羽音は夜の底で蠢く
鍵をどれほど厳重に閉めようと、無駄なのだと知ったのはいつのことだったろうか。
木ネジが軋む音がして、重厚なオーク材のドアがゆっくりと内側へとしなる。鍵穴には鉄の閂が通り、外からは絶対に開かないはずの室内に、冷ややかに澄んだ風が吹き込んできた。風とともに漂うのは、焼き尽くされた硝石と、膿むほどに甘い白百合の匂い。
私は部屋の隅、乾いた寝台の上で膝を抱え、ただその影が揺れるのを見つめていた。
「また逃げようとしたのですね、ドミティラ」
その声は、水底から響く銀鈴のように美しく、そしてどこまでも平坦だった。
暗闇の中に、鮮烈な色が灯る。それは太陽の輝きでも、温かな燭台の火でもない。腐敗した果実の皮や、毒を持つ昆虫の背を思わせる、禍々しいまでに濃密な黄色の光。背後から広げられた二つの巨大な翼が、私の狭い部屋の天井を擦り、さらさらと黄色い粉塵を降らせる。羽根の一本一本が金属のような光沢を放ち、優雅に、しかし逃げ場を塞ぐように撓んでいた。
「私はどこにも逃げていない。ここは私の家よ。私のか細い生活の場所だ」
声が震えないよう、必死で奥歯を噛みしめた。だが、胸の奥で鼓動が跳ねる音は、きっと彼に届いている。
彼には名前がない。
尋ねたことはある。「お前を何と呼べばいい」と。だが彼は、万物を映す硝子玉のような瞳で私を見つめ、静かに首を振るだけだった。名とは限定であり、限界であり、下等な人間に与えられた鎖に過ぎないのだと。神の使者であり、純粋な愛そのものである彼には、個を識別するための符丁など不要なのだと、本気で信じ込んでいるのだ。
「いいえ、あなたの心は逃げています。街の喧騒へ、くだらない人間たちの卑俗な会話へ……そして、私以外のすべてへ」
天使は足音もなく床に降り立った。爪先が床板に触れても、何の音も打たない。ただ、彼の身に纏う白い衣が滑らかな音を立てるだけだ。彼の顔立ちは完璧だった。一切の歪みがなく、傷も皺もなく、まるで冷たい大理石から削り出された神像そのもの。しかし、その完璧さこそが私に狂おしいほどの吐き気を催させた。そこには「生」の温もりがない。あるのはただ、冷徹で無垢な意志だけだ。
彼の手が伸びてくる。繊細で細長い指先が、私の頬に触れた。凍りつくような冷たさが皮膚を刺し、私は思わず身をよじって逃れようとしたが、即座に黄色い翼が背後から回り込み、私の身体を抱き抱えるように閉じ込めた。逃げ場はどこにもない。羽の隙間から漏れる黄色い光が、私の視界を狂気の色に染め上げていく。
「見なさい、ドミティラ。この外の世界がいかに不潔で、害意に満ちているかを。私はただ、君を守りたいだけなのです」
「守る? これが守るということなの!? あなたは私から陽の光を奪い、友を奪い、呼吸することすら監視しているのよ!」
叫びは、柔らかい羽の壁に吸い込まれて消えた。彼は腹を立てる様子もなく、むしろ可哀想な子供を見るような、慈悲に満ちた眼差しで私を見下ろしている。その瞳の奥には、一筋の疑念も存在しない。自分が私を痛めつけているという自覚も、苦しめているという認識すらもないのだ。
彼は、自分が絶対的な「善」であると、疑いなく確信している。それが何よりも恐ろしかった。
悪意による脅迫ならば、交渉の余地がある。欲望による暴力ならば、隙を突いて殺すこともできるかもしれない。だが、純粋無垢な善意と狂信的な愛によって行われる過剰な保護を、どうやって拒絶すればいいというのだろう。
*
この災厄が始まったのは、一ヶ月前の秋の始めだった。
私の暮らすこの町、アレリアは、旧時代の石造りの建物が立ち並ぶ穏やかな地方都市だった。私は市場の近くにある小さな製本工房で働き、古びた紙の匂いと革の手触りに囲まれて、貧しくとも平穏な日々を送っていた。父も母も早くに亡くし、身寄りはなかったが、幼馴染のプロクラや、工房の店主である老セルウィウスといった温かな人々に囲まれていた。
あの日、私は職場の帰り道、街の裏手に広がる古い聖堂の跡地に立ち寄った。崩れかけた石柱の隙間に生えた野草を摘むのが習慣だったのだ。
夕暮れ時だった。空が茜色から深い紫へと溶けていく時間帯、石造りの破片が転がる荒地の中に、突然、圧倒的な光の渦が発生した。
最初は雷が落ちたのかと思った。だが、音はなかった。ただ、空間が歪み、一筋の光の中から彼が現れたのだ。
空中から舞い降りてきたその姿に、私は息を飲んだ。背中に生えた二つの巨大な翼は、燃え盛る黄昏の景色をそのまま切り取ったかのような、鮮烈な黄色を放っていた。神話に謳われる美貌を持ったその異形は、地上に降り立つと、まっすぐに私を見つめた。
私の瞳、私の髪、私の震える唇。彼の硝子玉のような瞳に、私が映し出された。
「……ついに、見つけた」
それが彼の最初の言葉だった。彼の声が脳裏に直接響いた瞬間、私は全身の毛髪が逆立つほどの本能的な恐怖を覚えた。美しいとも、神々しいとも思わなかった。ただ「ここにいてはならない」「逃げなければ殺される」という、生来の直感が警鐘を鳴らしていたのだ。
私は摘んでいた野草を放り出し、足もつもつと石畳を蹴って逃げ出した。背後で羽ばたきの音が聞こえた気がしたが、振り返る余裕すらなかった。家に飛び込み、扉を閉ざし、息を荒げながら朝を待った。
それが、すべての終わりの始まりだった。
翌朝、目覚めた私の部屋の窓の外に、彼はいた。朝もやの漂う二階の窓の外、何もない空中に佇み、ただじっと私を見つめていた。
パニックに陥った私は、すぐに友人のプロクラの元へ走った。プロクラは街の広場で織物を売る明るい女性で、私にとっては唯一の心の支えだった。
「プロクラ、助けて! 変な男……いいえ、翼を持った怪物が私を追ってくるの! どこへ逃げてもついてくるのよ!」
私が青ざめた顔で訴えると、プロクラは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐにクスクスと笑い出した。
「まあ、ドミティラったら。疲れているのね。翼を持った男だなんて、聖典の読み過ぎじゃない? そんな美しい天使様が、どうして私たちみたいな普通の人間を追いかけるのよ」
「本当なの! 今だって、そこの屋根の上に……!」
私は指をさした。広場に面した時計塔の頂上。そこに、太陽を背にして立ち尽くす黄色い翼の影があった。
しかし、プロクラはその方向を見上げても、首を傾げるだけだった。
「何もいないわよ? ただの鳩じゃない。ドミティラ、最近工房の仕事が忙しすぎたんじゃないかしら。少し休んだほうがいいわ」
彼女には見えていないのか。いや、違う。周囲の人々の視線を追うと、何人かが時計塔を見上げ、感極まったように手を合わせているのが見えた。
「おお、何という神々しい光だ……」「今日の太陽は、まるで祝福のように温かい……」
人々には、彼の姿が「神聖な光の現象」や「温かな奇跡」としてしか認識できないのだ。あるいは、彼が放つ認識の歪みが、人々の目を眩ませているのかもしれなかった。彼の異常な美しさと威圧感は、凡人の肉眼では正しく処理できず、脳が「神意」として都合よく解釈してしまうのだ。




