71、二日目:Bチーム『抗わないを払拭する』
耳を掠めていく風。
気付いた時には恒心の体は吹き飛ばされていた。流れていく景色の中に映る赤。
コンクリートの壁に背をぶつけ、恒心は一瞬意識を失いかけた。腹が焼けるように痛い。やおら視線を向けると、巨大な獣の爪に引っかかれた傷が入っていた。
(……血。いたい。血……)
際限なく流れる血はアスファルトに広がる。右腕に巻かれている襷の端も赤黒く染まっていた。
プツンと音を立てて切れたゴム。ポニーテールに束ねていた彼の髪は力なく垂れ落ち、彼の視界半分を覆う。
――ウギャアア
前足の爪に血を付着させた巨大な獣は恒心の眼前で得意満面に吠えた。
周囲の人間にはこの獣――妖の姿は見えていない。だが、人間である恒心の姿は見えているのだ。
「きゃあああ!」
恒心の姿を見た者が悲鳴を上げる。
突然人が飛んできたかと思えば腹から大量の血を流しているのだ。そんな彼の姿を見て気分を害した者や気絶した者、パニックを起こした者、それにあてられた者、辺りは地獄絵図と化していた。
「恒心!!」
彼の元に駆け寄ろうとしたトトだったが、目の前に現れた妖の群れによって叶わない。舌打ちを鳴らしたトトは周囲に視線を送らせた。恋紋は恋紋で別の妖の群れと対峙中。
今すぐにでも妖を退治したいが、一般人が無数にいる、それも正常ではない状態で、幻覚を見ているかのようになにかと戦っている神恵子を見ては、混乱が混乱を呼ぶに決まっている。
今は神恵子へ意識を向けている妖だが、人間に危害を加えない保証もない。
まずは、ここから一般人を安全な場所へ避難させなくてはいけないのだ。
――ウー、ウー
サイレンの音と共に現れた一台のパトカー。
中から現れたのは神来の隊長・満。
流星が梟・紅水晶を使って連絡を飛ばしていたのだ。
「規制線を引く。流星、その女性を岐神病院に搬送して。恋紋、妖に警戒しつつ誘導の手伝いを」
「「了」」
満の迅速な指示出しに即座に行動に移した二人。
「……早く恒心の元に生きたいのに、くそっ!」
珍しく苛立ちを見せるトトの肩に手を置いた満は謝った。
「ごめんね。あの子が心配だろうが、一般人の保護が優先だ。その点を揺るがすわけにはいかない。これが俺たちの仕事なんだ」
「はい、重々承知です」
「だから、君たちが助けなさい」
その言葉に俯かせていた顔を上げるトト。
「生徒である君たちには、こちらの道理を無視していい理由がある」
目を細めた満はトトの背中を強く推した。
揺れた左耳のガラス玉とタッセルの耳飾り。一度目を閉じ、開いた彼の縹色の瞳からは言い知れぬ覚悟が伺えた。
「……乃々子ちゃん、閉鎖領域で恒心の元に行ける? ついでにあの獣妖程度、君なら倒せるでしょう?」
「……ええ、もちろん」
長い黒髪を払いながら口角を上げた乃々子は「『閉鎖領域』」と唱えると、その場から姿を消した。
「綸ちゃん」
「は、はい!」
「僕の側から離れないでね」
「……はい」
「あと、力を貸して」
「……はい!」
「ヒュー……ヒュー……」
恒心から漏れ出るか細い息。血は未だ流れている。
(……血。いたい。血、止まらない。……死ぬのかな)
彼は受け入れるように目を瞑った。
――――――
世界は僕の居場所じゃなかった。
僕の親は親じゃなかった。
友達は所詮人だった。
逃げるなんて選択肢はなかった。だって世界は繋がっているから。
逃避行したって、幼い僕は補導される。
“優しさ”という行動が僕を縛り付けるんだ。
だから、赴くままに生きた。
その日ご飯が無ければ何も食べずに過ごした。
眠れないなら眠らなかった。
楽しそうだと思ったものは楽しんだ。
自分には笑顔とはしゃぐ姿が似合うと聞いた。じゃあやろう。
みんなが僕に抱く印象通りに過ごした。
誰かの困っている顔が苦手だと知った日から、誰かを困らせない行動をした。
ハサミが怖いと気付いた。前に母親に向けられたからだと思う。耳元で鳴るハサミの音が嫌い、なら髪は切らないでいいや。でも邪魔だから縛っておく。
生きていたいとは思わないけど、死にたいとも思わない。今生きているから、と生きることを継続した。
でも、たまに僕の運命を確かめたくなる日がある。
そういう時は決まって橋の手すりの上を何回も何回も歩いた。時間は夕方の音楽が流れるまで。
橋の下は浅い川。落ちたら痛くて血がいっぱい出て、死ぬ。
怖いとは思わない。
足を滑らせて落ちても、風が吹いてバランスを崩したとしても、それが今日の僕の運命だから。
――――――
(これが、今日の僕の運命。突然現れた獣に殺される)
――「じゃあさ、誰かがお前に生きていてほしいって願ったら、それ実行してくれよな」
恒心は目を開いた。声が聞こえたからだ。脳裏に浮かぶ気だるげでかっこ悪い男。
――「俺、お前に生きていてほしいよ」
月並みな言葉かもしれない。だが、その一言が恒心を動かした。
「……『加密列之箱庭』」
自分の腹に手をかざして唱える。淡く光り出した傷はゆっくりと、だが確実に治っていく。
――「一人は寂しくて死んじゃうからさ。俺を一人にすんじゃねぇよ?」
(あの人、困った顔をしていた。嫌だな。もう見たくないな)
恒心は自分の意志で運命に抗ったのだ。
視界の端に入り込んだ淡い光に「やればできるじゃない」と、微笑んだ乃々子。彼女は目の前で咆哮を上げる獣妖に飛びかかった。
綸の神使・白狐の『常葉』は、手から生み出した炎で妖の足を中心に攻撃をしていた。足を焼かれた妖は立っていることができず転がり、その隙にトトが器の破壊を行う。
『白狐』
【狐火:純度の高い青い炎を生み出す】
圧倒的に戦闘慣れしていない綸も二体ほど器の破壊を行ったが、早い攻防にはついていけていない。剰え妖は綸を狙っているため結界で身を守ることで手一杯なのだ。
(数が多すぎる。綸ちゃんの神使・白狐くんが善処してくれているけど、倒しても、倒してもどこかから湧いて出てくるから一向に減らないことが問題だ)
トトの神使・神獣 狼、灰狼『望月』と黒狼『穏月』も、妖の体に嚙みついたり、引っかいたりして、地面に縫い付けてトトが器を破壊しやすいようにしている。
だが、二匹の能力は戦闘向きではないのだ。あくまで狼が行える延長線上に過ぎない。
『灰狼』
【危機察知:対象一人の危機を察知できる。あらかじめマーキングが必要】
『黒狼』
【遠吠え:特定の仲間に合図を送れる。あらかじめマーキングが必要】
(まずいな。創式の印が薄れてきている)
トトの左親指と人差し指の側面の青い刻印は、彼が創式妖術を使用する度に薄れていく。彼の器内の妖力が減っている証拠だ。
(どうすれば……)
――バサッ
上方から聞こえてきた翼のはためく音。
視線を送りそれを捉えたトトは、悔しさの滲む笑みを浮かべて呟いた。
「……くっそ。やっぱかっこいいな」
ブロンドの髪と瞳を持ち、背中から二対の濡羽色の翼を生やした少年は唱える。
「創式妖術『千変万化之烏羽』変化『針千本』」
詠唱に合わせ、彼を囲むように宙に浮かんでいた無数の烏の羽は煙を出して針へと姿を変えた。彼の下ろされる手の動きに合わせて落下していく針。器にピンポイントに刺された針によって、交差点に蔓延っていた妖は一斉掃討された。
(間に合って良かったね)
脳内で語りかける、彼――夕柊の中のもう一つの魂、烏天狗の『夕』。
(先生に止められなければもう少し早くに駆けつけられたんだけどね)
(ピンチでの登場、主人公みたいでかっこいいじゃん)
(それもそっか)
夕柊は翼を仕舞いつつ、アスファルトに降りていく。
「遅れて登場してきました、主人公です」
首をこてんと傾けて無表情で告げる夕柊。
(自分で言うとかっこ悪いね、うん)
(あらま)
ご高覧いただき感謝の至りでございます。




