第11話 王都へ
村を出る朝は、どの朝より静かだった。
静か、というより――皆が音を飲み込んでいた。
折れた柵は仮に繋がれ、広場の土には昨夜の焦げ跡がまだ薄く残っている。魔獣の夜を越えた村は、助かったことを大声で喜ぶより先に、壊れたものを黙って直すらしい。
ガルドの工房の前で、俺は荷を確認した。
白衣。木札。石英板の二号機。煤で黒くなった簡易カロリーメータ。あと、ガルドが夜明け前に無言で渡してきた細い杖。
長さは肘から指先くらい。
芯材は硬い木。先端に小さな石英片がはまり、その根元を銀線が二重に巻いてある。飾り気はない。工房の道具みたいな顔をした杖だった。
「仮組みだ。王都の坊ちゃん嬢ちゃんが持つような上等品じゃねぇ」
ガルドはそう言って、俺の手元を見た。
「だが、お前の火は板より棒のほうが振り回しやすい。媒体を持ち替えるなら、早い方がいい」
俺は杖を握り、重さを確かめる。
軽い。けれど軽すぎない。石英の先端が、手首の延長みたいに前へ出る。
「……ありがとう。かなり助かるよ」
「礼はいい。折るな」
「条件が厳しいな」
「折れる使い方をするなって意味だ」
正論だった。
タリヤが工房の柱から半分だけ顔を出す。
今日は目の下の影も少し薄い。けれど、別れの朝だと分かっている顔だった。
「お兄さん、ほんとに行くの?」
「行く。王都で試験を受ける」
「試験って、いっぱい難しい顔するやつ?」
「だいたい合ってる」
「じゃあ、お兄さん向きだね」
ひどい評価なのに否定しにくい。
俺が苦笑すると、タリヤは小さな袋を差し出してきた。中には乾いた木皮と、細く裂いた薪、それに昨日俺が札に書いた記号を真似した木片が三枚。
丸、波線、四角で囲った点。
「これ、練習したの。起動と、危険と、停止。だいじなんでしょ?」
「……あぁ。大事だ」
「だから、王都に行っても忘れないで」
その言い方はずるい。
理屈より先に胸に入ってくる。
俺は木片を受け取って、白衣の内側へ仕舞った。
「忘れない。というか、たぶん増える」
「また増えるの!?」
「手順は増えるものだからな」
タリヤが呆れた顔をして、それから少しだけ笑った。
笑顔を見て、ようやく出発の実感が湧いた。
◇
王都行きの荷馬車は、村外れの街道で待っていた。
荷台には布袋と木箱、鉄材、乾燥肉。そこに人間が隙間を見つけて座る。快適とは言い難いが、前世の深夜バスよりは揺れの理由が分かるぶん、少しだけマシかもしれない。
御者台の近くには、紅の外套があった。
エリシア=ヴァーミリオン。
朝の光の中でも、その赤は妙に温度が低い。火属性の色なのに、見た目はむしろ刃物みたいだ。
「遅いわね」
「見送りがあったからな」
「いい村なのね」
「あぁ、手順を覚えるのが早い」
「感想が理屈屋すぎるわ」
そう言って、エリシアはほんの少しだけ口元を緩めた。
昨夜の戦闘の熱が抜けた分、彼女の声はまた上品で端的な温度に戻っている。
俺が荷台へ乗ると、護衛の一人が露骨に嫌そうな顔をした。
もう一人は無表情を装っているが、装いきれていない。
無籍。
下位判定。
体系の外。
そういうラベルは、人の眉間によく出る。
エリシアは気にした様子もなく、俺の手の杖へ目を落とした。
「新しい媒体?」
「ガルド製の仮杖。核外皮の簡略版を通しやすいようにしてある」
「……見せて」
俺が渡すと、彼女は先端の石英と銀線を指先で確かめた。
ほんの数秒で重心、損失、癖を見ている手つきだ。
「粗いけれど、思想は悪くないわね」
「褒めてる?」
「半分だけ。残り半分は、王都で作り直しなさいという意味」
返ってきた杖を握り直しながら、俺は頷いた。
たぶん、その評価は正しい。
荷馬車が動き出す。
軋む木、揺れる荷、土の匂い。
村が後ろへ下がっていく。
ガルドは手を上げるだけだった。
タリヤは両手で大きく振っていた。
工房の煙が、朝の空に細く伸びる。
あの場所に、木札は残った。
俺がいなくても、最低限の火は回る。
それだけで、行く理由になる。
◇
街道は、村を離れるほど綺麗になった。
踏み固められた土に石が混じり、やがて主要道へ合流すると、轍の深さまで揃ってくる。物流は文明の毛細血管だ。血の通りがいい道ほど、権力の中心へ近い。
昼前、最初の中継地で俺はそれを別の形でも見た。
広場の端に、二種類の乗り物が並んでいた。
一つは俺たちと同じ荷馬車。泥を被り、車輪を軋ませ、人間と荷物を同じ重さで運ぶ地面の乗り物。
もう一つは――浮いていた。
細い車体の下にルーン枠があり、青白い結晶灯が四隅で揺れている。車輪はない。地面から掌二つ分ほど浮き、荷台ではなく座席だけが綺麗に囲われていた。
浮遊馬車。
音は驚くほど少ない。
低い唸りがあるだけで、轍も作らない。
浮くための反力をどこへ逃がしているのか、俺は反射的に車体の下を見た。銀線の編み込みと、中央にある黒鉛っぽい板。位相緩衝と地脈押し付けの複合だろうか。
「気になる?」
隣からエリシアの声がした。
「すごく。反力処理をどうしてるのか知りたい」
「まず“綺麗だ”とか“便利そう”が先に来ないのね」
「便利かどうかは構造が分かってから判断したい」
「理屈屋」
二回目だ。
たぶんもう悪口ではない。
だが、同じ広場で別の光景も目に入る。
浮遊馬車に乗るのは、紋章入りの外套を着た商人と、貴族らしい家族だけだった。荷運びの男たちは汗を流しながら木箱を積み替え、自分たちは地面の馬車へ戻る。幼い子どもを連れた女が、浮遊馬車の受付で何か言い募っていたが、係の男は首を横に振るだけだった。
「媒体使用料と身分証明の不足、ってところか」
俺が呟くと、エリシアは肯定も否定もしなかった。
その沈黙が答えだった。
「浮遊馬車は高い。結晶の消耗も、整備も、免許もいるわ。誰でも使えるものではない」
「誰でも使える形にしてない、とも言える」
俺が言うと、彼女は視線だけでこちらを見る。
「ええ。そうね」
短い肯定。
でも軽くはなかった。
そのとき、受付でもめていた女の子が咳き込んだ。
母親が慌てて背をさする。浮遊馬車の係は困った顔をして、しかし道を開けない。
俺は胸の奥が少しだけざらつくのを感じた。
技術がある。
運べる。
でも、条件を満たす人間だけが浮ける。
前世でも似た景色はあった。高価な機材、限られた研究室、使える人間と使えない人間を分ける予算の線。
違うのは、ここではその線がもっと露骨に命と生活へ触れていることだ。
「……王都へ行けば、もっとはっきり見えるわ」
エリシアが言った。
「何が?」
「魔法格差。血統、教育、媒体、資格。全部が重なって、使える人と使えない人を分けている形」
「あなたは、その上側にいる」
「ええ」
迷いなく認めた。
そこは誠実だと思う。
「私はヴァーミリオン。王都では名前だけで通る扉が多い。学院でも、街でも、店でも。……でも、だからこそ見えるものもある」
「見えて、変えたいと思ってる?」
「全部は無理よ」
エリシアは浮遊馬車ではなく、その下で泥を払っている荷運びの少年を見た。
「でも、見たのに無かったことにはしたくない」
それは綺麗事にも聞こえる。
けれど昨夜、彼女は泥に膝をついて木札を書き写した。
綺麗事だけでそれはやらない。
俺は荷馬車の縁を指で叩いた。
「なら、少なくとも証明はする。低魔力でも、非連結でも、手順で届くところがあるって」
「学院で?」
「学院で。たぶん、いちばん嫌がられる場所だから」
そこで初めて、エリシアが小さく笑った。
「面倒な男ね」
「知ってる」
◇
王都ルブラが見えたのは、日が傾き始めた頃だった。
最初に見えたのは城壁じゃない。
空だった。
地平線の上に、細い光が何本も立っている。
夕闇が濃くなるのに合わせて、順番に灯る青白い灯。
魔導街灯だ。
道の両脇に立つ柱の上で、結晶灯が静かに明滅し、まだ夜になり切らない空を先回りして押し返していく。
綺麗だった。
正直にそう思った。
でも、その綺麗さは地上から少し浮いている。
街灯の下を歩く人間は泥を踏む。
荷を背負った労働者は汗を流す。
門前には身分確認の列ができ、紋章のある者は別の通路を速く進む。
そして頭上では、さっきの浮遊馬車よりもっと上等な車体が、音も少なく門を越えていく。
光は平等に降りているように見えて、通る高さは平等じゃない。
「……ひどいコントラストだな」
「でしょう?」
エリシアの声は淡い。
慣れている声だった。
慣れていて、それでも見えている声。
門番が俺の前で手を上げた。
「身分証を」
「ない。仮入都の扱いで通す予定だと聞いてる」
門番の目が白衣と杖と顔を順番に見て、露骨に訝しくなる。
その横で、エリシアが紋章札を出した。
「彼は私の推薦対象です。学院試験の仮登録も申請済み。記録を照会しなさい」
門番の態度が一段変わる。
俺にではなく、彼女に対して。
木札でも杖でもなく、家名が手続きを加速させる。
そういう世界だ。
照会の間、俺は門の上に刻まれたルーン列を見ていた。
識別、通行量分散、結界監視、たぶん簡易の敵性判定まで入っている。よくできたインフラだ。よくできているからこそ、運用する側の思想がそのまま街の形になる。
「……通ってよし」
門番が言った。
俺は足を進め、それから一度だけ振り返る。
後ろの列では、紋章のない荷運びたちがまだ止められていた。
荷の検査、税の確認、通行証の照合。
たぶん必要な手続きだ。必要だから厄介なんじゃない。必要なものが、一部の人間にだけ軽く、一部の人間にだけ重いのが厄介なんだ。
城壁の内側へ入ると、光が増えた。
石畳。店の硝子。高い建物。街灯の列。頭上を滑る浮遊馬車。
王都は、村とは違う意味で整っている。
エリシアが立ち止まる。
「ここから先、私は学院側の入口へ行く。あなたは仮宿舎へ。試験は二日後」
「早いな」
「遅くしたら、あなた、勝手に街中の術式を覗き始めるでしょう」
「否定できない」
「でしょうね」
彼女はそれから少しだけ真面目な顔になった。
「ユウマ。学院は、村みたいに素直じゃないわ。手順を見れば分かる人ばかりじゃない。むしろ、分かると困る人の方が多い」
「想定内」
「それでも行くの?」
その問いは確認だった。
招待じゃなく、最終確認。
俺は王都の灯りを見た。
青白い街灯。浮く馬車。分かれた通路。早く開く扉と、待たされる列。
技術はもうある。
足りないのは、誰のものにするかという設計だ。
「行くよ」
「理由は?」
エリシアの目が、まっすぐこちらを見る。
観測の目だ。
でも前より少しだけ、温度が近い。
俺は杖を握り直して、答えた。
「理論を証明しに行く」
夕闇の中、王都の灯りが一段強くなった。
まるで街全体が、試験の開始を先に告げているみたいだった。




