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集落に戻る頃には鈴彦姫の思考力も回復しており、鈴彦姫は両手で赤い頬を隠すかのように覆う。
再会を願った魂持つ者と、唇を重ねた。
和泉は、ずっとこうしたかったと言った。和泉が望んでいたのだ。望んでいてくれたのだ。そう思うと鈴彦姫は嬉しくてどうしようもなかった。
上手くいけば、彼に美鈴が鈴彦姫だと気付いて貰えるかもしれない。その希望が、願いが、可能性という色を帯びて来たのだ。
だが鈴彦姫の幸福も、金狐と銀狐に囲まれては吹き飛んだ。皆、慈聖に仕え普段は聖域の奥で暮らし姿を現さない。少し森を抜け出しただけでこんな処遇をされる訳がない。
ならば、と鈴彦姫はひとつだけ思い当たる節に目の前が真っ暗になる思いだった。慈聖の耳に入ったか、あるいは千里眼の才が時満ちて花開いたかのどちらかだろう。
和泉のことを、知られたのだ。
妖である鈴彦姫が人間と親密になった。何処まで知られたかは分からないが、いずれにしても慈聖の前では隠し事など出来まいと鈴彦姫は息をつく。
「鈴彦姫」
一際美しい金狐が口を開いた。白狐になりかかる頃なのだろう。白金の髪が月明かりに輝いている。
「自が罪は分かっておろう。慈聖様がお呼びだ」
逃げる気力などないのに鈴彦姫は金狐と銀狐に囲まれたまま、慈聖の待つ聖域へと進んだ。慈聖は鈴彦姫を見ると一瞬だけ悲しそうな表情を浮かべたが、すぐに長の厳しい顔つきになった。
「何故呼ばれたか解るかい、鈴彦姫」
慈聖の目を見られずに、鈴彦姫は、はいと肯定する。うつむく鈴彦姫の視界に慈聖の足が入った。
「それじゃぁ、自分の罪を自分の口から告白するんだ、鈴彦姫」
鈴彦姫は口を開こうとして、自身が震えているのを知った。先程、和泉と触れ合わせたばかりの唇で罪を言わされるとは皮肉だと自嘲する。
「人間との……接待、交流、全て、空狐慈院さまの定めた決まり事に背いております……」
益々うつむく鈴彦姫に、何故、と慈聖の静寂に溶けそうな声が聞こえた。鈴彦姫と慈聖以外にはまだ誰も口を開いていない。
「何故、自らに名を付けた。名前は万象を縛る呪だと教えた筈だ。何故、自らを追い込むような真似をしたんだ。
……〝美鈴〟」
がくん、と鈴彦姫の足から力が抜け、鈴彦姫は両膝をつく。瞠目する鈴彦姫に慈聖が言葉を投げかける。
「人間に呼ばれる時は呪力を感じなくても、美鈴より力ある者が美鈴と呼べば美鈴は自らで縛り付けた鎖に体を締め付けられるんだよ。
解るかい、美鈴。自らが課した呪の重さが」
鈴彦姫は地面に倒れていた。指先にも力が入らず、指一本動かすことはできない。周囲に立っている金狐と銀狐はまるで、お前は地面に這いつくばっているのが相応しいとばかりに、こちらを見向きもせず前方を向いている。
「……鈴彦姫、人間の男と密会していたそうだね。人間と妖の色恋は禁じられている、僕のおじいちゃんの代からね。知らない訳じゃないだろう?」
「存じて、おります……ですがそれでも、気持ちは止められません」
金狐、銀狐が鈴彦姫を睨み付ける。慈聖に反論するとはどういうつもりかと目が言っている。
「慈聖さま、あの人は私が再会を願った魂なのです。輪を巡って、四百年の時を経て、再び目の前に現れたのです。会うなと仰る方が酷ではございませんか」
慈聖が息を吐いた。鈴彦姫、と呆れた声で幼子を諭すように慈聖は言う。
「気持ちは解るつもりだ。でもその人間は、お前を鈴彦姫と気付いているの?」
気付いていない。慈聖に嘘など吐けない鈴彦姫はそう答える外ない。慈聖は鈴彦姫を見下ろしてまた息を吐く。
「どうしてその人間が再会したい魂だと気付いたの?」
「懐かしい、香がしました。間違える筈がありません、あの魂を、私が」
「でも向こうが気付いていないんじゃ、話にならないことも解っていた筈だ。鈴彦姫、いくら会いたいと願った魂でも、人間に恋慕するなんて普通じゃないんだよ」
それが定められた決まり事だからなのだろうか。好きになった相手が人間だっただけなのに、こんな目にあうなんて。そう思うと鈴彦姫は顔も声もあげられなかった。
「罪を犯せば追放、とある。だけど色恋の場合は相手に二度と会わないと誓うか相手の記憶を消すかすれば、追放はしなくても良い。
鈴彦姫、どれを選ぶ?」
鈴彦姫は答えない。地面に突っ伏したままだ。誰も何も言わぬまま、時が過ぎる聞こえない音が聞こえるような静寂が聖域を包む。風さえも吹いておらず、無数の呼吸だけが其処に存在することを示す。
「鈴彦姫」
慈聖が促せば、のろのろと両手をついて鈴彦姫は起き上がる。だが顔は上げず、うつむいたまま、ぽつりと呟いた。
「……選べません」
予想だにしていなかったのだろう。妖狐達の間に動揺が走った。ざわつき、慈聖に指示を求める。それでも鈴彦姫は顔を上げない。
「何故、選べないの?」
静かな慈聖の声音が妖狐達を落ち着けていく。だが鈴彦姫はその声が感情を押し殺したものであることを見抜いた。のろのろと顔を上げ、鈴彦姫は慈聖を見上げる。表情も、何かを我慢したもので鈴彦姫はそうさせているのが自分だと気付いて申し訳なくなった。だがこれは、譲れない。
「私にあの人の魂を拒絶することなど出来ません。二度と会わないことも、忘れられることも出来ません……」
「忘れられているも同然なのに?」
和泉が、美鈴としてしか鈴彦姫を見ていなくとも、構わなかった。死の間際にも思い出せなくとも、鈴彦姫はあの魂の傍にいられればそれで良いのだ。
「鈴彦姫の本質を知らないのに?」
妖だと知らぬ和泉に、本当に愛されることはない。だが和泉なら、あの魂持つ和泉ならば、妖であっても受け入れてくれるのではないかと鈴彦姫は思う。
「妖と人間の時間は同じではないのに?」
和泉と鈴彦姫の衰えは目に見えて相違が分かる。老いる速さが人間と妖では違うのだ。いつまでも歳を取らず少女の外見のままである鈴彦姫は怪異以外の何物でもない。
「……人間に恋慕しても、置いていかれるだけだよ、鈴彦姫」




