苦い思い出
事務所を出て車のドアに手を掛けると、どことなく秋めいた涼しい風が、首筋を撫でていった。
仕事が終わり、軽自動車の狭い運転席に収まるといつもホッとする。
今日は本当にクタクタだ。夕飯を作る気力も残っていないし、スーパーでお惣菜をいろいろ買って帰ろう。
伊勢は、小さな町のわりにはスーパーが多いし、お惣菜コーナーも充実しているから助かる。
専業主婦のようだった私が住宅リフォーム会社に就職して以来、私たち三姉妹の生活は多少変わった。それぞれ帰宅時間も休日も違うため、特に申し合わせでもしない限り、揃って夕飯を食べることは難しい。
今のところは、ご飯担当の私の帰宅が一番早い。とは言え、午後七時過ぎにはなるので、あまり手の混んだものは作らないし、こうして出来合いのものを買ってくることも増えたのだ。
実穂子は、遅番早番があって出勤時間も帰宅時間も、その日によってまちまちだ。それに、終業後に例の友人たちと夜の街に繰り出して真っ直ぐ帰ってこないときもあり、行動があまり読めない。
百合香は、だいたい私と同じくらいの時間に仕事が終わるらしいが、運行本数の少ないバスを待っているため、少々帰宅が遅くなる。そのうえ、友人たちとの飲み会や、彼氏とのデートで朝帰りすることもあり、やはりこちらも行動が読めない。
妹たち二人とも、若者らしく、充実した日々を送っていて結構なことだが、実穂子の恋愛については、泳がせているとは言え、毎日凄く気に掛かる。あの遊び人風のオッサンと、おかしなことになっていなければいいが……
就職はしても、やはり私のオカン気質は健在である。
どうやら今日も、私が一番帰宅が早かったようだ。
買ってきた揚げ物や煮物を三人分皿に取り分け、実穂子と百合香の分は、ラップをして冷蔵庫に入れておいた。
私は、温め直したお惣菜で簡単な夕飯を済ませた後、ソファでゴロゴロしながら、特に面白い番組もやっていないテレビを観るともなく観ていた。時計の針は、もうすぐ九時を指そうとしているが、二人はまだ帰って来ない。
(明日は早いし、さっさとお風呂入って寝よかな)
私は、立ち上がって浴室へと向かい、ドバドバと浴槽にお湯を張った。我が家のお風呂には、追い焚き機能や、自動湯張り機能は付いていない。なかなか不経済だし、面倒くさいのだ。
だから、いつもはシャワーだけでサッと済ませるのだが、どろどろに疲れた今日は、ぬるめのお湯にゆっくりと浸かりたかった。
「はあぁぁ〜、極楽〜!」
湯船に浸かってだらんと脱力すると、吐息と共に思わず声が出た。
ホッとすると同時に、今日、会社で出逢った男のことを思い出してしまった。
あの、『安斎』とかいう、N電機の営業マンのことだ。
自信満々が服を着て歩いているような奴であった。
社長や店長に対しても、調子良くへりくだっている様でありながら、どこか高圧的に見えた。
ましてや、私に対してはあからさまに舐めて掛かった態度であった。
(それにしても、何なんや『御御御付』って……)
あの後もことわざを言わされたり、慣用句を言わされたり……あの男、国語の教員免許でも持っているんだろうか。
「おおっ! 中川ちゃん、思ったより賢いっ!」
奴はへらへらと笑いながら、そんな事を言っていた。何が「中川ちゃん」だ。人を小馬鹿にして。ことわざや慣用句を知っていることと、頭の良し悪しとは全く関係無かろうに。
それに、何を隠そう、おバカな私でも、国語だけは得意だったのだ。どれほど得意だったのかと言うと、高三のとき、とある全国模試で満点を獲るくらいには、得意だったわけである。
但し、作文を書くのと、漢字を覚えるのは大の苦手だったのだが……
(あ〜、嫌なことまでセットで思い出してしもた……)
ぬるい湯船に鼻まで浸かってブクブクしながら、私は、五年前の誇らしくも忌まわしい出来事を思いだしていた。
そう、あれは確か、放課後の部活が始まってすぐのことだった。高校時代、私は運痴のくせに、陸上部に所属していたのだ。
それはただ、円盤投げの有望選手であった親友の美月と、放課後を楽しく一緒に過ごしたいがためであった。
柔軟体操や走り込みなど、ウォーミングアップを終え、これから投擲練習に入るというタイミングだったと思う。
「三年F組、中川佳也子、至急職員室まで来るように」
突然、グラウンドにそんな校内放送が響き渡った。
私は、至って真面目で地味な生徒だったから、名指しで職員室に呼び出されることなど初めてだった。
「……なんやろ?」
驚いてしまい、思わず顔が曇る。
「佳也子、なんか悪いことでもしたんちゃうん?」
美月がニヤニヤ笑いながら、からかうような口調でそう言った。
私は、不安な気持ちを抱きつつ、グラウンドからはそこそこ離れたところに建つ、古い鉄筋の校舎へと急いだのだった。
「失礼しま〜す」
そう言いながら、職員室のドアを軽くノックして中に入ると、何人かの教師が、一斉にパッと私の方を見た。
(ん? 何なん?)
「中川」
若い男性教師が私を呼んだ。彼は英語担当で、私のクラスであるF組の担任だ。そして、何故か担任と一緒に、若い女性国語教師と、中年の男性数学教師が揃い踏みしていた。
そこに、私はおずおずと近づいて行った。
「え〜っと、何でしょうか?」
そう言いながら担任の前に立つと、彼は私の顔をチラッと見てからこう言った。
「お前な、こないだの全国模試、数学だいぶ悪かったぞ」
(うっ、それで呼ばれたんか……)
しかし、何もわざわざ部活中に呼び出すこともなかろう。少々腹立たしく思いつつも、私は神妙に項垂れて、担任の言葉の続きを待っていた。
「英語は中の上。これはまあ、ええとして……」
(ん? 中の上? 思ったよりええやん!)
「国語が満点、全国一位」
「……ん? は?」
「お前一位やったぞ。同率一位のヤツは他にもおるけど」
「うえっ? 本当に私が一位なんですか? 満点?」
「おう。満点や」
「えーーっ!! うそぉ……信じられへん……」
「うん。それでやな……」
「?」
「お前、どんな手を使こたんや?」
「は?」
「ほやから、どんな不正をやったんや? 怒らんから正直に言うてみ?」
そんな担任の言葉に同調しているのか、国語教師も数学教師も、じっと私を見つめている。
「っ、はあぁぁぁ!?」
私の頭の中で、何かがプチンとぶち切れた。
「不正て!! 私、ふっつーーに、テスト受けただけですけど!」
私は思わず激高し、激しい口調でそう反論した。
「いや〜、それはおかしいやろ。うちの学校から全国一位は無理やって。お前も分かるやろ?」
担任は怯んだ様子もなく、当然の事を言わせるなとばかりの口調で、そう言って退けた。
「……はあ!? でも、私いつも国語の定期テストは学年トップですよね?」
「そりゃあこの学校内ではそうかも知れんけど、正直言うて、難関大学を受験できるほどの内容、教えてないもん」
私は思わず絶句した。呑気すぎて、受験や進学のことなど思い至らないまま、何となくここまで生きてきてしまった自分に焦った。
(そっか……あんまりレベル高くない公立高校ってそんな感じなんや……)
「でも、不正をやるんやったら、英語も数学もまとめてやりますよ! なんでまた得意の国語でやらなあかんのよ!って気持ちですけど!」
「そこが不思議でなあ」
担任は、あくまでも私のことを信じないつもりなのだろうか。
「それに、そもそも私、不正とかする勇気無いです! 先生たちもそれは分かるでしょう!?」
私は、国語教師と数学教師の顔を交互に見た。
どちらか一人だけでも擁護してくれないだろうかと期待したが、二人とも困ったような顔で黙りこくっていた。
「ああ。不正なんかしそうも無いお前やからこそ、俺も驚いとるんや」
やはり、担任はどうあっても私を信じる気は無いらしい。
「…………もういいです。失礼します!」
私は、くるりと踵を返すと、すたすたと出入り口に向かい、乱暴にドアを開けた。そして、振り向いて職員室中を睨み付けてから、「失礼します!」と憎しみを込めた口調で言い、バシンっと勢いよくドアを締めた。
気を抜くと、涙が溢れそうだった。
それを誤魔化すように、ドスドスと廊下を大股で歩いて、昇降口へと向かった。
「中川さんっ!」
上履きから部活用のシューズに履き替える私の背後から、バタバタと追ってきたのは、何故か数学教師だった。
「……何ですか?」
一瞬そちらを見た私は、泣き顔を見られたくなくてすぐに顔を伏せ、自分の足元に目を落とした。
「僕、信じとるから! 中川さんは確かに数学ダメダメやけど、何でも真面目にやっとるし、ええ子やし、不正なんかせんタイプやって分かっとるでな!」
数学教師は、そう言って慰めてくれたが、私の拗ねてしまった心は、そう簡単には元に戻らなかった。
(数学ダメダメって……)
「……ありがとうございます。じゃあ、担任にもそう言うといてください!」
私は、彼に背を向けたままそう言って、グラウンドへと戻ったんだったか、そのまま部室で着替えて家に帰ったんだったか。
そこからは、全く覚えていないのだった。
(そんなレベルの学校やったけどさ、高校時代はそれなりに青春してたし、楽しかったな。短大時代もいろいろあり過ぎたけど楽しかったし……)
お風呂から出て、濡れた髪をドライヤーで乾かしながら、明日のことに思いを馳せていた。
(相手の人、どんなやろ? それにしても、ちゃんと起きれるかなぁ。一本でも乗り遅れたら式に間に合わんわ)
明日、八月最後の土曜日は、福井に住む短大時代の友人、美彩の結婚式である。




