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一瞬、鈴彦姫の脳裏に和泉の顔が浮かんだが異を唱えられる訳もなく、承諾するしかなかった。和泉に会わないよう道を変えなければならない。和泉には戻って来てから事情を話すしかない。
「初めまして、鈴彦姫です。よろしくお願いしますね、黒狐さん」
北斗七星の化身であると言われる黒狐は緊張しているのか、堅い表情で挨拶を返す。鈴彦姫は慈聖から呪をかけられた木の葉を受け取り、黒狐と共に〝外〟へ出た。
いつもとは違う道を通って、鈴彦姫は黒狐にあれは何これは何と訊かれてもいないのに教えて歩く。黒狐は話し下手なのか、自分から口を開いて話をすることはない。だが鈴彦姫の話に相槌を打ってはくれるので、鈴彦姫は気まずい思いをすることなく店に向かった。
黒狐は自分から進んで重たい荷物を持ってくれたので鈴彦姫は手持ちぶさたになりながら買い物をする。いくら何でも初対面の黒狐に重たい物を持たせるのは気が咎めるので、軽い物を買うだけに留めた。
「帰りましょうか、必要な物は全部買いましたし」
「……はい」
鈴彦姫は傾き始めた西日を見てから商店街を出る。黒狐は数歩下がって鈴彦姫の後を付いて来る。背の高い仏頂面の黒狐を、ちらと見て鈴彦姫は和泉にいつ会いに行こうかと考えていた。
「……夕陽」
黒狐がぼそりと呟く。え、と振り向いて鈴彦姫は黒狐を見上げた。黒狐は視線を夕陽に向けている。その眼差しは穏やかで優しいものだった。
「……此処では、随分と綺麗に見えるんですね」
鈴彦姫も頬を緩めて夕陽に目をやる。黒塗りの下駄がからころと鳴って帯飾りの鈴が儚い音を立てる。黒狐の草履も道路と奏曲している。
「黒狐さんがいた場所とは違う夕陽なのかもしれませんよ」
「……そう、かもしれません、ね」
くすくすと笑って鈴彦姫は黒狐に失礼を承知で何の粗相をしたのかと尋ねた。
「葛葉さまはあまり怒る方じゃないという印象を受けたものですから……差支えなければ伺っても良いかしら」
黒狐は恥ずかしそうに肩をすくめ、人間に見られてしまいました、と告げた。
「……慌てていた為に上手く変化が出来ずに、人間に尻尾があるのを見られてしまったのです。普段なら大処罰が下るのですが、葛葉様は私が人間に尾を見られたのが、子どもを救う為であったと知ると緩和して下さったのです」
葛葉が治める集落は、慈聖とは違って周囲が民家ではなく自動車道らしい。数日前、黒狐が森と道路の境を歩き、人間達が捨てて行く塵を拾っていると子どもが泣いていた。五つか六つ頃の幼子は母とはぐれたのか顔を真っ赤にして母を呼ぶ。
そのうちにふらふらと車道へ出て行く子どもの車線に、車が走って来た。迫る車に子どもは目を奪われて足を止めている。このままでは、と思って黒狐は飛び出した。
しかし人間の姿ではとても間に合わない距離だった為、黒狐は瞬時に元の姿に戻って子どもの所まで行き、人間に変化して抱き上げ離れたのだ。子どもを抱えて道路に転がった黒狐は、ふさふさの尾が捲れた着流しから覗く足に触れるのを感じてぎょっとした。
慌てて消したが、車の運転手はしっかりと黒狐の尾を見ていたし、変化も見ていた。大騒ぎになりかけたが、運良く近くにいた妖が葛葉に伝達をしていて葛葉が駆け付けていたらしい。葛葉はすぐに運転手の記憶を消した。
「……葛葉様は『狐にでも化かされたのでしょう』と仰って運転手を去らせました。子どもも、母親と出会って手を振り帰って行きました。葛葉様はそれだけで全てを悟られ、私へ静かに慈聖様の元へ行くよう仰ったのです」
だから此処へ来たのだと黒狐は告白する。鈴彦姫は成程と納得して沈み行く夕陽を見てから黒狐へと視線を転じた。
「やっぱり、葛葉さまは怒らない方だったのですね」
「……はい」
それから二人は集落へ戻るまで言葉を交わさなかった。鈴彦姫の鈴だけが高い音を響かせているのみ。
集落へ戻ると黒狐は袋を鈴彦姫に預け、慈聖の所へ飛ぶように向かう。鈴彦姫は集まって来る妖達に買って来た食料を渡し、皆が食事や遊戯に夫々夢中になっている隙に森を抜け出した。和泉に会う為だ。
急ぐからころという下駄の音を聞いたのか、和泉が道の角から顔を覗かせる。知らず笑みをこぼした鈴彦姫に彼も微笑し、懐かしい香が辺りを包んだ。
「今日は遅いんだな。どうかしたのか?」
息を切らせる鈴彦姫に和泉がきょとんとした表情で問うた。息を整えて鈴彦姫は遅れた理由を手短に伝える。これからはもしかすると毎日決まった時間には会えないかもしれないと。
「新しい手伝いが雇われた? その面倒を美鈴ちゃんが見てやらなきゃならないのか……そりゃ大変だな」
「だから、もしかしたらしばらく会えない日があるかもしれません……どうかお体に気を付けて下さいね」
鈴彦姫がそう言うと、しゅん、と和泉が肩を落とす。会えないのか、と寂しそうに言うので鈴彦姫の胸が締め付けられて切なくなった。
「ごめんなさい、私の力ではどうしようもないのです」
「でも、会える時は会いに来てくれるんだろ?」
最後の頼みの綱であるみたいに和泉が必死になって問うので、鈴彦姫は笑んだ。会える時は会いたい。
「はい、勿論です」
やった、と和泉が諸手を挙げて笑顔になる。その様子を見て鈴彦姫も嬉しくなる。懐かしい香は二人を包み込む。
「──ねぇ、美鈴ちゃん」
穏やかな声音で和泉が言った。
「会えない日がありそうな時の為に、抱き締めても良い?」
「えっ?」
答えるより先に鈴彦姫の華奢な体は和泉の腕の中にすっぽりと収まっていた。懐かしい魂の香が、強くなる。感情に任せて抱き締められた前日と違って、鈴彦姫は動揺する。
「ずっと、こうしたかった」
耳元で囁かれる言葉に鈴彦姫は頬が熱くなるのが分かって恥ずかしいと思った。和泉の二の腕に手を滑り込ませたが、押し退ける所か縋り付くような格好になってしまう。何より鈴彦姫に、この懐かしい魂の香を払い退けることなどできない。
「ずっとずっと、望んでたんだ──美鈴ちゃんもそうだろう?」
益々強くなる懐かしい香に、くらくらとしながら鈴彦姫はこくりと頷いていた。和泉が鈴彦姫の後頭部に手を添える。向き合い、鈴彦姫は視界一杯に和泉を見つめながら唇に何かが触れ合うのを感じた。そしてとろんと目を閉じた。
幾何か経ったのだろう。強い香から離れ、鈴彦姫は我に返った。和泉が見つめているのを認めて、鈴彦姫は微笑を返す。和泉も笑んだ。
「さあ、そろそろ戻った方が良いかもしれない」
「……そうですね」
まだぼんやりする頭で鈴彦姫は家路を辿った。和泉は鈴彦姫が角を曲がるまで見送り、一度帰宅してから別の場所へと出かけて行った。
夜の道を、何かが駆けた。




