第2話 白い空間の女神
白。
指先が淡い光に触れた瞬間、視界が白く溶けた。次に何かを感じたときも、目の前には同じ色が広がっていた。
どこまでも続く、白の世界。
さっきまで見えていた小さな光は消えている。上下も、地平線も、距離を測るための目印さえない。
けれど、足の裏には感触があった。
俺はおそるおそる片足を上げ、下ろしてみた。柔らかいものに触れたような手応えがあるのに、沈まない。もう一歩踏み出しても、景色は少しも変わらなかった。
「……同じ場所、なのか?」
返事はない。
声は聞こえた。だが、壁に跳ね返る音がしない。目の前に何もないのだから、反響がないこと自体はおかしくない。おかしいのは、声が消えたあとに残る、あまりにも深い静けさだった。
実験室で倒れたときのことを思い出す。
崩れた波形。白い閃光。指先が届かなかった非常停止ボタン。そして、「やっと、見つけました」と言った声。
あの声の主が、ここにいるのだろうか。
胸元に手を当てた。呼吸に合わせて上下しているような感覚がある。手足も動く。痛みはない。背中を床に打ちつけたはずなのに、その痕跡も感じられなかった。
――観測だ。
分からないことを、分かったふりで埋めても仕方がない。
床のようなものがある。呼吸は苦しくない。暑くも寒くもない。手を叩くと音が鳴る。だが、物を放して落ちるかどうかも、空気の成分も、今の俺には測れない。
「酸素濃度二十一パーセント、室温二十二度……とでも書きたいところだけど」
測定器はない。そもそも、ここに立っている自分の身体が、実験室にいたときと同じ身体なのかさえ怪しい。
分かるのは、「そう感じる」ということだけだ。
「夢か、死後の世界か。あるいは……」
その先の言葉が見つからない。
ふいに、背後から声がした。
「観測報告、興味深いですね。最後に測っていないことを思い出すあたり、あなたらしいです」
柔らかな声だった。少しだけ、人をからかうような響きがある。
振り向く。
白の中に、小さな光の粒が浮かんでいた。第1話の最後に触れた、あの光だ。俺が見ている前で粒が広がり、輪郭を結んでいく。
銀色の髪。淡い空色の瞳。白いドレスをまとった女性が、そこに立っていた。髪は風もないのに、肩のあたりでゆっくり揺れている。
彼女は俺と目を合わせ、微笑んだ。
「初めまして、天城ユウマさん。私はセリア。この領域の管理者です。あなたの世界の言葉なら、“女神”が近いでしょう」
「女神、ね。宗教勧誘じゃないといいんだけど」
自分でも驚くほど、いつもの調子で言葉が出た。相手が何者か分からないからこそ、軽口でも叩かなければ落ち着かなかったのかもしれない。
「勧誘ではありません。転生処理――魂を別の世界へ移すための手続きを担当しています」
「急に役所の窓口みたいになったな」
「窓口業務に近い部分もあります」
セリアは真面目な顔でうなずいた。
女神というより、こちらの質問を待っている案内係のようだ。ただ、俺の名前も、さっきの独り言も知っている。見た目が人間に近いからといって、同じものとして考えるのは危ない。
「まず、ここがどこか教えてくれ。足場は感じるのに、床が見えない。歩いても景色が変わらない。ここで何が起きてる?」
「ここは中間層です。あなたがいた世界と、これから向かう世界の間にある領域。今あなたに見えている姿や足場は、ここを認識しやすいように与えられたものです」
「本当に床があるわけじゃない?」
「少なくとも、あなたが知っている床とは違います」
俺はもう一度、自分の靴元に目を落とした。靴の輪郭は見える。その下には、変わらない白が広がっている。
「それを最初に言ってくれよ。必死に重力を確かめてた」
「確かめようとしたことには意味がありますよ」
「慰めに聞こえるな」
「少しは、そのつもりです」
彼女は笑った。
もっと細かく聞きたかったが、先に確かめなければならないことがある。
「俺は、死んだのか」
セリアの笑みが静かに消えた。
「はい。実験室の事故で、あなたの身体は失われました」
短い答えだった。
分かっていたはずなのに、胸の奥が冷えた。ラックの擦れる音が、耳の奥によみがえる。あのとき出力を落としていれば。黒田が来たときに実験を止めていれば。考え始めると、いくらでも別の手順を思いつく。
けれど、それは事故の前には選ばなかった手順だ。
「……黒田は?」
缶コーヒーを投げて寄越した同期の顔が浮かぶ。彼は実験室を出ていた。そこまでは覚えている。
「事故の直前、彼はその場を離れていました。あなたが心配していることについて、私が確認できるのはそこまでです」
「そうか」
生きていると断言してほしかった。だが、分からないことを分からないと言われて、少しだけ呼吸がしやすくなった。
俺は自分の手を見た。実験ノートに数値を書いた手。非常停止ボタンには届かなかった手。
「死んだ実感って、こんなものなのか。まだ、あの部屋に戻れる気がする」
「急いで受け入れる必要はありません」
セリアは一歩も近づかず、俺が顔を上げるのを待っていた。
しばらくして、彼女の後ろに淡い光が現れた。線が伸び、陸地の形を描く。大きな大陸の上に、いくつもの地名らしい文字が浮かんだ。
「移動先は、アステリア大陸です。あなたがいた世界とは異なる場所にあります」
「……本当に異世界なんだな」
「そこには、マナと呼ばれるものを使う技術があります。住民はそれを魔法と呼んでいます」
魔法。
昔なら笑い飛ばした言葉だ。今は床の見えない場所で、女神を名乗る相手と話している。笑い飛ばすための根拠がない。
「火を出したり、傷を治したりする、あの魔法?」
「そうした用途もあります。ただし、できることと、簡単にできることは別です」
「エネルギーはどこから来る?」
口にしてから、自分でも少し呆れた。死んだばかりの人間が最初に尋ねることだろうか。
セリアは呆れなかった。
「人の内側だけで完結する現象ではありません。周囲のマナ、媒体、蓄えられた資源が関わります。詳しい仕組みは、その世界で確かめてください」
「答えを教えてくれないのか」
「私の説明を覚えるより、あなた自身が見たほうが正確でしょう」
それは、いかにも俺が言いそうな理屈だった。
地図の光が薄れ、代わりに小さな文字の並ぶ窓が現れた。
《魂属性解析》
《魔力プロファイル測定》
《スキル初期登録》
見覚えのある画面構成に、思わず眉を寄せる。
「待て。これ、完全にインストーラじゃないか」
「理解しやすい表示を選んでいます」
「理解しやすいのと、信用できるのは別だからな」
「慎重なのは良いことです」
セリアが窓を指で払うと、長い文字列が消えた。最後に、解析を開始するかどうかの確認だけが残る。
「転生先で使われている仕組みに、あなたを登録できるか調べます。始めてもよいですか?」
「調べるだけだな?」
「はい。結果を見てから、移動について話します」
俺は表示を読み直した。分からない用語はいくつもあるが、今は調べなければ先へ進めない。
「……分かった。解析してくれ」
窓に触れると、足元から淡い光が立ち上がった。
痛みはない。だが、身体の内側まで輪郭をなぞられるような落ち着かなさがあった。視界に数字や記号が流れていく。意味を追おうとしても、見慣れた単位は一つもない。
やがて、軽い電子音が鳴った。
赤い文字が、白い空間に浮かぶ。
《登録エラー:スキルネットワークに非連結》
《プロファイル生成不可》
《エラーコード:S-404》
「……ずいぶん見慣れた数字だな」
冗談を言ったつもりだったが、声が乾いていた。
セリアの表情が固まる。彼女は別の窓を開き、流れていく記録を目で追った。
「少し待ってください。照合をやり直します」
「何が起きた?」
「あなたの登録先が見つかりません。スキルを自動で扱うための経路が、つながっていない状態です」
「要するに、俺だけログインできない?」
「その例えが近いです」
もう一度、電子音が鳴る。結果は変わらない。
「俺の操作ミスじゃないよな」
「はい。画面の押し間違いではありません」
セリアは記録を閉じた。いつの間にか、その声から案内係めいた滑らかさが消えていた。
「ごめんなさい。通常の手続きなら、ここで登録が完了するはずでした」
初めて、彼女がこちらに謝った。
「それで、転生できないのか?」
「身体を得て、向こうへ移ることはできます。ただ、住民が利用するスキルの自動補助は、あなたには働かない可能性が高い」
「可能性?」
「ここで分かったのは、登録が成立しないことまでです。実際の身体で何ができるかは、向こうで確かめる必要があります。魔力の量も、今ここで決めつけるべきではありません」
俺は赤い文字を見つめた。
非連結。プロファイル生成不可。
新しい世界へ行けば、何でもできるようになる――そんな期待をしていたわけではない。それでも、入り口に立った途端に「接続できません」と告げられるのは、思ったより堪えた。
「世界初のバグユーザー、とでも呼ぶつもりか?」
「少なくとも、私の担当した手続きでは例外です」
「嬉しくねえな」
「ええ。喜ぶ必要はありません」
セリアの返事は、今度は茶化していなかった。
「ただ、自動の補助を使えないことと、何も学べないことは同じではありません。向こうには、道具を使い、手順を覚え、失敗しながら技術を身につける人たちもいます」
「俺にもできると?」
「できるかどうかは、まだ分かりません」
正直すぎる返事だった。
俺は少し笑った。
「そこは『あなたならできます』って言うところじゃないのか」
「根拠のない保証は、嫌いでしょう?」
「……よく分かってるな」
実験室で、俺は法則を信じていた。だが、法則を信じることと、自分が必ず成功すると思い込むことは違う。
知らない世界の魔法を、最初から理解しているわけではない。さっき聞いたマナという言葉だって、まだ名前を知っただけだ。
それでも、観察はできる。
誰かが火を起こしたなら、何を使い、何が変わったのかを見る。真似して失敗したなら、どの条件が違ったのかを探す。自動で埋めてもらえない部分があるなら、その部分を一つずつ確かめる。
成功の約束にはならない。けれど、俺が取れる最初の手順にはなる。
「手動で補う方法があるか、探してみる」
俺がそう言うと、セリアはうなずいた。
「はい。答えは、これからあなたが見つけるものです」
目の前に、新しい窓が開く。
《アステリア大陸への移動を開始しますか》
《はい/いいえ》
俺は文字を見て、セリアに尋ねた。
「『いいえ』なら、どうなる?」
「ここで手続きを止めます。ただ、この中間層にずっと留まることはできません」
「帰れるのか?」
セリアはすぐには答えなかった。
「あなたがいた場所へ戻す手段は、私にはありません」
白い空間が、急に広く感じられた。
大学の研究室。黒田が置いていった缶コーヒー。書きかけの報告書。どれも、もう俺の手の届かないところにある。
「……分かった」
俺は選択肢へ手を伸ばしかけ、止めた。
「一つだけ。向こうへ行ったら、まず何をすればいい?」
セリアは地図を閉じ、まっすぐ俺を見た。
「目を開けて、自分がいる場所を確かめてください。それから、無事に過ごす方法を探してください。研究は、そのあとです」
「ずいぶん基本的な手順だな」
「あなたは、基本的な手順を飛ばしそうなので」
言い返せなかった。最後の実験で、俺はまさにそれをした。
「この世界でも、フェイルセーフを忘れずに。危ないと思ったら止めてください」
「……了解。今度は、止め方を先に確かめる」
俺は《はい》に触れた。
足元の感触がほどける。白一色だった視界の奥に、淡い青と緑がにじんだ。最初に届いたのは風のような音。次に、かすかな土の匂い。
身体が下へ引かれる。
「ユウマさん」
遠ざかるセリアの声が聞こえた。
「良い観測を」
俺は答えようとした。だが、口を開くより早く、白い空間が消えた。
落ちていく感覚の中で、最後に実験室の非常停止ボタンを思い出した。
今度は、生きて確かめる。
そう決めて、俺は目を閉じた。




