矜持を傷つける、酷い言われようだと思った。
このとんでもないデマがどこまで広がっているのか、誰がそれを本気で信じているのかが気になってしょうがなかった。
もしかしたら、皆がそんな目で私を見ているのではないか……そんな疑念が晴れず、私はまた暗澹たる思いを噛み締める日々を過ごすことになったのだった。