2 声が聴きたい
恋のはじまり
冷たい鉄の扉の奥から聞こえたのは猛獣の唸り声ではなく、若い女性の問いかけだった。同年代の少女より大人びた声。イリヤよりも年上かもしれない。
その声に何故が胸が締めつけられる思いがした。言葉が出ない。胸元を握り締めることしか出来なかった僕の代わりにイリヤが応える。
「突然の訪問、申し訳ありません。私はバロー伯爵の長男、イリヤ・バローと申します。もう一人は客人のカミル。この塔に人が住んでいるとは教わっておりませんでした。貴女がどなたなのか、お答え頂けますか?」
イリヤは僕の身分を伏せた。僕の本名はカミル・サレイユ、この国の第三王子だ。病に臥せっている母は王妃であり、母の実家がここ、バロー伯爵の城だ。現当主のバロー伯爵は母の兄であり、僕とイリヤは従兄弟ということになる。
欲を言えば、イリヤには以前のように敬語を使わずに接してもらいたいけれど――次代の伯爵としてのけじめだそうだ。どうせ僕は王位継承の可能性なんてほぼないんだから気にしないで欲しい。
胸の締めつけは落ち着いた。一体何だったのだろう。
中から返事はない。伯爵の名前に警戒しているのだろうか。幽閉されている身なら、不用意な言葉は避けるべきだと考えるだろう。それならば――
イリヤへ目配せして、今度は僕が声をかける。
「僕、カミル! お姉ちゃんの名前はなんていうの?」
「っ……」
微かに音がした。イリヤと顔を見合わせる。どうやら笑ったようだ。警戒を和らげようと思って意識して幼くし過ぎたかな? 恥ずかしくなってきた……
顔が火照るのを感じながらもう一度話しかける。彼女の声が聴きたい。
「ねえ、お姉ちゃん?」
今度ははっきりと聞こえるくらい大きく笑いはじめた。扉越しの声は朗らかで、何かの罪で幽閉されている人物には思えなかった。腹の底から笑いを出し終えた彼女は早口で喋りだした。
「いきなり笑ってごめんなさいね。貴方のような幼い子にお姉ちゃんなんて呼ばれるほど、私は若くないのよ。それに貴族でもないからそんなに堅苦しい話し方も困るわ。そうね……リザと呼んでもらおうかしら。坊や達」
リザ……良い名前だな。
「わ、私はもう17歳だ! カミルはともかく、子供扱いしないでもらいたい」
イリヤが怒って訂正した。僕は「ともかくってなんだよ!」と反論する。内心ではイリヤが僕を呼び捨てにしたことが嬉しい。
「ふふ、仲が良いのね。……羨ましい」
「リザはいつからここにいるの? 他に誰もいないの?」
「私は……そうね、貴方達が生まれる前からずっとかしら。この中は私一人よ。毎日食事を運んで来てくれる使用人さんとは少しお話するけれど、こんな可愛らしいお客さんは初めてだわ」
リザの声は明るいが、どこか心悲しげに聞こえた。
それからしばらくリザと僕は言葉を交わした。元々会話好きなのか、息つく暇もなく語ってくれる。
食事の給仕は交代制で女性が来てくれること。鉄格子付きの小さな窓から眺める星空が好きなこと。部屋の中には本がたくさんあって、伯爵の許可が出れば買い与えてもらえること。
「本は好きなのだけれど、片付けが苦手なのよ。どんどん積み上がってその山が何個も出来てしまってね。ある日とうとう崩れてしまったの。使用人さんが異変に気付いてくれて助けてくれたのだけれど、バロー伯爵もその場に居合わせちゃって……散々怒られたわ。伯爵ったら怖いのよ? あんな精悍な顔立ちで睨まれるなんてもう……命がいくつあっても足りないわ! 熊みたいに大きくて、黒い服をかっちり着込んでいるの! 本物の熊のようだった。それからあまりにも増えすぎだってことで、残す本と捨てる本に泣く泣く分けさせられて……本は教会へ寄付したそうだけど、あの大量の本全部入る本棚なんて、教会にあるのかしらね? ふふっ、本だらけの教会だなんて、まるで図書館ね」
扉越しのリザは表情豊かだ。一つの思い出でころころと感情が入れ替わる。喜び、驚き、悲しみ、それらの感じたこと全てが彼女にとって特別な思い出なのだろう。どれだけ聴いていても飽きない。女性の会話で退屈しないのは初めてだ。
僕の母、つまり王妃が主催のお茶会に参加したことがある。僕が歳の近い貴族の子供達と交流出来るように開かれた会だった。ひと通り挨拶を終えるとたちまち令嬢達に囲まれた。
娘を王子の婚約者にと考える貴族は多いと聞く。王族とお近づきになりたい令嬢達のギラギラとした視線を浴びて僕は恐怖した。
初めは僕の関心事について受け答えをした。次に彼女達は特技や長所などを自慢げにペラペラと喋りだした。挙げ句の果てには自分以外の令嬢の悪口を言いあった、僕を囲った状態でだ。恐怖でしかなかった。
人を悪く言えば自分の印象も悪くなるなんて考えてないんだ。
貴族の思惑なんて知るよしもなかった当時の僕は、友達を作る良い機会だと期待に胸を膨らませていただけに落胆も大きかった。お茶会を嫌いになり、女性という生き物にうんざりした。それなのに――
リザの言葉は飾り気が一切ない。彼女の屈託ない言葉は好感が持てた。ずっと聴いていたくなるほどだ。
むしろ好きだな。
僕は自分の心の声にはっとした。なんだ? 今の気持ちは……す、好き? だ、誰が何を好きだって!?
自然と溢れた感情に、みるみる顔がのぼせたように熱くなる。リザの声を聞いただけで胸が締めつけられた理由がわかった。耳まで熱い。顔を両手で覆い、心の中で煩悶する。
僕は初めての恋を自覚した。




