第48話 辺境への旅立ち
学院は、もう遠い。
振り返ると、魔導学院の尖塔が朝靄の向こうに沈み、その背後に広がるヴァーミリオン王国の王都、ルブラが赤く見えた。
最初、俺は火事かと思った。
だが、荷馬車の粗布の隙間から見える赤は、炎の揺らぎではない。
煙の柱もない。
瓦屋根が焼け落ちる音も、人々の悲鳴も聞こえない。
東の空が、雨雲の切れ目から薄く明け始めている。
朝焼けの赤。
そして、王都の各所に上がった聖教会の追跡灯の赤。
その二つが重なって、街全体を燃えているように見せていた。
王都はまだ燃えていない。
ただ、火の前の温度だけが上がっている。
ダリオの操る荷馬車は、西側の林道を進んでいた。
車輪は泥を噛み、時々大きく跳ねる。
荷台の中には麻袋と木箱が積まれ、その奥に俺とエリシアが身を潜めている。
荷台の粗布は雨を吸い、湿った布の匂いがした。
その向こうで、馬の息と車輪の軋みが続いている。
「まだ見るの?」
エリシアが小声で言った。
彼女は荷台の奥に座り、濡れた髪を指で軽く払っていた。
紅のリボンはない。
ヴァーミリオン家の家紋も、今は身につけていない。
それだけで、いつもの彼女より少しだけ身軽に見えた。
そして、その分だけ危うくも見えた。
「赤いからな」
「燃えているように見える?」
「見える。けど、燃えてはいない」
「ええ」
エリシアは粗布の隙間から王都を見た。
「燃えていないわ。少なくとも、まだ」
まだ、という言葉が重かった。
水路橋から逃げた後、追手がどう動いたのかは分からない。
クラリス先生がどうなったのかも分からない。
リオネルがどこまで追跡を逸らせたのか。
フィンとカイが痕跡を消しきれたのか。
リナが無事に学院へ戻れたのか。
俺たちに分かるのは、馬車がまだ止まっていないということだけだった。
それは、作戦が完全に成功した証明ではない。
ただ、失敗がまだ確定していないというだけだ。
それでも、今は進むしかない。
荷馬車が浅い溝を越え、俺の手首に痛みが走った。
「痛む?」
エリシアがすぐに訊いた。
「少し」
「少し、は信用できないわ」
「動く。感覚もある。リナの応急処置は正しい」
「あなたの自己診断よりは信用できるわね」
「それは否定しない」
手首には包帯が巻かれている。
銀線拘束具を外した跡は、赤く擦れていた。
血流が戻った時の鈍い痛みがまだ残っている。
だが、指は動く。
石英片を摘まむことも、銀線を曲げることもできる。
計算するには十分だ。
計算するには、という基準が自分でも少し嫌になった。
荷馬車の前方から、ダリオの声が飛んだ。
「後ろを見るな。見るなら見るで、泣くな。泣くと息が乱れる」
「泣いてません」
エリシアが即答する。
「ならいい」
「あなた、毎回言い方が余計ね」
「追手はもっと余計だ」
ダリオは振り返らない。
灰色の外套の背中だけが、御者台の上で揺れている。
辺境行きの案内人。
カイ基準で七割。
本人曰く、九割に上げたければ無駄口を減らせ。
信用していいのかは分からない。
だが、王都の外で動ける道を知っている人間は限られている。
今は彼に乗るしかなかった。
林道の左右には、低い雑木林が続いている。
雨を吸った葉が重く垂れ、朝の光を細かく反射していた。
街道から外れているため、人通りはない。
その代わり、車輪の跡も残りやすい。
ダリオは時々、わざと浅い水たまりに車輪を入れた。
泥の跡を崩し、轍の向きを読みにくくするためだ。
「追跡灯は?」
俺が訊くと、ダリオは短く答えた。
「北側に多い」
「囮に引っかかった?」
「全部ではない。だが、初動は割れた」
カイの言った通りだ。
拘束具は水路で北へ流れた。
囮の荷馬車も北の街道へ向かった。
リオネルが風読みを北へ寄せたなら、追跡の第一波は割れる。
だが、時間稼ぎにすぎない。
「どのくらい持つ?」
「相手が馬鹿なら半日。普通なら二刻。優秀なら一刻」
「辛い評価だな」
「優秀な敵を前提にしろ。生き残りたいならな」
正しい。
失敗条件を低く見積もるのは、祈りに近い。
最悪の条件を先に置いてから、手順を組む。
それは、俺がこれまで何度も仲間に言ってきたことだった。
今さら自分だけ、楽観を前提にするわけにはいかない。
俺は荷台の床に手をつき、粗布の下にある木箱を見た。
フィンが最後に押し込んだ包み。
カイが「荷台の底」と言っていた地図。
リナが渡した小さな紙束。
エリシアが懐に入れていたクラリス先生の封筒。
逃亡は、身一つではなかった。
彼らは俺たちに、持てるだけの未来を押し込んでいた。
◇
王都が林の向こうに隠れた頃、ダリオは荷馬車を止めた。
「ここで一度積み替える」
そこは、古い伐採小屋の跡だった。
屋根は半分崩れているが、馬車を隠すには十分な木立がある。
小屋の裏手には、細い沢が流れていた。
車輪を沢に入れれば、轍を一度消せる。
ダリオは馬を外し、水を飲ませた。
「少しだけ休め。長居はしない」
「少し、ってどのくらい?」
エリシアが言う。
「その質問に答える時間も惜しいくらいだ」
「本当に余計ね」
それでも、彼女は荷台から降りた。
俺も続こうとして、膝が少し揺れた。
足は動く。
だが、塔の拘置区から移送、馬車脱出、旧排水路、荷馬車と続けば、さすがに体力は削れている。
エリシアが腕を差し出した。
「支える?」
「不要」
「意地?」
「半分」
「残り半分は?」
「降り方の検証」
「それ、意地を理屈で包んでいるだけじゃない?」
「否定は難しい」
彼女は呆れたように息を吐きながらも、俺の腕を掴んだ。
支えられた、というより逃げ道を塞がれた形だった。
地面に降りると、湿った土の匂いが強くなった。
ダリオは荷台の底板を一枚外した。
その下に、薄い油紙で包まれた地図があった。
王都西側の林道。
古い炭焼き道。
巡回兵の少ない渡し場。
地脈の乱れが強く、聖印追跡が効きにくい谷筋。
そして、北西へ大きく回り込んだ先に、ノルデン辺境連邦へ続く山道。
王国の正規街道ではない。
商人が嫌がり、巡回兵が面倒がり、地図師が空白にした道だ。
逃亡者には、そういう道の方が役に立つ。
「ノルデンまで、何日だ」
「真っ直ぐなら三日。追手を避けるなら六日。雨で地滑りが出れば八日」
「食料は?」
「足りる。無駄に喋らなければ」
「喋ると消費が増えるのは事実だな」
「お前は黙ってても頭で消費しそうだ」
ダリオは淡々と言い、次の木箱を開けた。
中に入っていたのは、工房廃材と書かれた袋だった。
だが、紐を解くと中身は廃材ではなかった。
高純度ではないが、使える石英片。
薄い黒鉛板。
細い小銀線。
小型の切削工具。
簡易固定具。
それに、傷のある金属定規と、古いルーン刻み針。
フィンの字で、紙片が一枚入っていた。
《全部は無理だった。使えるもんだけ詰めた。
黒鉛板は割れやすい。銀線は短い。
石英は質がバラバラ。
でも、動いたら正解だ。
変な装置を作る前に寝ろ。たぶん無理だろうけど。》
俺はしばらく、その紙片を見ていた。
「フィンらしい?」
エリシアが訊く。
「ああ。工具の選び方まで、うるさいくらいフィンだ」
黒鉛板は、追跡信号をぼかすために使ったものと同じ系統。
小銀線は、簡易回路にも、計測補助にも使える。
石英片は安定素子。
刻み針があれば、小さなルーン回路の試作もできる。
これは荷物ではない。
研究室の種だ。
次に、エリシアがリナから受け取った紙束を開いた。
表向きは、治癒SEL凍結基準の写しに見える。
だが、よく見ると本文は途中で途切れている。
実行手順はない。
術式の構成もない。
代わりに、余白の行間に、ごく小さな点と線が並んでいた。
暗号だ。
俺は紙を傾け、朝の光に透かした。
糖分不足。
発熱。
震え。
意識混濁。
血流障害。
銀線接触炎症。
低エントロピー媒体不足。
停止優先。
痛みを消すな。
治癒より観察。
リナの危険項目メモだった。
治癒SELの完成手順ではない。
むしろ、安易に完成させるなという警告に近い。
痛みを消すな。
治癒より観察。
俺はその一文に指を置いた。
「リナも分かってる」
「何を?」
「治癒は、一番危ない。成功したように見えて、失敗を隠すことがある」
痛みは警報だ。
炎症は信号だ。
意識混濁は停止条件だ。
それを全部「治癒」の名で消せば、身体は壊れているのに、壊れていないふりをする。
それは魔法ではなく、測定器を壊す行為に近い。
「だから、凍結基準なのね」
「正確には、凍結させるための危険項目だ。手順はない。危ないから」
「リナらしいわ」
「ああ」
優しいが、甘くない。
彼女の医療は、祈りではなく観察に立っている。
最後に、エリシアは懐から小さな封筒を取り出した。
雨に濡れないよう、油紙で二重に包まれている。
表には、クラリス先生の細い字で俺の名前が書かれていた。
天城ユウマ君へ。
封を切ると、中には薄い金属片が一枚入っていた。
鍵、というより、古い記録盤に差し込む識別片に近い。
端には、摩耗したルーンが刻まれている。
紙片も一枚。
《これは答えではありません。
十二年前の封印事故記録に接続するための鍵です。
完全な記録ではなく、閉じられた記録の入口です。
開く時は、一人で開かないこと。
止め方を先に決めること。
私は一度、知識を閉じる側に回りました。
今回は、次に正しく開くために、これをあなたに渡します。》
文字の最後に、ほんの少しだけインクの滲みがあった。
雨のせいか。
あるいは、急いで書いたせいか。
俺は鍵を掌に乗せた。
軽い。
だが、重い。
十二年前の封印事故。
クラリス先生の後悔。
不完全な知識。
止め方のない実験。
封印された記録。
そこには、おそらく俺たちが避けなければならない失敗がある。
成功の手順より先に読むべき、失敗の記録がある。
エリシアが静かに言った。
「先生は、後で助けてと言っていたわ」
「聞いた」
「助けに戻る?」
「戻る」
即答だった。
考えるまでもない。
ただし、今すぐではない。
今戻れば、全員を道連れにする。
証明も、記録も、鍵も、フィンの部品も、リナの危険項目も、エリシアの決断も、全部潰れる。
救うには、力が要る。
力を持つには、場所が要る。
場所を作るには、今は進まなければならない。
「戻るために、離れる」
俺はそう言った。
エリシアは頷いた。
「ええ。置いていくのではない。役割を分けるのだと、先生は言ったもの」
同期を切る。
あの言葉が、まだ胸の奥に残っていた。
誰か一人の命令で全員が動けば、一人を捕まえれば全員が止まる。
なら、分散する。
それぞれが判断し、それぞれが記録し、それぞれが逃げ道を残す。
知識も、人も、同じだ。
大域同期に抗うなら、まず命令系統を一つにしない。
俺たちは今、逃げている。
だが、逃げることは負けることと同じではない。
中央から外へ、知識が流れ出している。
それは、教会や王国から見れば漏洩だ。
俺から見れば、拡散だ。
閉じられた場所にあった火種が、辺境へ運ばれている。
燃やすためではない。
囲い方を作るために。




