第111話 始まりの村へ
翌朝、俺たちは聖都を出た。
聖都を離れたのは、全員ではない。
クラリス先生とミリーナ先生は、第一期の指導者養成講習を終えるまで移行支援所に残る。
リナは王都第一治療所で、生体補助系の互換試験を続けている。フィン、ノエル、ジークもグレインベルに留まり、各地から届く旧式魔法具に合わせた変換部品を作り続けることになった。
ナタリアは、公開審査を最後まで追うと言った。
「教皇を倒した英雄譚より、補償会議の三日目に誰が居眠りしたかを書く方が、たぶん未来には役立つわ」
ミーナは、偽認可札の流通元を追って帝国へ向かう。
「世界が変わっても、詐欺師は翌朝から働くのよ。勤勉で泣けるわ――ってね」
ダリオは、彼女の護衛を引き受けた。
「契約か?」
俺が訊くと、彼は灰色のマントを直した。
「契約書はある。報酬欄は空白だ」
「それで契約になるのか?」
「仕事が終わるまでに決める」
それだけ言って、先に馬へ乗った。
レーネは聖都に残る。
公開審査の証人であり、彼女と同じように命令へ身体を固定されていた人たちの相談役でもある。
「怖くない?」
別れ際、エリシアが尋ねた。
レーネはすぐには答えなかった。
自分の中にある感情を探し、名前を確かめてから、ゆっくり口にする。
「怖いです」
以前の彼女なら、使わなかった言葉だった。
「私の証言で、信仰を傷つけられたと言う人がいます。私を故障品と呼ぶ人もいます。それでも、ここに残ると決めました」
白い法衣の右袖には、根から伸びていた命令線を断った時の細い焦げ跡が残っていた。
縫い直すことはできる。
それでも彼女は、その一筋だけを修繕しなかった。
「自分で止まれたことを、忘れないためです」
ヨハン司祭が、礼拝堂の扉を開けて待っていた。
レーネは誰かの命令を待つことなく、自分の足でそちらへ歩いていった。
リオネルとセリナは、王都へ続く街道の分岐まで同行する。
「物流の混乱は、神域より手強いぞ」
リオネルが荷車の運行表を見て呻いた。
「命令一つで全便を動かせた頃の方が、表面上は速かった。今は村ごとに止める日も、受け取れる量も違う」
「それを調整するのが、あなたのお仕事でしょう」
セリナは扇で口元を隠した。
「わたくしは、旧式浮遊車を所有する家々から保守費を取り立てます。文化の連続性には、たいへん現実的なお値段がつきますもの」
二人は、開環旗を掲げる指導者にはならなかった。
旗が立つ場所へ食料を運ぶ。
避難者の宿を確保する。
壊れた手動弁へ交換部品を送る。
人目につきにくい橋を支える方を選んだ。
王都へ向かう街道の分岐で二人と別れ、ガレオン村への道に残ったのは、俺とエリシア、それにアークだった。
「王都へ戻らなくていいのか?」
「あなたをガレオン村まで送り届けたら戻るわ。家との話も、まだ終わっていないもの」
「気まずそうだな」
「ええ、とても」
エリシアは苦笑した。
「だからこそ、話すのよ。根へ命令を送るより、ずっと時間がかかっても」
◇
街道には、新しいものと古いものが並んでいた。
中継所では、浮遊馬車の側面へ開環仕様の版番号が塗られている。その隣を、魔法を使わず車輪だけで走る荷馬車が追い越していった。
宿の暖炉には、二つの起動札がある。
一つは、昔から伝わる詠唱を使う札。
もう一つは、温度と持続時間を選ぶ新しい入力環。
起動方法は違っても、止めるレバーは共通だった。子供でも届く高さにあり、右手でも左手でも引ける向きに取り付けられている。
「新しい仕様を読めない人は、どうすればいいんだ」
宿泊客の老人が、宿主へ尋ねた。
「俺が読んでやるさ。ただし、俺が勝手なことを言っていないか、こっちの印を確かめてくれ」
宿主が安全表示を指す。
緑の平らな線。
黄色の波線。
赤い四角と、その中央に刻まれた深い切れ込み。
色だけではない。
目が見えにくい者でも、指で触れれば危険の段階と停止位置を区別できる。
新しい仕組みは、文字を読める者だけの秘密の言葉にしない。
だが、すべてがうまくいっているわけではなかった。
二つ目に立ち寄った町では、互換層の更新に失敗し、共同井戸が半日止まっていた。
支援所は型式番号だけを見て、同じ番号の井戸に使えた変換規則を送った。
ところが、その町の井戸は三十年前に独自の改修を受けていた。水圧確認と弁開放の信号順が逆になっており、互換層から届いた返事を危険入力と判定したのだ。
井戸は壊れなかった。
安全側へ停止した。
だが、水が出ないという結果は同じだった。
住民たちは、倉庫から引っ張り出した古い手押しポンプを交代で動かしていた。
「自由になれば、水が早く出ると思っていたのに」
ポンプを押していた女性の言葉へ、俺は頭を下げるしかなかった。
「対応が遅れています。井戸の改修箇所を記録させてください。次の町で同じ停止を起こさないようにします」
「記録したら、今日の水が出るのかい」
「出ません」
女性の目が厳しくなる。
「だから、今は一緒に押します」
俺とエリシアは荷車を止めた。
鉄の柄は重かった。
押し下げるたび、地中から水を引く鈍い抵抗が肩へ返る。何十回も往復すると掌が擦れ、腕が痺れた。
理論式を書いても、今必要な水は汲み上がらない。
エリシアも手袋を外し、俺の向かい側から柄を押した。
「あなた、力の入れ方が下手ね」
「研究室に手押しポンプはなかった」
「言い訳になっていないわ」
アークは俺たちを代行せず、弁が動く周期と水圧だけを測った。
『改修部の革弁に摩耗を確認。現行部品より二・三ミリ厚い形状が必要です』
「近くの工房へ寸法を送って」
『送信します。ただし、製作を受けるかどうかは工房側の判断です』
夕方、工房から受注の返事が届いた。
翌朝には交換用の革弁が届き、井戸は手動入力から先に動作を確認したうえで再起動した。
理論は、手を汚さなくてよい理由にはならない。
同時に、目の前の作業だけで終わらず、同じ失敗を繰り返さない形へ残すことも必要だった。
◇
聖都を出て六日目の昼。
森の匂いが変わった。
湿った鉄。
川砂。
薪の煙。
身体が、記憶より先にその匂いを知っていた。
丘を越える。
小さな家々と、何度も修理された柵。その向こうに、太い煙突を持つ工房が見えた。
ガレオン村。
俺がこの世界で最初に名前を訊かれた場所。
「帰ってきた……」
胸元のアークが青く瞬く。
『現在地を照合。ガレオン村です』
一拍置いて、表示が増えた。
『補足。ユウマの記録上、最初の安全手順を作成した地点です』
「俺の記録上?」
『私の記録上でもあります』
工房の扉が、勢いよく開いた。
「お兄さん!」
タリヤが飛び出してくる。
以前より少し背が伸びていた。
三つ編みは同じで、頬についた煤も同じだった。
全速力のまま俺へぶつかり、白衣の胸を両手で掴む。
「遅い!」
「ごめん」
「世界、遠すぎ!」
「それは俺のせいじゃないと思う」
「難しい言い訳は禁止!」
工房の奥から、ガルドが出てきた。
煤けた前掛け。
鉄を打ち続けてきた太い腕。
こちらを一度だけ上から下まで見て、鼻を鳴らす。
「痩せたな、坊主」
「最初にそれか?」
「生きて戻った奴に、死んでなくて偉いとでも言えってのか」
「半分くらいは」
「甘えるな。入れ。火が冷める」
それが、ガルドなりの帰還の言葉だった。
◇
工房の中は、変わっているようで変わっていなかった。
壁の工具は、昔と同じ場所に並んでいる。
炉の横には、縁の欠けた湧水板。
窓際の棚には、俺が最初に失敗した火術式の焦げ板まで残されていた。
その隣へ、新しい試験台が組まれている。
ガルドが組んだ厚い鉄枠。
フィンたちの工房印が刻まれた黒鉛負荷。
ノエルの字で書かれた測定目盛り。
リナが送った火傷処置布。
クラリス先生の停止確認欄。
遠く離れた場所で働く仲間たちの手が、辺境の一台へ集まっていた。
「これが、見せたい火?」
「儂は台を組んだだけだ」
ガルドが顎をしゃくる。
タリヤが胸を張った。
「わたしがやるの」
「何を?」
「火を作る。お兄さんのじゃなくて、わたしの火」
試験台の中央には、指先ほどの石英片が置かれていた。
初心者用に出力を抑えた台だ。
火の大きさは、最大でも蝋燭より小さい。
温度上限と持続時間は鉄枠側で固定され、残った熱は黒鉛箱へ逃げる。入力が止まらない場合に備え、魔法と繋がっていない物理レバーも付いていた。
誰でも何でも使える台ではない。
初めての人が失敗しても、その失敗から安全に戻るための台だった。
俺は白衣の内側へ手を入れた。
三枚の木片を取り出す。
丸。
波線。
四角で囲った点。
角は丸くなり、表面には煤と指の跡が染みついている。
俺がこの世界を離れている間も、何度も取り出して見た木片だった。
「返すよ」
タリヤは目を見開いた。
「まだ持ってたの?」
「借りたままだったから」
「こんな古いの、作り直せばいいのに」
「これがよかった」
タリヤは三枚を受け取ると、前掛けで一枚ずつ拭いた。
消えない汚れを見て、少しだけ笑う。
「じゃあ、これを使う」
「手順を説明して」
タリヤは木片を試験台の前へ並べた。
「丸が、始める。波が、変なとき。四角が、止める」
「止めたい時は?」
「最初に、止めるって言う。それで止まらなかったら、四角をここへ置く。それでも駄目なら、この鉄の棒を引く」
物理レバーを指す。
「周りの人は?」
「黄色い線の外。ガルドじいが黒い箱を見る。エリシアお姉ちゃんは、火傷の布」
いつの間にか役を決められていた。
エリシアは楽しそうに処置布を持つ。
「分かったわ。火傷をしそうなら止めるけれど、火がつかないだけなら手は出さないわよ」
「うん!」
「アークは?」
『測定と記録を担当します。タリヤの入力を代行しません』
「お兄さんは、口を出さない」
「役がない」
「見ているのが得意なんでしょ?」
初めて会った日に俺が言った言葉を、覚えていた。
「……分かった。観測する」
タリヤが丸の木片を試験台へ置く。
局所受領票が青く光った。
【起動要求:受理】
彼女は教わった短い言葉を唱える。
「熱、ちょっと。ここ。三つ数えるまで」
石英片が白く瞬いた。
だが、火は出ない。
タリヤの笑顔が固まる。
「……失敗?」




