第51話 辺境研究所
研究所の最初の仕事は、魔法ではなく掃除だった。
いや、掃除という言葉では軽すぎる。
床下に溜まった湿気を抜き、壁の黴を削り、割れた窓へ板を打ち、屋根裏の小動物に退去交渉を行い、古い測量器を分解し、使える部品と使えない部品に分け、床の傾きを測り、地脈の揺れで机が震えない場所を探す。
つまり、環境整備。
実験条件の固定。
研究以前の研究である。
「なあ、ユウマ」
昼過ぎ、フィン=クロードは埃だらけの顔で言った。
「俺たち、王都から命がけで逃げてきたんだよな」
「そうだな」
「で、辺境まで来て最初にやってるのが床板の張り替え?」
「床が抜けたら実験台が落ちる」
「それはそう」
「実験台が落ちると測定器が壊れる」
「それもそう」
「測定器が壊れると研究が止まる」
「理屈は分かるんだけどさ」
フィンは金槌を肩に担いで、天井を見上げた。
「もうちょっと秘密研究所っぽい始まり方、なかった?」
「例えば?」
「封印された扉を開くとか、謎の古代装置が光るとか、こう……胸が熱くなるやつ」
その瞬間、屋根裏から何かが走った。
ばたばたばた、と小さな足音。
フィンは上を見た。
「……謎の古代ネズミが走った」
「生態系は古代から続いている可能性がある」
「そういう意味じゃない」
エリシアが箒を片手に、小さく笑った。
学院主席だった彼女が、埃まみれの測量小屋で箒を持っている。
その光景は、王都の貴族学生たちが見たら卒倒するかもしれない。
だが本人は、思ったより手際がよかった。
「掃除は嫌いではないわ。火を扱う前に、燃えるものをどかすのは当然でしょう」
「さすがエリシア。話が早い」
「ただし、蜘蛛だけはあなたが処理して」
「火で?」
「やめろ。小屋ごと燃える」
俺が即答すると、エリシアは少し不満そうな顔をした。
◇
フィンとリナが合流したのは、昨日の夜だった。
王都を離れる前、ミーナは二人に直接逃亡計画を知らせていたわけではない。誰か一人が捕まった時に、全員の行き先が割れないようにするためだ。
代わりに、学院の外にある連絡所を通じて、短い符号だけを残していた。
【北西。黒い山。三本煙。七日以内】
ノルデンへ向かうことと、グレインベルの鉱山炉を目印にすることだけを示した合図だった。
フィンとリナはカイの助けを借りて別々に王都を脱出し、街道の検問を避けながら北西へ進んだ。途中で合流した後も、俺たちと同じ道は使わず、商隊の荷運び人と治療助手を装って連邦へ入ったらしい。
予定より一日遅れたが、ミーナが鉱山町に残していた二つ目の符号を見つけ、指定された裏手の炭置き場まで辿り着いた。
日が落ちてから、ミーナが二人を旧測量小屋へ案内してきたのだ。
フィンは工具袋を二つ抱えていた。
一つは自分のもの。
もう一つは、学院から持ち出した端材や黒鉛板、石英片、銀線の束が入った補給袋だった。
「無茶しすぎだろ」
俺が言うと、フィンは鼻で笑った。
「お前にだけは言われたくねぇよ」
リナは医療袋を抱え、疲れた顔をしていた。
だが、目は強かった。
「クラリス先生は、まだ学院にいます。正式に拘束はされていません。でも、聴取は続いています」
「先生らしいな」
「それと、低魔力学生の聞き取りが始まっています。再現試験に参加した学生も、何人か呼ばれました」
リナの声が少し震えた。
「マレク君は、カイ君が隠しました。今は安全なはずです」
「カイが?」
「はい。『走るのは得意だから』って」
胸の奥が少しだけ緩んだ。
全員がここへ来たわけではない。
だが、王都に残った者たちも、止まっていない。
フィンは工具袋を下ろし、俺の手首を見た。
「拘束具の跡、まだ痛むか?」
「動く。痛みはあるが、情報として使える範囲だ」
「痛みを情報って言うな」
リナが即座に言った。
「痛みは危険信号です。利用する前に、治してください」
「はい」
反論の余地がなかった。
◇
そして今日、俺たちは研究所を作っている。
人員は、現時点で六名。
天城ユウマ。
エリシア=ヴァーミリオン。
フィン=クロード。
リナ=フェルミナ。
ダリオ・ストーク。
ミーナ・オルド。
研究所と呼ぶには小さい。
だが、危険なことを始めるには十分すぎる。
だからこそ、部屋割りは慎重に決めた。
一階の一番奥を計測室にする。
地脈の揺れが一番小さく、床石が比較的安定しているからだ。
入口近くを工房にする。
火花や粉塵が出ても換気しやすく、逃げる時に道具を持ち出しやすい。
二階の小部屋を記録室にする。
湿気は問題だが、鍵をかけやすく、窓から外の見張りもできる。
裏手の沢沿いにダミー負荷槽を掘る。
余剰マナを黒鉛層と水へ逃がすためだ。
さらに廃坑側へ退避路を作る。
これはダリオの担当。
「退避路は二本いる」
ダリオは短く言った。
「一本じゃ駄目か?」
「敵も一本なら塞ぐ」
「合理的だな」
「追われる者は、合理性で死ぬ」
彼は山刀で藪を払いながら続けた。
「入口、裏口、廃坑。最低三つ。さらに、荷物を捨てて人だけ抜ける穴を一つ」
「そこまで必要か」
「必要になってから掘る時間はない」
採用するしかなかった。
ミーナは町へ降り、鉱山組合との口利きに行った。
表向きは、測量器と媒体器具の修理所。依頼があれば、壊れた探針や古い反力杭の調整も行う。
「仕事を受けるのか?」
俺が訊くと、ミーナは当然のように言った。
「受ける。隠れる場所は、役に立っていないと怪しまれる」
「なるほど」
「あと、お金がいる」
それも当然だった。
◇
午後、俺は壁に研究所の基本規則を書き出した。
最初の四つは、昨日この小屋へ入った時に決めたものだ。
【一、危険なものは一人で開かない】
【二、止め方を先に作る】
【三、逃げ道を塞がない】
【四、協力者への対価を曖昧にしない】
そこへ、今日合流したフィンとリナを交えて、実際に研究を始めるための規則を追加することにした。
「人体に使う研究は、今の段階では禁止してください」
リナが最初に言った。
「治癒術式も?」
「特に治癒術式です。補助に見えても、失敗すれば身体の内側を壊します。どうしても必要な場合は、基礎試験、非生体試験、医療審査の三段階を通してください」
俺は五つ目を書き加えた。
【五、人体・生体への適用は禁止。例外は医療担当による三段階審査後】
「記録も必要だな」
フィンが、焦げ跡の残る止める箱を見ながら言った。
「失敗した時に都合の悪いところだけ消したら、次に同じ場所で壊れる」
「同意する。ただし、追手に見つかる危険もある」
「なら、捨てるんじゃなくて隠せばいい。後で読める形で」
【六、記録は消さない。秘匿する場合も検証可能な形で残す】
次に、俺は封印書庫で見た古代アークの構造を思い出した。
「Ω接続は、研究所の設備と人員では制御できない。理論以前に、現時点では触れるべきではない」
誰からも異論は出なかった。
【七、Ω接続は禁止】
最後に、机の中央に置いた止める箱を見る。
「そして、発動を便利にする機能より、停止と監視を先に作る」
エリシアが静かに頷いた。
「それが、この場所を古代の研究所と違うものにするのでしょう」
【八、発動補助より停止補助を優先する】
こうして壁の規則は、昨日の四つから八つへ増えた。
【辺境測量器修理所・内部規則】
【一、危険なものは一人で開かない】
【二、止め方を先に作る】
【三、逃げ道を塞がない】
【四、協力者への対価を曖昧にしない】
【五、人体・生体への適用は禁止。例外は医療担当による三段階審査後】
【六、記録は消さない。秘匿する場合も検証可能な形で残す】
【七、Ω接続は禁止】
【八、発動補助より停止補助を優先する】
フィンが腕を組んで眺めた。
「字が多い」
「前にも言われたな」
「現場で読むには多いんだよ」
「では図記号化を頼む」
「よし来た」
フィンは炭筆を取り、規則の横に絵を描き始めた。
二人の人影。
止まる手。
三本の道。
硬貨。
包帯に×。
閉じない本。
大きなΩに斜線。
火より先に水桶。
エリシアがそれを見て頷く。
「分かりやすいわね」
「だろ。文字は燃えるけど、絵は残る」
「絵も燃える」
「そういう正論は今いらねぇ」
リナは五番目の規則を見つめていた。
「人体適用禁止。これは、本当に守ってください」
「守る」
「治癒SELは、特に危険です。痛みを止めることと、怪我を治すことは違います。拒絶反応を消したら、悪化に気づけません」
「封印書庫で治癒SELの危険を話した時、君が言ったことだ。覚えている」
「覚えているだけでは足りません。運用で守ってください」
「了解」
リナはそれでようやく頷いた。
彼女がここにいる意味は大きい。
俺やフィンは、どうしても「動くかどうか」を先に見てしまう。エリシアは火の危険には鋭いが、生体の危険は専門ではない。リナがいることで、研究所は人間を実験素材にしないための重石を得る。
それは、古代の失敗を繰り返さないために必要だった。
◇
夕方、最初の装置を置く場所が決まった。
小屋の中央ではない。
地脈の流れが強すぎる。
壁際でもない。
反射波が出る。
計測室の床石を一枚外し、その下に黒鉛板と石英片を層状に置く。
銀線はまだ足りないので、フィンが細く伸ばして節約した。
「これ、かなりギリギリだぞ」
「分かってる」
「高出力は無理」
「やらない」
「中出力も無理」
「やらない」
「低出力でも連続は駄目」
「分かってる」
「本当に?」
フィンの目が疑わしい。
「本当に」
エリシアが横から言った。
「私が見ています」
「なら多少安心だな」
「多少?」
「ユウマを止める係は一人じゃ足りないだろ」
反論できないのが不本意だった。
俺は床にしゃがみ、黒鉛板の端へ指を置いた。
地脈の流れが、微かに板を震わせている。
王都の測定室にあった干渉計ほど精密ではない。
学院の旧機材ほど整ってもいない。
だが、ここには自由がある。
自由というより、責任を自分たちで持つ余地がある。
それは怖い。
けれど、必要だ。
「最初に作るのは、アークじゃない」
俺は言った。
フィンが顔を上げる。
「違うのか?」
「アークを置く前に、アークを止める箱を作る」
「……やっぱりか」
「不満か?」
「いや」
フィンは少し笑った。
「お前ならそう言うと思った」
俺は黒鉛板の横に、フィンが作った小さな箱を置いた。
王都の脱出で使った「止める箱」の改良版。
低出力術式の暴走兆候を黒鉛層へ逃がし、余剰を水槽へ送るための安全装置だ。
アークはまだない。
演算核もない。
だが、停止装置はある。
それでいい。
前世の実験室で、俺は非常停止に届かなかった。
この世界へ来てから、何度も停止条件を作ってきた。
木札。
停止語。
ダミー負荷。
SOP。
逃亡手順。
研究所の最初の装置が停止装置であることは、偶然ではない。
「ここを、辺境研究所にする」
俺は静かに言った。
「名前、もうちょっと格好よくしねぇ?」
フィンが言う。
「表向きは測量器修理所だ」
「裏向きは?」
エリシアが訊いた。
俺は少し考えた。
王都で閉じられたもの。
学院で封じられたもの。
裁きの塔で罪にされたもの。
それらを、辺境で開く。
その目的を表す名前なら、いくつも考えられる。
自由演算研究所。
非連結魔法研究所。
新魔法体系開発局。
だが、今の俺たちは、まだ何一つ完成させていない。
大きな名前を掲げれば、名前の方が先に歩き始める。目的を決めつけ、周囲の期待を膨らませ、追手にも余計な情報を与える。
「格好いい名前をつけるのは、ここで何ができるか証明してからでいい」
「じゃあ、今は?」
「場所と役割が分かれば十分だ。暫定名にする」
俺は壁に炭で書いた。
【辺境研究所――暫定】
フィンが文字を見つめ、深いため息をつく。
「結局、そのままじゃねぇか」
「まだ始まったばかりだからな」
「いつか絶対、格好いい名前に変えようぜ」
「必要性が確認できたら検討する」
「名前にも検証がいるのかよ」
「誤解を生む名称は事故原因になる」
「お前に聞いた俺が悪かった」
「分かりやすい」
「字が多いよりマシか」
フィンが笑った。
リナも少しだけ笑った。
エリシアは壁の文字を見つめ、静かに頷いた。
外では、夜が山へ降り始めている。
王都では今も、誰かが聴取を受けているかもしれない。
学院では、赤い学生証を恐れて口を閉ざす者がいるかもしれない。
教会は、非連結者の名前を集めているかもしれない。
だが、ここに一つ、名前のない場所ができた。
まだ粗末で、埃っぽくて、雨漏りして、屋根裏に古代ではないネズミがいる。
それでも。
止める箱の黒鉛板が、地脈の微かな揺れを受けて、小さく震えた。
まるで、この場所の最初の鼓動のように。




