chapter56
ワンダー診療所が診療開始してからしばらく、二人の風邪患者の処方と案内を終え、またまったりとした時間を過ごしていたサァフだったが、入口の方に誰かが近づいてくる気配を感じて姿勢を正した。
患者か、と考えていたら、鈴の音と共に顔を出したのはコーシェだった。
「あ、サァフさん、おはようございます」
「おはよう。筋肉痛でのたうち回ってるって聞いてたけど、元気そうじゃないか」
「あはは、確かに昨日は酷かったですけれど、この通り、すっかり元気になりました。あ、すみません、どうぞ」
言いながら入ってきたコーシェは、扉を押さえたまま、身を横に引いた。
次に入ってきたのは、頭からすっぽりとマントを羽織った、旅人姿の少女だった。
サァフは、少女の姿を見た瞬間に、最大の警戒心を抱いた。
こいつ、今、気配を感じなかったぞ。
「ごめんくださいまし」
鈴を転がすような少女の声音が、愛想のよい挨拶を紡ぐ。
「いらっしゃいませ。ワンダー診療所へようこそ」
受付嬢としての営業スマイルを浮かべながら、サァフは警戒と観察を続ける。
アルファたちと同じ、十歳ごろだろうか。顔はよく見えないが、言葉遣いやフードから見えている金色の髪の色艶から、良い家の出自だということが伺えた。
ただ、ミルシャたちが持つ貴族独特の雰囲気だけではない、微かな違和感をサァフは覚えていた。
只者ではない、と。
すると、少女と目が合い、サァフは内心で驚いた。
少女は気にせず続けた。
「こちらに、ゼット・ワンダーさんはいらっしゃらないかしら?」
「はい、ワンダー先生なら奥にいますよ。本日は診断でしょうか?」
「サァフ、どうかしたの?」
怖気ずに応対をしていると、奥からアンジュがやってきた。アンジュはマント姿の少女に目を移すが、特に気にした風もなく愛想を振りまいた。
「いらっしゃいませ。奥にご案内いたします」
「いえ、結構ですわ。私は診療に来た訳ではありませんの」
そう言った少女のフードから見えている前髪が、ちらと揺れた。
奥から床を踏む音が聞こえてきて、一人の少年が姿を現した。
「ようこそ、ワンダー診療所へ」
少年のように見える青年、ゼット・ワンダーが少女を出迎えた。
珍しい、とサァフが思っていると、少女がそこでフードを脱いだ。
現れたのは、美しく整った顔立ちと、陽光に照らされて黄金のように輝く金髪だった。髪は顔の両端でくるくると巻かれた独特の形を作っている。
それだけでも十分に目を惹きつけるが、緑色の瞳を湛えた目に、サァフたちは見惚れてしまった。
唯一、ゼットを除いて。
と、柔和な笑顔から一転し、牙を思わせる鋭い目つきになった少女が、ツカツカと独特の靴音を立てながらゼットへ近づいていった。
そして、最後に一歩踏み込みながら、その無防備な腹に強烈な拳の一撃を浴びせた。
重たい音が部屋中に響き、誰もが唖然とする中、平然とした顔で少女の拳を腹で受け止めているゼットが、気まずそうに笑った。
それを、少女は険しい表情で下から睨みつけた。十代前半とは思えない程気迫があり、もしサァフたちが見ていたなら、身震いをしていただろう。
「探しましたわよ、ゼット・ワンダー」
恐ろしいほど低く、ドスの利いた声音に、コーシェやアンジュだけでなく、修羅場をくぐってきたサァフも肩を震わせた。
ゼットはやはりそれにも動じず、頬を右指で掻くだけだった。
「ははは、元気してるみたいで何よりだ」
「何よりではありませんわ。ろくに連絡も寄越さずに、皆が心配していました」
「っておい、お前なぁ」
ゼットが咎めるような声を出すが、少女はどこ吹く風だ。拳をひっこめ、そっぽを向いてしまう。
「あ、あのぉ」
勇気を振り絞ったコーシェが片手を挙げると、不機嫌だった様子の少女は、愛くるしい笑顔にたちまち戻った。あまりのギャップに開いた口が塞がらなかったが、どうにか立ち直り、コーシェは続けた。
「お二人は、その、お知り合い……なんですか?」
アンジュとサァフも抱いていたその疑問に答えたのは、ゼットではなく、件の少女だ。
マントの前を開くと、若草色のドレスが現れた。
「皆さま、お騒がせいたしました。そして、始めまして」
少女はスカートの裾を摘まみ、腰をそっと下げてお辞儀した。
「私、ファング・ディメンジョンと申します。
こちらにいるゼット・ワンダーの、不肖の弟子の一人です」
牙を想起させる、力強い眼差しを湛えた目で、笑ったのだった。
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