第2話 カリスト侯爵家
ガタゴトと、規則正しい馬車の振動がテティアの思考を現実に繋ぎ止めていた。
公爵邸を脱出し、広大な草原をひた走る車内。窓の外を流れる景色を見つめながら、テティアは胸の奥に澱のように溜まった感情を見つめていた。
(結局、あの方とは産後一度も会うことはなかったわね……)
脳裏をよぎるのは、かつての夫、ベスタの横顔。
貴族社会の政略結婚が当たり前の世の中で、二人は珍しく『恋愛』から始まった夫婦だった。手を取り合い、信頼し合い、共に未来を語った日々。
しかし、その甘い記憶は今、鋭い破片となって彼女の心を切り刻む。
『愛している』という言葉よりも、教会の教義という目に見えない壁の前に、彼は己の保身と名声を選んだ。
愛した男の脆さを知ることは、彼に憎まれることよりも、ずっと残酷な痛みだった。
(でも、本当にこの子が『悪神』なのかしら?)
ふと視線を落とすと、腕の中で眠る愛娘、エリスディーテの寝顔があった。
公爵家の者たちは、この子の髪と瞳の色を指して『呪われた忌み子』と罵った。けれど、テティアには分かっていた。夢の中で出会ったあの御姿――あまりに神々しく、世界の創造そのものを司るかのような威厳。
この澄んだ瞳の奥に、邪悪なものなど一欠片も存在するはずがない。
テティアが愛おしげに頬をなでると、エリスは夢見心地のまま、花が綻ぶような無垢な笑みを返した。
その瞬間、馬車の中は冷たい過去を忘れさせるほどの、母子の慈愛と、それを守る侍女メアリーの献身的な温もりに満たされた。
〜〜〜〜〜〜〜
公爵邸を発って三日。馬車はテティアの生まれ育った家、カリスト侯爵邸の重厚な正門を潜った。
かつては安らぎの場であったはずの故郷も、今のテティアには『次なる戦場』にしか見えない。
「両親を応接室に。少し、準備をします」
出迎えた老執事に短く告げると、テティアは乱れた髪を整え、一時の休息を装って精神を研ぎ澄ませた。
やがて、扉が開く。
入室してきたのは、父ゾル・デ・カリスト侯爵と、母ミモラ夫人。
テティアは静かに立ち上がり、ドレスの裾を摘まんで完璧なカーテシーを捧げた。その所作には、一分の隙も、甘えもない。
「お帰り、テティア体は大丈夫なの?」
「テティア。まずは座りなさい」
父ゾルの声は、暖炉の火があっても凍りつくほど冷たかった。
母ミモラは心配そうに見つめていた。
両親が着席するのを待ち、テティアは感情を殺した声で、事務的に『離縁』を報告し、そして腕の中のエリスディーテを家族として紹介した。
だが、父の反応は、最悪の予想をなぞるものだった。
「……エリスディーテは忌み子だ。直ちに教会へ保護(という名の引き渡し)を求めなさい」
ゾルは、その存在が家の名誉に泥を塗る汚物であるかのように、不快げに目を細めて赤子を睨みつけた。
視線だけで赤子を射殺さんとする、権力者の冷徹さ。
「私はこの子の母親です。何があろうと、娘と離れるつもりはございませんわ」
テティアは、人生で初めて、絶対的な支配者であった父の瞳を真っ向から見据え、明確な拒絶を突きつけた。
「ふん! 忌み子を産み落とした不届きな娘など、我が家に必要ない!」
「旦那様の仰る通りですわ、テティア。……それよりも、顔色が悪いわね。産後の体に無理をさせるからよ。まずは医者を呼びなさい」
父の怒号に続き、母ミモラが扇で口元を隠しながら冷淡な声を上げる。しかし、その言葉の端には、隠しきれない娘への案じが混じっていた。
テティアはその微かな慈悲を感じ取り、心の中で感謝を捧げる。だが同時に、ここもまた安住の地ではないことを悟り、その顔を青ざめさせた。
その時、大人たちの醜い応酬を耳にしていたエリスディーテが、辟易したように目を開けた。
(……どいつもこいつも、代わり映えしない反応なのじゃ!)
神の魂を持つ彼女にとって、人間の『名誉』や『世間体』など、塵あくたに等しい。エリスは苛立ちを隠さず、せめて一泡吹かせてやろうと、不機嫌全開の表情で両祖父母を睨みつけた。
(な、なんて可愛いの! あの生き物は何!?)
眉間に小さな皺を寄せ、潤んだ瞳で上目遣いに威嚇するその姿は、周囲に控えていたメイドたちの『庇護欲』という名の防波堤を瞬時に粉砕した。彼女たちの心の中では、悲鳴にも似た愛の絶叫が渦巻いていた。
「くっ……! そんな顔をしても無駄よ! 旦那様の言う通り、今すぐ出て行くか、赤子を教会へ差し出しなさい!」
ミモラ夫人は声を荒らげた。だが、彼女の指先は小刻みに震えていた。
(だめよミモラ! ここで抱きしめて、その桃色の頬に吸い付いたりしたら、全ての予定が狂うわ!)
孫娘を今すぐ腕に抱き、溺愛の限りを尽くしたいという本能的な衝動。
それを『侯爵夫人』という鉄の意志で抑え込み、彼女は仮面の下で血の涙を流していた。
「分かりました。エリスを連れて、この家を出ます」
テティアは唇を噛み、震える膝を抑えて立ち上がった。
「ゾル侯爵様、お母様……これまで育ててくださり、ありがとうございました。本日をもって、カリスト侯爵家を離縁し、絶縁させていただきます」
「……待て。自室はそのままだ。しっかり準備してから出るがいい。……最後の温情だ」
ゾルは目を伏せ、いかにも鷹揚な態度でそう言い放った。
だが、テティアはその眼の奥に潜む卑劣な策略を見抜いていた。
自分を軟禁し、教会へ通報し、再び公爵家への交渉材料に使うつもりなのだ。
「感謝いたします。ですが、旅装の準備は既にできておりますわ」
テティアは足元に置いていた大型のトランクを、力強く引き寄せた。そして、父の目の前のテーブルに、一通の書類を滑らせる。
「これは、侯爵家と私との『絶縁許可状』です。私の署名は済ませております。お父様、今ここでサインを」
「な……!?」
「既に国の法務省へは、個人としての離縁申立書を提出済みです。この家には、二度と戻りません」
あまりに手際が良く、一切の迷いがない決別の儀式。ゾル侯爵は、かつての大人しかった娘の変貌ぶりに、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
ミモラ夫人が無言で夫の背中を押し、震える手でペンを握らせる。
サインが終わるや否や、ミモラは執事に書類を渡し、光の速さで事務処理を命じた。
(………お母様、有難うございます)
テティアは、父の監視の目をかいくぐり、自分を逃がそうと動いてくれた母に、心の中だけで深く、深く頭を下げた。
「……勝手にするがいい。もう、何も言わん」
ゾルは吐き捨てるように言い、逃げるように部屋を去った。
「心より感謝いたします。……メアリー、あなたもこれまでありがとう。これで、お別れよ」
テティアは、ずっと傍らに控えていたメアリーに振り返り、静かに告げた。
ここから先は、より危険な逃避行になる。メアリーにまで泥を被せるわけにはいかない。
彼女には、この侯爵家で平穏な幸せを掴んでほしい。その願いを込めた、偽りの拒絶。
しかし、メアリーは何も言わなかった。ただ、地を這うほど深く頭を垂れ、その言葉を飲み込んだ。
(テティア様はずるいです……)
テティアの『私を置いて幸せになって』という身勝手な優しさが、メアリーの心の奥底に封印されていた『何か』を決定的に叩き壊した。
彼女が抱いていたのは、単なる主従の忠誠心ではなかった。
それは、魂そのものを捧げても足りないほどの、激しく、暗く、そして純粋な愛だった。
自分を切り離そうとした主人の手。それを二度と離さないと誓ったとき、メアリーの中で『侍女』としての枠組みが崩壊した。
テティアへの愛を燃料に、彼女は今、最凶のパートナーへと変貌を遂げようとしていた。
行き先は、誰も知らない。
けれど、テティアとエリスの隣には、もう誰も邪魔できない『絆の牙』が揃おうとしていた。
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