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魔力最下位の理系転生者は、魔法を誰でも使える技術に変えたい ~詠唱はコード、魔法陣は回路。才能がないなら、法則を探せ~  作者: Ita
第8章 知識は檻を越える

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第46話 水路橋の脱出


 橋に入った瞬間、馬車の揺れが変わった。


 車輪の音が、石の上から空洞の上へ移る。

 水の反響が床下から上がり、封印馬車の聖印格子が微かに震えた。


 俺は手首の石英片を押さえた。


 外側の信号に、微かな乱れが入る。

 まだ弱い。

 次。


 ふっ、と空気が沈んだ。


 参照信号の位相が落ちる。

 裁きの塔からの返答が、数拍だけぼやけた。


 今だ。


 俺は拘束具の銀線を指先で押し、石英片へ逃がした。


 三拍目の返答が、半拍ずれる。


 教会兵の聖印札が、微かに震えた。


「何だ?」


「石壁反射か」


 違う。

 外で誰かがやった。


 そして、その誰かは、俺がこの半拍に合わせると信じている。


 次の瞬間、馬車の外で短い黒煙が上がった。


 黒鉛板の焼ける匂いが、雨に混じる。


 止める箱。


 名前は長そうだ。

 たぶんフィンが妙に得意げに名付けたに違いない。


 聖印格子の端が、赤く光った。


 炎ではない。

 熱だ。

 細く、鋭く、必要な場所だけを歪ませる熱。


 扉の開閉部が軋む。


 教会兵が立ち上がった。


「外だ!」


 その声より早く、白い熱光が窓の外を走った。

 眩しさではない。

 視線の焦点を奪う揺らぎ。


 俺は立ち上がり、肩で扉を押した。


 歪んだ格子が、ぎり、と音を立てる。

 完全には開かない。

 だが、人一人が抜ける隙間はある。


「ユウマ!」


 雨の中に、エリシアの声があった。


「動ける?」


「計算できる程度には」


「なら十分ね」


 彼女の手が、俺の腕を掴む。


 熱い。

 けれど、火傷する熱ではない。

 血を通わせる熱だった。


 俺は馬車から転がるように外へ出た。


 足が石畳を踏む。

 拘束具のせいで手首の感覚は鈍い。

 けれど、足は動く。


 エリシアが支えた。


「歩ける?」


「歩ける。走れる。ただ、手首の感覚が少し鈍い」


「なら十分ね」


「治療判定が雑じゃないか?」


「今は生存判定でいいわ」


 彼女は俺の腕を引き、橋の影へ向かって走り出した。


 熱光が、雨粒を白く染めた。

 追手の視線がそちらへ吸われる。


 教会兵の一人が聖印札を掲げた。


「追跡を――」


 その瞬間、橋の下から声が飛ぶ。


「こっち!」


 カイだった。


 旧排水路へ続く石段の影で、片手を上げている。


 俺とエリシアは、橋の欄干を抜けて水路側へ滑り込んだ。

 背後で聖印札が光る。

 だが、拘束具の返答はまだ半拍ずれている。

 追跡は正確には戻っていない。


 長くは持たない。


 橋の影に入った瞬間、俺は足を止めた。


「待って。これを外す」


 俺は手首の銀線拘束具を見せた。


 外側の追跡信号は、止める箱でぼやけている。

 内側の返答も、石英片で半拍ずらしている。


 だが、拘束具が付いたままなら、数十秒後にはまた正確な位置を拾われる。

 ここで外さなければ、旧排水路へ入った瞬間に追跡を連れていくことになる。


「今しかないのね」


 エリシアはすぐに理解した。


「鎖を焼くな。留め具だけだ。熱を入れすぎると警報が鳴る」


「分かっているわ。燃やさない。歪ませるだけ」


 エリシアの杖先に、小さな赤が灯った。


 炎ではない。

 熱だ。

 馬車の封印格子を歪ませた時と同じ、細く絞った熱。


 拘束具の留め具だけが赤くなり、金属がわずかに膨らむ。

 俺はその隙間に石英片を押し込み、銀線の返答を輪の内側へ逃がした。


 壊さない。

 切らない。

 ただ、閉じたままのふりをさせる。


 かち、と小さな音がした。


 拘束具が外れる。


 手首に急に血が戻り、鈍い痛みが走った。

 痛みはある。

 だが、動きに支障はない。


「痛む?」


「動く。問題ない」


 俺は外した拘束具を見た。


 銀線はまだ微弱に震えている。

 俺の手首から離れたことを、まだ正しく判断していない。


「これ、どうするの?」


 エリシアが訊く。


「流す」


 俺は拘束具を、橋下の水路へ投げ込んだ。


 雨で増えた水が、銀線の輪を暗い流れの中へさらっていく。

 追跡側から見れば、俺はまだ橋の下を北へ流れているように見えるはずだ。


 長くは保たない。

 だが、最初の追跡方向を誤らせるには十分だ。


「これで走れる」


「最初からそう言いなさい」


「手順が多かった」


「あなたらしいわ」


 エリシアは短く息を吐き、俺の腕を引いた。


「行くわよ」


「二十秒、もって三十秒」


 俺は水路へ消えていく拘束具を横目で見ながら言った。


「それを過ぎたら、向こうも本体から外れたことに気づく」


「短いわね」


「でも、方向を間違わせるには十分だ」


 カイが先に立つ。


「なら急げ。足元滑るぞ。右、段差。次、低い梁!」


 旧排水路は暗かった。

 雨水と泥の匂い。

 狭い石壁。

 頭上で王都の足音が遠ざかり、代わりに水の反響が大きくなる。


 俺は一度だけ足を滑らせた。

 その腕を、エリシアが掴む。


「背負う?」


「不要。走れる」


「意地?」


「判断」


「なら信じるわ」


 カイが振り返らずに言った。


「信頼し合ってるところ悪いけど、次の角で左!」


 余裕はない。

 だが、声があるだけで足が動く。


     ◇


 北区の石畳で、追跡風読みの術者たちが集まり始めていた。


 雨の中、風は乱れている。

 それでも熟練の風術師なら、人の通った跡を拾える。


 その報告を受けるはずの貴族警備列に、リオネル=グレイは立っていた。


「橋の下へ逃げた可能性が高い」


 護衛の一人が言う。


 リオネルは風を読んだ。


 雨。

 熱。

 黒鉛の匂い。

 水路へ落ちた銀線の微弱な震え。


 追跡信号は、橋下の流れに沿って北へ揺れている。

 だが、熱の残滓は橋の影で途切れ、旧排水路の入口付近で乱れていた。


 普通に読めば、橋下。

 丁寧に読めば、排水路。


 だからこそ、今は丁寧に読ませてはいけない。


「北だ」


 リオネルは言った。


「北門側に聖印信号が流れている。水路に落ちた可能性が高い」


「しかし、橋下の足跡が――」


「雨で流れている。熱の残滓も散っている。誤読の可能性がある」


 彼はわざと短く断じた。


「北門を塞げ。水路沿いを追え」


 半分は嘘。

 半分は事実。


 貴族は都合のいい時だけ責任を語る。


 なら今回は、本当に責任を使う。


 リオネルは誰にも聞こえないほど小さく呟いた。


「急げ、ユウマ」


     ◇


 旧排水路を抜けると、南側の資材搬入口近くに出た。


 雨はまだ降っている。

 空はわずかに白み始めていたが、街灯の陰は深い。


 荷馬車が二台。

 一台は空樽を積み、北の街道へ向かう準備をしている。

 もう一台は粗布で覆われ、中に人が隠れられる隙間があった。


 フィンが雨合羽を被って待っていた。


「遅ぇ!」


「予定よりは早い」


 俺が言うと、フィンは一瞬だけ笑いそうになった。


「その減らず口なら生きてるな」


 リナもいた。

 小さな医療鞄を抱え、俺の手首を見る。


「手首、見せてください」


「時間が」


「五秒で見ます」


 リナは拘束具の跡を確認し、軟膏を薄く塗って包帯を巻いた。

 腫れはある。

 皮膚も擦れている。

 だが、深い損傷ではない。


「指は動きますね。感覚もあります。問題ありません。長距離を走るのは避けてください」


「馬車の揺れは?」


「我慢してください」


「医療者の言葉が冷たい」


「無事だから言える言葉です」


 フィンが予備装置を起動した。


 黒鉛板の端から、短い黒煙が上がる。

 今度は南ではなく、北東へ向けた偽の揺らぎ。


 同時に、空樽の荷馬車が北の街道へ走り出した。


「囮だ」


 カイが短く言う。


「追手が全部引っかかるとは思うな。でも初動は割れる。拘束具も水路で北へ流れてる。しばらくは向こうを追うはずだ」


「しばらく、か」


「それ以上は欲張るな」


 粗布の馬車の御者台には、灰色の外套をまとった男が座っていた。

 片刃の長剣を腰に差し、顔の半分を布で隠している。


「乗れ」


 低い声。


「誰?」


 俺が訊くと、フィンが答えた。


「辺境行きの案内人。信用は……まあ、カイ基準で七割」


「低いな」


 御者の男が振り返った。


「ダリオだ。九割に上げたければ、無駄口を減らせ」


「辛口だな」


「追手はもっと辛い」


 エリシアが俺の背を押した。


「乗って」


「君は?」


「行くと言ったでしょう」


 彼女は迷わず馬車に乗り込む。


 フィンは工具袋から小さな包みを渡した。


「予備部品。黒鉛板、銀線、石英片。あと、変なことする前に一回寝ろ」


「無理な注文だ」


「知ってる」


 リナが小さな紙束を差し出した。


「治癒SEL凍結基準です。危険項目だけ。実行手順はありません」


「ありがとう」


「必ず、戻ってきてください」


 カイは馬車の後ろを押しながら言った。


「排水路の地図は荷台の底。途中で一度西へ振る。北へ行く囮に追手が乗ったら、林道へ入れ」


「カイは?」


「俺は戻る。誰かが排水路の痕跡を消さないといけない」


 フィンも頷いた。


「俺も残る。予備装置の燃えかすを片づける」


 リナは何も言わなかった。

 ただ、俺の包帯を最後にもう一度だけ締め直した。


「痛みが強くなったら、止まってください」


「止まれる状況なら」


「止まれない状況を作らないでください」


「努力する」


 遠くで、第四鐘の余韻がまだ揺れていた。


 夜明け前の最後の鐘。


 公式記録では、移送は日の出後だった。

 実際の予定では、第四鐘の前に裁きの塔を出るはずだった。


 だが、クラリス先生がその予定をずらした。


 ほんの数分。

 それでも、馬車は第四鐘の後に動き出した。

 その遅れが、カイに橋下へ潜る時間を与え、エリシアに待機場所へ入る時間を与え、フィンに南側へ回る時間を与えた。


 今、俺は王都の南外縁にいる。


 手順は動いた。

 完全ではない。

 綺麗でもない。

 だが、動いた。


 ダリオが手綱を鳴らす。


「出すぞ」


 馬車が動き出した。


 フィンが手を振る。


「動いたら正解だ!」


 カイが笑った。


「生きてたら、だろ!」


 リナは何も言わず、深く頭を下げた。


 雨の向こうで、聖印灯がいくつも揺れている。

 王都はまだ眠っているようで、すでに目を覚まし始めていた。


 エリシアは荷台の隅で、濡れた髪を払いながら俺を見た。


「ユウマ」


「何」


「クラリス先生は、時間を作りに行ったわ」


 分かっていた。

 分かっていたが、胸の奥が重くなる。


「先生は?」


「後で助けて、と言っていた」


「……あの人らしい」


 俺は目を閉じた。


 クラリス先生。

 フィン。

 リナ。

 カイ。

 リオネル。

 ミリーナ先生。

 マレク。

 学院に残った全員。


 誰か一人の命令で動いたわけではない。

 それぞれが、自分の判断で役割を選んだ。


 同期を切る。


 大域同期に抗うために。

 一人の命令で全員が動かされないために。


 それは逃亡だった。

 同時に、最初の証明でもあった。


 祈って成功したのではない。

 怒って壊したのでもない。

 止め方を決め、切り替え条件を決め、役割を分けたから、ここまで来た。


 馬車は王都を離れ、西側の林道へ入る。


 夜明けはまだ遠い。


 だが、雨の向こうに、わずかに薄い光が見え始めていた。


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