空から降ってきた異物と、致死量の輝きを放つ婚約者
「……痛っ」
それは、よく晴れた日の昼下がりのことだった。
王都でも有数の美しさを誇る、我がヴェスペル公爵家のローズガーデンで優雅に紅茶を嗜んでいた私の頭上に、突如として空から『冷凍マグロ』が降ってきた。
ドスッ、という鈍い音と共に私の完璧に結い上げられた金髪の縦ロールを直撃したソレは、カチンコチンに凍りついたまま、ティーテーブルの上でゴトリと音を立てて転がった。
白磁のティーカップが粉々に砕け散り、淹れたてのダージリンが最高級のレースのテーブルクロスに染みを作っていく。
「お嬢様!? 空から海産物が!!」
控えていた専属侍女のマリーが、悲鳴を上げながら銀のトレイを盾にして私の前に飛び出してきた。彼女は元・暗殺ギルドの凄腕であり、なぜか現在は我が家で嬉々として床磨きと護衛を担当しているのだが、さすがの彼女も空からの冷凍マグロ攻撃は予測できなかったらしい。
「大丈夫よ、マリー。少し頭が揺れただけ……いえ、揺れたおかげで、色々と『繋がった』わ」
私は額を押さえながら、ゆっくりと立ち上がった。
冷凍マグロの物理的な衝撃は、私の脳内に眠っていた『前世の記憶』というパンドラの箱を物理的にこじ開けたらしい。
私の前世は、現代日本で働く社畜であった。
職業は、とあるブラック企業の経理部主任。来る日も来る日も数字と睨めっこし、領収書の束に埋もれ、息を吐くように横領を企む役員たちの不正を暴き続ける、ストレスフルな日々。そして、連日の徹夜の末に、キーボードに突っ伏して過労死したという、全くもって夢のない最期だった。
そして今、私は思い出した。
この世界が、前世の昼休みに後輩がプレイしていた乙女ゲーム『きらめき☆ロイヤル・アカデミー 〜恋の魔法は突然に〜』の世界であること。
そして私が、ヒロインを虐める悪役令嬢、エリゼリア・フォン・ヴェスペル公爵令嬢(18歳)であるという事実を。
「……なるほど。冷凍マグロが前世の記憶を呼び覚ますトリガーだなんて、どの攻略にも載っていなかったわね」
私はテーブルの上で冷気を放つマグロを冷ややかな目で見下ろした。
この王都では、数年に一度『魚介類が空から降る』という局地的な魔力異常が発生するのだが、まさかそれが私の人生の転機になるとは。
「お嬢様、お怪我は!? すぐに治癒魔法士を! それとも、この凶器を厨房へ!? お刺身にしますか、それともカルパッチョに!?」
「落ち着きなさい、マリー。マグロは後で大根と一緒に煮付けになさい。それよりも、私には今、考えなければならない極めて重要な案件があるの」
私はドレスの裾を払い、再び椅子に腰を下ろした。
記憶が戻った今、私の置かれている状況は極めて最悪だと言わざるを得ない。
私の婚約者は、このルミナス王国の第一王子、ユリウス・フォン・ルミナス殿下。
ゲームのメインヒーローであり、輝くような金髪と海のように深い青い瞳を持つ、非の打ち所のない美男子——と、設定上はなっている。
しかし現実のユリウス殿下は、前世の私の言葉を借りるならば「控えめに言って、頭の中身が春の野原」であった。
彼は極度のナルシストであり、彼が呼吸をするだけで、なぜか周囲の空気に物理的な『キラキラ(細かい金色の粒子)』が舞い散るという、謎の特異体質を持っていた。
このキラキラは非常に厄介で、一度服に付くと三回の洗濯でも落ちず、王宮の清掃係の予算を毎年圧迫し続けている。私は密かに彼を『歩く環境汚染』と呼んでいた。
そして現在、その『歩く環境汚染』ことユリウス殿下は、男爵令嬢であるヒロイン、ポメラ・フワリと絶賛浮気中である。
ポメラ・フワリ。
彼女もまた、この世界の理を完全に無視した存在だった。
彼女の脳内は、恋愛面積の約90パーセントを占めており、脳の構造がどうなっているのか、医学的な解剖が急がれるレベルである。
さらに彼女は、どんなに無風の室内であろうと、常に背後から『ピンク色の花びら』が舞い散るというエフェクトを纏っていた。ユリウス殿下のキラキラとポメラの花びらが合わさると、周囲はさながら地獄絵図となる。
ゲームのシナリオ通りに行けば、あと一ヶ月後に迫った学園の卒業パーティーにて、ユリウス殿下は全校生徒の前で私との婚約破棄を宣言する。
理由は「エリゼリアがポメラを虐めたから」というお決まりのものだ。
しかし、その『虐め』の内容が酷い。
私がポメラの靴に画鋲を入れた? 違う。私がポメラの教科書を破いた? それも違う。
ユリウス殿下が主張する予定の私の罪状はこうだ。
『エリゼリア! 貴様は嫉妬に狂うあまり、ポメラの周囲の魔力を局地的に狂わせ、彼女を三歩歩くごとに転倒させたな!!』
『さらに、ポメラの愛飲しているイチゴミルクの糖度を、こっそりと下げるという卑劣な精神攻撃を行った!!』
……言いがかりにも程がある。
魔力を狂わせる魔法など、大魔導士でも不可能だ。彼女がよく転ぶのは、体幹が絶望的に頭が弱いか、あるいは自身の異常に巨大な恋愛脳の重みでバランスを崩しているだけである。イチゴミルクの件に至っては、もはや食品偽装問題であり、私ではなく納入業者を責めるべきだ。
しかし、この国の王太子は本気でそれを信じ、私を糾弾する予定なのだ。
そして婚約破棄の末に私に下される罰は『北の極寒の地への永久追放』。
そこで私は、凶暴なシロクマっぽい魔物たちに囲まれながら、一生彼らのためにサイズぴったりの手編みのセーターを作り続けるという、謎極まりない労働を強いられることになる。
「冗談じゃないわ」
私は冷めきった紅茶の代わりに、マリーが急いで淹れ直してくれたハーブティーを一口啜った。カモミールの香りが、前世の経理部時代に培われた私の冷徹な思考をさらに研ぎ澄ませていく。
「マリー。私のスケジュール帳を持ってきて頂戴。あと、王宮の財務省に繋がる通信魔導具も」
「かしこまりました! ……お嬢様? なんだか、雰囲気が変わられましたね。まるで、獲物を追い詰める前の毒蛇のような、美しい微笑みでございます」
「あら、マリーったらお上手ね。でも毒蛇なんて生ぬるいわ。私はこれから、国税局の査察官になるのよ」
そう、私は泣き寝入りなど絶対にしない。
最低な婚約者に破滅させられる予定?
馬鹿馬鹿しい。私をシロクマの専属ニット職人にしようなどと、どの口が言っているのか。
売られた喧嘩は、複利をつけてキッチリと買い取る。それが前世から続く私の流儀だ。
彼らが私を社会的に抹殺しようというのなら、私は彼らを『物理的』かつ『概念的』に粉砕し、再起不能の破滅へと追い込んでやる。
「まずは、ユリウス殿下の資金源を完全に絶つ。マリー、殿下がポメラ嬢に贈ったドレスや宝石の領収書、全て裏ルートで入手できるかしら?」
「お安い御用です。私の旧友ネットワークを使えば、明日の朝には殿下が購入した『ポメラちゃん専用・喋るピンク色のぬいぐるみ(特注品・王室予算からの横領の疑いあり)』の購入領収書まで完全に把握できます」
「優秀ね。それらの費用が、王室のどの予算枠から不正に引き出されているかを徹底的に洗い出すわよ。あの歩く環境汚染に、本当の『精算』というものを教えてあげるわ」
私がペンを執り、分厚い羊皮紙に恐るべき速さで数字と計算式を書き連ねていると、庭園の入り口から、耳障りなほど甲高い声と、無駄に響き渡るバリトンの声が聞こえてきた。
「エリゼリア! 今日こそ君の悪逆非道な振る舞いを正しに来たぞ!」
「ユリウス様、怒ってはダメです! エリゼリア様も、きっと悪気はなかったんですから」
……来た。
頭痛の種その1と、その2である。
バラのアーチをくぐって現れたのは、案の定、無駄にキラキラと金色の粒子を撒き散らすユリウス殿下と、背後から季節外れの桜吹雪を発生させながら、小動物のように震えるポメラ・フワリだった。
「ごきげんよう、殿下。それに、ポメラ男爵令嬢。本日はどのようなご用件でしょうか?」
私はペンを置き、完璧な淑女の笑みを浮かべて立ち上がった。
心の中では、彼らの背後に『負債総額』という文字が赤文字で浮かび上がっているのを幻視しながら。
「しらばっくれるな、エリゼリア! 貴様、昨日ポメラが学園の廊下を歩いている時、彼女の足元の魔力を意図的にゼロにして、盛大にスライディングさせたな!? おかげでポメラは、廊下の端から端まで20メートルも滑り続け、壁に激突したのだぞ!!」
ユリウス殿下が、ビシッと私を指差して叫ぶ。
その指先から、パラパラと金色のラメのようなものがこぼれ落ち、我が家の美しい芝生を汚染していく。後で除草剤を撒かなければ。
「……殿下。何度も言っていますが、空間の魔力を操作するなどという神の如き御業、私が持ち合わせているとお思いですか? 彼女が滑ったのは、単に清掃員がワックスをかけすぎたか、あるいはポメラ嬢の歩行フォームに致命的な欠陥があるからかと存じますが」
「言い訳をするな! ポメラは妖精のように軽やかに歩くのだ! 滑るなどという下等な法則は彼女には適用されないはずなのだ!」
(ではなぜ滑ったのだ、このポンコツ王太子は)と、私は内心で深いため息をついた。
彼の論理は常に破綻している。画家でも、もう少し筋の通った絵を描くはずだ。
「ユリウス様、私のために怒ってくれてありがとうございます……でも、ポメラは平気です。ただ、壁にぶつかった時、少し心が痛かっただけです」
ポメラが瞳に涙を浮かべながらユリウス殿下の腕に抱きつく。やはり彼女の解剖を急ぐべきだと私は確信した。あの頭の中には脳髄の代わりにマシュマロでも詰まっているに違いない。
「ああ、可哀想なポメラ……! 君のその純真な心を、私は生涯守り抜くと誓おう! エリゼリアよ、君のような血も涙もない冷酷な女に、次期王妃の座は相応しくない! 卒業パーティーを待たずとも、今ここで婚約破棄を……!」
「お待ちください、殿下」
私は彼の言葉を冷徹な声で遮った。
その瞬間、私の周囲の空気が数度下がったかのように、庭園に冷たい風が吹き抜けた。マリーが背後で「おお、お嬢様のプレッシャーが実体化している」と呟くのが聞こえた。
「婚約破棄、大いに結構です。わたくしも、殿下のような方と人生を共にするなど、想像しただけで麻疹が出そうですから」
「なっ……!? き、貴様、自分が何を言っているのか分かっているのか!? 万人に愛される光の御子であるこの私を振るというのか!?」
殿下は信じられないものを見るような目で私を見た。彼のプライドは塔よりも高く、そしてティッシュペーパーよりも薄い。
「振る、という生易しいものではございません。わたくしは、殿下を『監査』させていただくと申し上げているのです」
私はテーブルから一枚の書類——先ほどまで書き連ねていた計算書——を取り上げ、彼らの目の前に突きつけた。
「殿下。殿下がこの半年間で、ポメラ嬢への贈り物、無意味なサプライズパーティー、そしてご自身の『キラキラエフェクト』によって汚染された王宮の清掃費用として浪費した金額の総計をご存知ですか?」
「な、なんだそれは……私は王太子だぞ! 金など無限に湧いてくるものだろう!」
「湧きません。経済というものを根本から否定しないでください。殿下が横領……もとい、無断流用された金額は、国家予算の約5パーセントに相当します。これは、我がヴェスペル公爵家が王室に融資している金額の利子分を大きく上回る『債務不履行』の危機を意味します」
「でふぉ……何?」
殿下の美しい顔が、完全なアホの形相に変わった。ポメラに至っては、難しい言葉を聞いて熱が出たのか、頭からプシューという幻聴と共に本物の湯気を出し始めている。
「簡単に申し上げましょう。殿下は、我が家に対して莫大な借金を抱えた『多重債務者』です。婚約破棄をするということは、我が家と王家との間の『恩赦』という名の免責特権が消滅することを意味します」
私は一歩、彼らに歩み寄った。
私のヒールの音が、静寂の庭園にコツン、コツンと冷酷に響く。
「婚約破棄の慰謝料。並びに、これまでの王室への融資の全額即時返済。さらに、殿下が我が家の芝生に撒き散らしたこのキラキラの特殊清掃費用。これらを全て、一括で請求させていただきます。期日は本日から三日後。お支払いが滞るようであれば——」
私はにっこりと、この世の何よりも優しい、悪魔のような微笑みを浮かべた。
「殿下には、北の極寒の地にあるシロクマ保護区にて、一生涯、毛皮のブラッシングに従事していただきます。もちろん、ポメラ嬢もご一緒に」
「えっ……しろくま!?」
「そ、そんな事、絶対にしませんわ!!」
パニックに陥る二人の前で、私は再びテーブルに戻り、マリーが新しく淹れた紅茶を一口飲んだ。
「さあ、これはまだ序の口ですわ、ユリウス殿下。私の前世の『経理の魂』と、今世の『悪役令嬢の権力』。この二つが合わさった時、どのような絶望のシンフォニーが奏でられるのか。……たっぷりと味わわせて差し上げますわ」
空に浮かぶ白い雲はどこまでも平和で、足元にはまだ冷気を放つ冷凍マグロが転がっている。
まったくもって謎な光景だが、私の心はこれまでにないほど澄み切っていた。
予定を変更して、彼を概念の塵となるまで徹底的に破滅させることにした。
まずは手始めに、彼の実家の財政を完全な焼け野原にして差し上げましょうかね。




