和哉のこれから
「ん…。」
気がつくと戻っていた。セミが五月蠅く鳴くあの部屋に。
部屋の中に広がっていた魔法陣はみるみるうちに収束していって、ただの一滴の汗の染みになった。
「…レイ」
和哉は泣き笑いをした。
「あの日のあの時間の場所へ帰らせてくれたけど、俺は元に戻らなかったみたいだ」
和哉の身体を過ぎた時間は戻らなかったとみえ、視界にうつる自分の腕は、この世界で宿題に精を出していたころより日に焼け、筋肉質になっているように見えた。
そして精神も。たぶん以前とは違う。
和哉はそう感じていた。
立ち上がって見る。
身長も少し伸びているようだ。そしてプールで泳いでいて水中からあがったばかりの時のように、重力の負荷を感じる。
ちらりと宿題の問題を見る。
色々と忘れているようだった。
「レイ。死ぬな負けるな。負けるな死ぬな」
泪が和哉の頬を伝って落ちた。
「俺は俺のすることから逃げない、レイと一緒だ…だから死ぬな」
わらび餅売りのトラックが家の前を通りすぎ、隣の小学生がプール解放から友人達と帰ってきても、和哉は宿題をする手を止めなかった。
やがて熱帯夜をフラフラになりながら工藤家主の工藤博一51歳とその長男
工藤遥希が帰ってきた。
一緒の電車になったようである。
「ただいまー。和哉。牛丼買ってきたぞー」
「何やってんだ。雨戸もたてないで。あーあ家の中ヒエヒエじゃないか。電気代が…」
そこまで言って、兄、工藤遥希は弟の様子がいつもと違うのに気が付いた。
「和哉ぁ。ちゃんと宿題してたのか?今日一日で日に焼けて真っ黒じゃあないか」
「うん。兄貴ちょっとね。」
遥希は何だか弟が眩しく見えた。
「俺、塾に行きたい。なりたいものが出来たんだ」
工藤博一51歳とその長男遥希25歳は顔を見合わせた。
新学期
少しだけ逞しくなった身体と少しだけ落ち着いて大人びた和哉は高校の面談室にいた。
韓流スターの追っかけから帰ってきた母裕子48歳もいっしょである。
今日は高校での3者面談である。
「先生、俺将来心理学をいかした職業につきたいんです」
母、工藤裕子は目を見開いた。兄弟そろって目立つところのなかった息子達である。覇気だの目標だの無縁だった息子の口から出た将来の「夢」
「よく決めてくれたね」
担任の教師は微笑んで頷いた。
「お母さん、目標を持った子は強いです。なりたいものがある生徒はこれから伸びていけるんですよ」
裕子はあらためて下の息子を見た。
気のせいだろうか?顔つきから幼さが消えて精悍さが出たような気がする。
そういえば、家の中での動作もキレキレで身軽な気がする。
…磨けばもっと光ってくるような気がした。
母、裕子は家に帰るとスターの団扇を段ボールにしまった。
前より栄養バランスに気をつけた食事の献立にするようになった。
家の中も、前より整え、息子達や夫の身だしなみにも気を配るようになった。
工藤家に起こった変化はきっと僅かなものだった。
でもその僅かな変化が周囲を変えていった。
会社の給湯室で泣いていたOLを遥希が見つけて、以前とは違ってパリっとしている自分のスーツに背を押され、珍しくなぐさめた。
本来その日に辞めていったはずのそのOLは代わりに労働基準局へ受けたパワハラの数々と無茶な勤務体制の記録の証拠を持っていった。
OLはまた欠席しようとしていた同窓会に参加してそこでお酒の勢いを借りて己の置かれた理不尽な会社からの扱いについてぶちまけた。
その高校の同窓会に来ていた同級生の一人に彼氏が弁護士を目指している者がいて、デートの時にその様子を何かの話題とともに彼氏に伝えた。
その彼氏の先輩に大手の弁護士事務所に勤めている者がいて遥希の会社に勤めていた人物の過労死を巡っての訴訟に関わっていた人物がいた。
巡り巡って。遥希の会社の状態は偉いさんから是正勧告がきて、過労死を巡る裁判でも負け、株主総会でつるし上げられて好き放題をしていた創業者一族の鼻つまみものが失脚した。
変化は小さな物だったかもしれない。
でも兄、遥希の会社の社員に対する待遇は真っ黒からグレイ位に変わった。
和哉は変わった。
顔立ちはフツメンのままである。
だが雰囲気イケメンに進化していた。
半年の異世界暮らしとその戦いの中で、少しだけあがった身体能力と少しだけあがった気配察知と少しだけあがった状況判断力と。
それが和哉の上がったアドバンテージ。
そして何よりもその瞳が意欲に煌いていて、そこが魅力なのと言う女の子もいたりいなかったり。
2年後、和哉は第一志望の大学のキャンパスを歩く。
自ら望んで、精神のしくみを解明する学問を学ぶために。




