3-2
「遅くなったし、送ろうか? 家の人に怒られるかもしれないなら俺が謝るし」
申し出は有難いが、森へ連れて行って慈聖に会わせる訳にもいかないので、鈴彦姫は丁重に断って森へ急いだ。妖達は遅いと不満をもらしたが、鈴彦姫の泣き腫らした目を見て心配そうに大丈夫かと尋ねる。
「何所か痛いの?」
「転んだ?」
「人間に何かされたの?」
「おいらが敵を討つよ」
鈴彦姫の周りに駆け寄って来て妖達は口々に騒ぐ。集落の古株である鈴彦姫を皆が頼りにしているのだ。人間は失った情を妖は失わない。
鈴彦姫は礼を言い、誰かに今日は慈聖の所へは行けないと告げて欲しいと頼んだ。九十九神は中々、聖域に近付けない為に尻込みしたが、天帝少女が名乗りをあげる。いの一番に挙手する筈だった鵺が先を越されて目を真ん丸にした。
「え、あんた、慈聖さまに興味ないって言ってたじゃない」
抗議する鵺に負けず劣らずの美少女である天帝少女は、ないわよ、と素っ気なさすぎる程あっさりと言う。じゃあ何で、と詰め寄る鵺に天帝少女は涼しい顔で反論した。
「あんたね、慈聖様の気持ちを少しは考えたらどう?」
「慈聖さまの、きもち?」
「毎日毎日遊びに来られて、どう思う? あんたも少しは引くことを覚えなさいよ。押して駄目なら引いてみろって、聞いたことあるでしょう?」
我が道を行く我儘姫様の鵺も、天帝少女の言葉に納得したのか従った。ほぅ、と天帝少女の手練手管に感心する声が妖達からもれる。
それじゃぁ、と鈴彦姫は天帝少女に声をかける。夜闇は益々深くなっていた。
「お願いするわ、天帝少女。ごめんね」
「……いいえ」
聖域へ向かう天帝少女を見送り、鈴彦姫は皆よりもずっと早くに床に就いた。
* * * *
聖域に足を踏み入れた時から慈聖はまるで訪れたのが鈴彦姫ではないことを知っていたかのようだった。白銀の髪が風に吹かれている。優愛に満ちた微笑を浮かべて慈聖は天帝少女を見る。
「やぁ、天帝少女。どうかしたの?」
その微笑が僅か皆に向けられるものとそうでないものと判断して、天帝少女は一礼する。慈聖に、異性としての興味を抱いたことがあったと天帝少女は誰に告げたこともない。すぐに憧れに変わった。
「鈴彦姫が、今日は来られないことをお伝えに来ました」
ぴくり、と慈聖の頬が微かに引きつる。天帝少女は目を伏せ、慈聖の言葉を待つが不自然な程に静寂は長い。
この集落へ来て天帝少女は慈聖に目を奪われた。だがそれはどの妖も同様であることがすぐに分かった。一種の神性という面紗を纏った慈聖に皆、惹かれる。それを悟った天帝少女はすぐに慈聖の表情の違いに気付いた。そして自分に向けられたのがそれだと知って恋慕を憧憬に無理矢理変えたのだ。
その方が楽だと言い聞かせて。
観察力に長け、聡明であるが故に鵺みたく振舞えなかった己を、何度哀れと噎び入っただろう。何度愚かと嘆いただろう。鵺が羨ましくさえあった。
だが悟った身には何をしても辛いだけである。それが解っていたからこそ、天帝少女に選ぶ道は残されていなかった。今はもう、僅かに心騒ぐだけで選択が正しかったことを思い知るのみ。それがどれ程、悲しかろうと。
闇夜に浮かび上がる白狐の化身も、何となく感じているのだろう。だから天帝少女を近くには招かないし、過度に甘やかしはしない。
良い、と天帝少女は思った。それで良い。それが正しい。それを、望んだのだと。
だからか二人には暗黙の了解が存在する。慈聖が天帝少女の心の領域に踏み込まぬ限り、天帝少女も慈聖にはひとりで近寄らないというものが。だが今夜はその掟を犯さねばなるまい。そうでなければ何故ひとりで訪れようか。
「その理由については存じませんが、お耳に入れたいことがございます。これは長としても、そうでない慈聖様にもお伝えしなければならないことです」
核心に触れた天帝少女を、慈聖が漆黒の瞳で鋭く見やった。長の顔という訳か、と天帝少女は胸の内で呟く。形にならぬ言葉は天帝少女の内側で氷花となって咲いた。
「先程、〝外〟へ出ました。鈴彦姫の帰りが遅かったので偵察の為に羽毛を纏い鳥の姿で、です。
鈴彦姫は泣いて戻って来ましたが、それには人間が関わっていると見て良いと思います。夕刻、目にしてしまいました。
人間の男に抱擁された鈴彦姫を」
長の表情も剥がれた慈聖の驚愕が浮かべられた顔を、天帝少女は初めて目にしていた。
* * * *
「鈴彦姫」
翌日、鈴彦姫は天帝少女に呼び止められ、鈴彦姫は昨夜の礼を言った。天帝少女は冷静にかぶりを振って、慈聖が買い出しの前に来るよう言っていたことを伝えた。思いを巡らせながら鈴彦姫は慈聖の元へ向かう。
聖域では、慈聖ともうひとり、見知らぬ男がいた。男は慈聖と正反対に黒髪に黒の着流し、褐色の肌をしている。異国情緒を感じさせながらも切れ長の涼しい目元や薄い唇は大和相だ。
「鈴彦姫、僕の叔母にあたる葛葉殿を覚えている?」
慈聖が唐突に鈴彦姫に声をかける。鈴彦姫は頷いた。
白狐の葛葉と言えば知らぬ者などいない。浄瑠璃の題材にもなり、安部保名の子を産んだ。その子は後に安部晴明と名乗り、平安の都で陰陽師として名を轟かせたと言う。
鈴彦姫は一度だけ葛葉と会った事があるが、九尾を経て天狐の域に差しかかっている葛葉は美しく、天女のように見えた。慈聖と同じ白銀の髪は絹と同じくらいに光沢を放ち、ゆったりとした白の服は足元まで彼女を覆い、白磁の肌は日の下でも月の下でも恩恵を受けて淡く輝いていた。
「彼は葛葉殿の集落で何やら粗相をしたようでね。大した咎めではないらしいから僕の所に寄越されたんだろう。ひとつ僕の役に立ったら戻れるみたいなんだ」
名前はまだなく、黒狐というと鈴彦姫は慈聖から聞く。その間、黒狐は微動だにせず立っていた。
「僕の役に立つと言っても、僕はあまり此処から出られないからね。鈴彦姫と一緒に〝外〟を見て社会勉強して貰おうと思ったんだ。それで鈴彦姫の役に立てば僕の役に立ったということで、帰してあげようと思う。
今日の買い物に彼が付いて行っても構わないね?」




