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魔力最下位の理系転生者は、魔法を誰でも使える技術に変えたい ~詠唱はコード、魔法陣は回路。才能がないなら、法則を探せ~  作者: Ita
第9章 辺境に芽吹く、魔法の自由

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第51話 辺境研究所


 研究所の最初の仕事は、魔法ではなく掃除だった。


 いや、掃除という言葉では軽すぎる。

 床下に溜まった湿気を抜き、壁の黴を削り、割れた窓へ板を打ち、屋根裏の小動物に退去交渉を行い、古い測量器を分解し、使える部品と使えない部品に分け、床の傾きを測り、地脈の揺れで机が震えない場所を探す。


 つまり、環境整備。

 実験条件の固定。

 研究以前の研究である。


「なあ、ユウマ」


 昼過ぎ、フィン=クロードは埃だらけの顔で言った。


「俺たち、王都から命がけで逃げてきたんだよな」


「そうだな」


「で、辺境まで来て最初にやってるのが床板の張り替え?」


「床が抜けたら実験台が落ちる」


「それはそう」


「実験台が落ちると測定器が壊れる」


「それもそう」


「測定器が壊れると研究が止まる」


「理屈は分かるんだけどさ」


 フィンは金槌を肩に担いで、天井を見上げた。


「もうちょっと秘密研究所っぽい始まり方、なかった?」


「例えば?」


「封印された扉を開くとか、謎の古代装置が光るとか、こう……胸が熱くなるやつ」


 その瞬間、屋根裏から何かが走った。

 ばたばたばた、と小さな足音。


 フィンは上を見た。


「……謎の古代ネズミが走った」


「生態系は古代から続いている可能性がある」


「そういう意味じゃない」


 エリシアが箒を片手に、小さく笑った。


 学院主席だった彼女が、埃まみれの測量小屋で箒を持っている。

 その光景は、王都の貴族学生たちが見たら卒倒するかもしれない。

 だが本人は、思ったより手際がよかった。


「掃除は嫌いではないわ。火を扱う前に、燃えるものをどかすのは当然でしょう」


「さすがエリシア。話が早い」


「ただし、蜘蛛だけはあなたが処理して」


「火で?」


「やめろ。小屋ごと燃える」


 俺が即答すると、エリシアは少し不満そうな顔をした。


     ◇


 フィンとリナが合流したのは、昨日の夜だった。


 王都を離れる前、ミーナは二人に直接逃亡計画を知らせていたわけではない。誰か一人が捕まった時に、全員の行き先が割れないようにするためだ。


 代わりに、学院の外にある連絡所を通じて、短い符号だけを残していた。


【北西。黒い山。三本煙。七日以内】


 ノルデンへ向かうことと、グレインベルの鉱山炉を目印にすることだけを示した合図だった。


 フィンとリナはカイの助けを借りて別々に王都を脱出し、街道の検問を避けながら北西へ進んだ。途中で合流した後も、俺たちと同じ道は使わず、商隊の荷運び人と治療助手を装って連邦へ入ったらしい。


 予定より一日遅れたが、ミーナが鉱山町に残していた二つ目の符号を見つけ、指定された裏手の炭置き場まで辿り着いた。


 日が落ちてから、ミーナが二人を旧測量小屋へ案内してきたのだ。


 フィンは工具袋を二つ抱えていた。

 一つは自分のもの。

 もう一つは、学院から持ち出した端材や黒鉛板、石英片、銀線の束が入った補給袋だった。


「無茶しすぎだろ」


 俺が言うと、フィンは鼻で笑った。


「お前にだけは言われたくねぇよ」


 リナは医療袋を抱え、疲れた顔をしていた。

 だが、目は強かった。


「クラリス先生は、まだ学院にいます。正式に拘束はされていません。でも、聴取は続いています」


「先生らしいな」


「それと、低魔力学生の聞き取りが始まっています。再現試験に参加した学生も、何人か呼ばれました」


 リナの声が少し震えた。


「マレク君は、カイ君が隠しました。今は安全なはずです」


「カイが?」


「はい。『走るのは得意だから』って」


 胸の奥が少しだけ緩んだ。


 全員がここへ来たわけではない。

 だが、王都に残った者たちも、止まっていない。


 フィンは工具袋を下ろし、俺の手首を見た。


「拘束具の跡、まだ痛むか?」


「動く。痛みはあるが、情報として使える範囲だ」


「痛みを情報って言うな」


 リナが即座に言った。


「痛みは危険信号です。利用する前に、治してください」


「はい」


 反論の余地がなかった。


     ◇


 そして今日、俺たちは研究所を作っている。


 人員は、現時点で六名。


 天城ユウマ。

 エリシア=ヴァーミリオン。

 フィン=クロード。

 リナ=フェルミナ。

 ダリオ・ストーク。

 ミーナ・オルド。


 研究所と呼ぶには小さい。

 だが、危険なことを始めるには十分すぎる。


 だからこそ、部屋割りは慎重に決めた。


 一階の一番奥を計測室にする。

 地脈の揺れが一番小さく、床石が比較的安定しているからだ。


 入口近くを工房にする。

 火花や粉塵が出ても換気しやすく、逃げる時に道具を持ち出しやすい。


 二階の小部屋を記録室にする。

 湿気は問題だが、鍵をかけやすく、窓から外の見張りもできる。


 裏手の沢沿いにダミー負荷槽を掘る。

 余剰マナを黒鉛層と水へ逃がすためだ。


 さらに廃坑側へ退避路を作る。

 これはダリオの担当。


「退避路は二本いる」


 ダリオは短く言った。


「一本じゃ駄目か?」


「敵も一本なら塞ぐ」


「合理的だな」


「追われる者は、合理性で死ぬ」


 彼は山刀で藪を払いながら続けた。


「入口、裏口、廃坑。最低三つ。さらに、荷物を捨てて人だけ抜ける穴を一つ」


「そこまで必要か」


「必要になってから掘る時間はない」


 採用するしかなかった。


 ミーナは町へ降り、鉱山組合との口利きに行った。

 表向きは、測量器と媒体器具の修理所。依頼があれば、壊れた探針や古い反力杭の調整も行う。


「仕事を受けるのか?」


 俺が訊くと、ミーナは当然のように言った。


「受ける。隠れる場所は、役に立っていないと怪しまれる」


「なるほど」


「あと、お金がいる」


 それも当然だった。


     ◇


 午後、俺は壁に研究所の基本規則を書き出した。


 最初の四つは、昨日この小屋へ入った時に決めたものだ。


【一、危険なものは一人で開かない】

【二、止め方を先に作る】

【三、逃げ道を塞がない】

【四、協力者への対価を曖昧にしない】


 そこへ、今日合流したフィンとリナを交えて、実際に研究を始めるための規則を追加することにした。


「人体に使う研究は、今の段階では禁止してください」


 リナが最初に言った。


「治癒術式も?」


「特に治癒術式です。補助に見えても、失敗すれば身体の内側を壊します。どうしても必要な場合は、基礎試験、非生体試験、医療審査の三段階を通してください」


 俺は五つ目を書き加えた。


【五、人体・生体への適用は禁止。例外は医療担当による三段階審査後】


「記録も必要だな」


 フィンが、焦げ跡の残る止める箱を見ながら言った。


「失敗した時に都合の悪いところだけ消したら、次に同じ場所で壊れる」


「同意する。ただし、追手に見つかる危険もある」


「なら、捨てるんじゃなくて隠せばいい。後で読める形で」


【六、記録は消さない。秘匿する場合も検証可能な形で残す】


 次に、俺は封印書庫で見た古代アークの構造を思い出した。


「Ω接続は、研究所の設備と人員では制御できない。理論以前に、現時点では触れるべきではない」


 誰からも異論は出なかった。


【七、Ω接続は禁止】


 最後に、机の中央に置いた止める箱を見る。


「そして、発動を便利にする機能より、停止と監視を先に作る」


 エリシアが静かに頷いた。


「それが、この場所を古代の研究所と違うものにするのでしょう」


【八、発動補助より停止補助を優先する】


 こうして壁の規則は、昨日の四つから八つへ増えた。


【辺境測量器修理所・内部規則】

【一、危険なものは一人で開かない】

【二、止め方を先に作る】

【三、逃げ道を塞がない】

【四、協力者への対価を曖昧にしない】

【五、人体・生体への適用は禁止。例外は医療担当による三段階審査後】

【六、記録は消さない。秘匿する場合も検証可能な形で残す】

【七、Ω接続は禁止】

【八、発動補助より停止補助を優先する】


 フィンが腕を組んで眺めた。


「字が多い」


「前にも言われたな」


「現場で読むには多いんだよ」


「では図記号化を頼む」


「よし来た」


 フィンは炭筆を取り、規則の横に絵を描き始めた。


 二人の人影。

 止まる手。

 三本の道。

 硬貨。

 包帯に×。

 閉じない本。

 大きなΩに斜線。

 火より先に水桶。


 エリシアがそれを見て頷く。


「分かりやすいわね」


「だろ。文字は燃えるけど、絵は残る」


「絵も燃える」


「そういう正論は今いらねぇ」


 リナは五番目の規則を見つめていた。


「人体適用禁止。これは、本当に守ってください」


「守る」


「治癒SELは、特に危険です。痛みを止めることと、怪我を治すことは違います。拒絶反応を消したら、悪化に気づけません」


「封印書庫で治癒SELの危険を話した時、君が言ったことだ。覚えている」


「覚えているだけでは足りません。運用で守ってください」


「了解」


 リナはそれでようやく頷いた。

 彼女がここにいる意味は大きい。

 俺やフィンは、どうしても「動くかどうか」を先に見てしまう。エリシアは火の危険には鋭いが、生体の危険は専門ではない。リナがいることで、研究所は人間を実験素材にしないための重石を得る。


 それは、古代の失敗を繰り返さないために必要だった。


     ◇


 夕方、最初の装置を置く場所が決まった。


 小屋の中央ではない。

 地脈の流れが強すぎる。

 壁際でもない。

 反射波が出る。


 計測室の床石を一枚外し、その下に黒鉛板と石英片を層状に置く。

 銀線はまだ足りないので、フィンが細く伸ばして節約した。


「これ、かなりギリギリだぞ」


「分かってる」


「高出力は無理」


「やらない」


「中出力も無理」


「やらない」


「低出力でも連続は駄目」


「分かってる」


「本当に?」


 フィンの目が疑わしい。


「本当に」


 エリシアが横から言った。


「私が見ています」


「なら多少安心だな」


「多少?」


「ユウマを止める係は一人じゃ足りないだろ」


 反論できないのが不本意だった。


 俺は床にしゃがみ、黒鉛板の端へ指を置いた。

 地脈の流れが、微かに板を震わせている。

 王都の測定室にあった干渉計ほど精密ではない。

 学院の旧機材ほど整ってもいない。


 だが、ここには自由がある。

 自由というより、責任を自分たちで持つ余地がある。


 それは怖い。

 けれど、必要だ。


「最初に作るのは、アークじゃない」


 俺は言った。


 フィンが顔を上げる。


「違うのか?」


「アークを置く前に、アークを止める箱を作る」


「……やっぱりか」


「不満か?」


「いや」


 フィンは少し笑った。


「お前ならそう言うと思った」


 俺は黒鉛板の横に、フィンが作った小さな箱を置いた。

 王都の脱出で使った「止める箱」の改良版。

 低出力術式の暴走兆候を黒鉛層へ逃がし、余剰を水槽へ送るための安全装置だ。


 アークはまだない。

 演算核もない。

 だが、停止装置はある。


 それでいい。


 前世の実験室で、俺は非常停止に届かなかった。

 この世界へ来てから、何度も停止条件を作ってきた。

 木札。

 停止語。

 ダミー負荷。

 SOP。

 逃亡手順。


 研究所の最初の装置が停止装置であることは、偶然ではない。


「ここを、辺境研究所にする」


 俺は静かに言った。


「名前、もうちょっと格好よくしねぇ?」


 フィンが言う。


「表向きは測量器修理所だ」


「裏向きは?」


 エリシアが訊いた。


 俺は少し考えた。


 王都で閉じられたもの。

 学院で封じられたもの。

 裁きの塔で罪にされたもの。

 それらを、辺境で開く。


 その目的を表す名前なら、いくつも考えられる。


 自由演算研究所。

 非連結魔法研究所。

 新魔法体系開発局。


 だが、今の俺たちは、まだ何一つ完成させていない。

 大きな名前を掲げれば、名前の方が先に歩き始める。目的を決めつけ、周囲の期待を膨らませ、追手にも余計な情報を与える。


「格好いい名前をつけるのは、ここで何ができるか証明してからでいい」


「じゃあ、今は?」


「場所と役割が分かれば十分だ。暫定名にする」


 俺は壁に炭で書いた。


【辺境研究所――暫定】


 フィンが文字を見つめ、深いため息をつく。


「結局、そのままじゃねぇか」


「まだ始まったばかりだからな」


「いつか絶対、格好いい名前に変えようぜ」


「必要性が確認できたら検討する」


「名前にも検証がいるのかよ」


「誤解を生む名称は事故原因になる」


「お前に聞いた俺が悪かった」


「分かりやすい」


「字が多いよりマシか」


 フィンが笑った。


 リナも少しだけ笑った。

 エリシアは壁の文字を見つめ、静かに頷いた。


 外では、夜が山へ降り始めている。

 王都では今も、誰かが聴取を受けているかもしれない。

 学院では、赤い学生証を恐れて口を閉ざす者がいるかもしれない。

 教会は、非連結者の名前を集めているかもしれない。


 だが、ここに一つ、名前のない場所ができた。


 まだ粗末で、埃っぽくて、雨漏りして、屋根裏に古代ではないネズミがいる。


 それでも。


 止める箱の黒鉛板が、地脈の微かな揺れを受けて、小さく震えた。


 まるで、この場所の最初の鼓動のように。


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