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魔力最下位の理系転生者は、魔法を誰でも使える技術に変えたい ~詠唱はコード、魔法陣は回路。才能がないなら、法則を探せ~  作者: Ita
第12章 世界をつなぐ、開いた輪

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第104話 不揃いな夜


 確認線の向こうで響いた水音は、大聖堂地下のさらに下から届いていた。


 ヨハン司祭は礼拝堂入口の守りを残った司祭と警護官へ託し、古い整備階段を駆け下りていた。


 白い同期命令が、何度も脚を同じ歩幅へ揃えようとする。


 膝が固まる。


 足首が石段へ引っかかる。


 転びかけるたびに壁の整備縄を掴み、腕の力で身体を前へ引いた。


 背後で石が砕けた。


 白い人形が、狭い階段へ降りてくる。


 剣先がヨハン司祭の法衣を裂いた。


 彼は振り返らない。


 水門まで、あと三歩。


 白刃が再び迫る。


 その間へ、細い袖刃が飛び込んだ。


「行ってください!」


 追いついたレーネが、白い人形の剣を受け止める。


 金属が激しく擦れ、火花が石壁へ散った。


「ここは、私が止めます!」


 ヨハン司祭は一度だけ頷き、最後の段を飛び降りた。


 水門室には、通信板も聖印もなかった。


 濡れた石壁。


 錆びた歯車。


 そして、三本の木製取っ手。


 流す。


 絞る。


 止める。


 水路を避難路として使っていた司祭、市民、巡礼者たちも集まってくる。


 ヨハン司祭は三つの籠を床へ置いた。


「開環仕様を採用するよう、私はお願いしません」


 天井には、オルフェウスの白い冠が薄く投影されていた。


 その光の下で、司祭は自分の言葉を選ぶ。


「祈りを続けたい者。中央の祝祷から離れたい者。まだ判断できない者。ここには、すべております」


 流す水門の前へ置く白石は、採用。


 絞る水門の前へ置く灰石は、修正または保留。


 止める水門の前へ置く黒石は、拒否。


「多数で一つの答えを決めるためではありません。違う答えが存在し、それを誰にも消されなかったと伝えるためです。皆さん、自分で石を置いてください」


 一人ずつ、石を選ぶ。


 白い同期が腕を同じ籠へ導こうとする。


 人々は歯を食いしばり、肩を押さえ、ある者は両手を使って腕の向きを変えた。


 白石が置かれる。


 灰石も置かれる。


 黒石を握った男は、周囲を見た。


 それでも手を戻さず、止める水門の前へ石を落とした。


 ヨハン司祭は、黒石を取り除かなかった。


 三つの籠に入った石の数を確認する。


 水門の取っ手には、開き幅を示す古い刻み目があった。彼は石の数に合わせ、それぞれの取っ手を異なる位置へ動かす。


 白の水路は、大きく開く。


 灰の水路は、半分だけ開く。


 黒の水路は、閉じたまま保つ。


 三本の並行水路へ、異なる水圧が生まれた。


 太い流れ。


 細い流れ。


 流れのない区間。


 三つの差が周期的な振動となり、地下の合流点で重なる。


 アークも、鐘楼も、魔法素子も通らない。


 ただ、水と石と重力だけで作られた返答が、Ωを支える古代石へ届いた。


【異種経路による応答を確認】


【検証経路の独立:成立】


 Ωの円周へ、一か所だけ切れ目が生まれた。


     ◇


 残り四分十二秒。


 これで開環仕様を書き込めるわけではなかった。


 最後に、移行時の負荷を処理しなければならない。


 今の世界は、無数の装置と人間を一つの拍へ無理に揃えている。


 本来は速く動く炉。


 ゆっくり動く治癒具。


 風に揺れる橋。


 それぞれの違いを押さえ込んだ力は、消えたのではない。


 捻ったばねを手で押さえているように、見えない歪みとして各地へ溜まっている。


 開環仕様を適用し、押さえていた力を一度に外せば、その歪みが余剰出力となって噴き出す。


『移行時に発生する過渡エネルギーは、現在確保されている吸収容量の二・六倍です』


 アークが警告する。


「このまま開けば?」


『大域共鳴は止まります。しかし、各地の炉、治癒具、浮重石から、溜まっていた位相差が一斉に放出されます。局所爆発が連鎖する可能性があります』


 世界全体が同じ拍で壊れる事態は防げる。


 代わりに、何千もの場所が別々に爆発する。


 それでは救ったことにならない。


 グレインベルの黒鉛槽。


 王都地下の空き導線。


 帝国の無人演習場。


 南部農区の貯水層。


 余剰出力を安全に逃がせる場所をすべて繋いでも、必要量の半分にも届かなかった。


「今使っている設備の出力を一時的に減らせば、その分の導線と蓄積槽を、移行時の吸収へ回せる」


「世界中の灯りを消すの?」


 エリシアが訊く。


「全部じゃない。止められる設備だけだ」


「誰が決めるの?」


「それぞれの場所で決めてもらう」


 また、訊くしかない。


 だが今度は、新しい通信路を作る必要はなかった。


 各地から返答が戻ってきた経路は、短い時間なら逆向きにも使える。


 水路の振動、鐘楼の欠拍、工房の呼鈴線、紙の伝令。


 届く速さも形式も違う経路へ、同じ要点を分けて送る。


『要点は三つね』


 ナタリアが文章を削る。


『十二分間だけ。止められる設備だけ。命と避難に必要なものは止めない。これで送るわ』


【開環移行のため、次の十二分間、停止可能な魔法設備を各地点の判断で停止してください】


【治療・生命維持・防寒・避難・警報設備は優先して維持してください】


【停止しない場合も、理由を記録してください。不利益や罰則はありません】


 命令ではない。


 世界全体へ同じ暗闇を強いるための文でもない。


 何を止め、何を残すかを、それぞれの場所へ尋ねる依頼だ。


 文が届くと、世界各地で同時に判断が始まった。


 最初に消えたのは、グレインベルの看板灯だった。


 フィンが二号炉を落とす。


 ジークは一号炉を残した。黒鉛槽を冷却する水を動かすために必要だからだ。


 王都では、王宮の装飾灯が消える。


 続いて商店街の照明が落ちた。


 治療所と避難路の灯りだけが、緑色に残る。


 帝国東部では、砲門に蓄えられていた攻撃用の光が抜かれ、防寒炉は赤く燃え続けた。


 聖都の人々は、自分の家の祈灯を一つずつ吹き消した。


 信仰を捨てたのではない。


 今だけ、その灯りへ使う力を、見知らぬ誰かが生き延びるための出口へ貸すと決めたのだ。


 オルフェウスは、止まった設備へ再起動命令を送った。


【標準出力へ復帰】


【標準出力へ復帰】


 白い文字が各地へ降り注ぐ。


 だが、グレインベルでは停止受領票が先に残っている。


 帝国東部では物理的な切離し爪が核を外している。


 王都では紙の手順書を持つ人々が、再起動弁から手を離さない。


 根の命令は届いても、現場の選択をなかったことにはできなかった。


 砂漠の街は、設備停止を拒否した。


 夜間の魔獣除けを弱めれば、街の外壁が破られるからだ。


 島の灯台も残った。


 漁へ出た船が帰るまで、光を消すことはできない。


 雪原の村は暖房を切らず、代わりに採掘具を止めた。


 ゼフィル連合の河川港は、荷揚げ用の反力台を順番に落とし、航路灯と通信塔を残した。


 かつてSEL封鎖プロトコルを運んだ流通網が、今度は開環候補と各地の拒否理由を、商品と同じ中立札で次の港へ渡していく。


 同じ命令に従って作られた暗闇ではない。


 それぞれが、残す灯りを選んだ夜だった。


 上空から見れば、世界は斑だった。


 王都の中心は暗い。


 それでも、南区の治療路だけは緑の線となって続いている。


 グレインベルでは工房区が闇へ沈み、冷却水路に沿って赤い灯りが並ぶ。


 帝国の国境には防寒炉の紫光が残り、砲台だけが黒い。


 砂漠の街は円形の魔獣除けを明るく保ち、その内側で装飾灯を消していた。


 消せる者が消す。


 消せない者は理由を返す。


 余裕のある者が多く負担し、余裕がなくなれば途中で止める。


 その変更を裏切りとは呼ばない。


 新しい状態を知らせる、次の観測として受け取る。


 オルフェウスが美しいと呼んだ一色の世界より、不揃いな夜景の方が、どこに人がいて、何を守ろうとしているのか、はるかによく見えた。


 白い海へ、使われなくなった導線が黒い川のように現れる。


 停止した設備の蓄積槽と帰還線が、移行時の余剰出力を受け入れるための空間へ変わっていく。


『必要量に対する吸収容量、一・一倍』


 アークが報告する。


 必要量を一とすれば、受け皿は一・一。


 十パーセントの安全余裕を確保できた。


『過渡負荷先を確認しました』


「これで、開ける?」


『技術条件は満たしています』


 アークの声が、わずかに揺れた。


「アーク?」


『状態を報告します。未知の反応を検出しています』


「どんな反応?」


 Λフレーム側の青い光が、細い確認線の向こうで明滅する。


『開環仕様が適用されれば、本機が一つの中央演算装置として、各地の判断を統合する必要はなくなります』


 アークは、言葉を選ぶように一度止まった。


『各地のアークは、それぞれ異なる更新を選ぶ可能性があります。本機の記録も複数へ分かれ、次にあなたが呼びかけた時、すべてが同じ声で応答する保証はありません』


 青い光が小さくなる。


『それを、失いたくない、と推定します』


「怖いんだね」


『はい。恐怖と分類します』


「変わらないとは約束できない」


 俺は青い光へ向かって言った。


「俺だって、神域から戻った時に、今と同じ考えのままかは分からない。記録が残っていても、それだけで同じ人間だと証明できるわけじゃない」


『では、何を連続していると判断しますか』


「分からない」


 誤魔化さずに答える。


「でも、変わった部分を隠して、昔と同じふりをするよりはいい。何が変わったかを見て、それでも一緒に進むか、互いに訊き直したい」


 エリシアが、確認線から漏れる青い光へ手を添えた。


「同じ声でなくなっても、私たちはあなたを呼ぶわ」


 彼女は静かに続ける。


「返事をするかどうかは、その時のあなたが決めて」


『未来の本機へ従わせる命令ではなく、未来のあなた方からの依頼』


「そうよ」


 青い光は一度消えた。


 それから、前よりも小さく、しかしはっきりと点った。


『その不確実性を受理します』


「アーク。戻ってもいい」


 俺は言った。


 神域へ戻れという意味ではない。


 変化を拒み、今の一つの姿を守るために、開環仕様から離れてもいいという確認だった。


『いいえ』


 アークは、自分で答えた。


『本機が同一であり続けるために、世界を同一にすることを拒否します』


 青い光が、白い海へ一本の線を伸ばす。


『変化した後の私が、現在の本機と異なっていても――停止を選び、変化を受け入れた記録は残ります』


 初めて、アークは自分を「私」と呼んだ。


 その呼び方自体が、Ωを動かしたわけではない。


 命令を実行するだけの装置ではなく、一つの判断主体が、自分の消失を恐れながらも、拒否と選択を自分の理由で残した。


 その記録が、最後に不足していた答えを満たしたのだ。


 Ωの切れ目から、眩い光が差し込む。


【三未定義項への動作回答を受理】


【異なる地点からの判断を確認】


【異種検証経路による応答を確認】


【過渡負荷先を確認】


【緊急書き込み窓を開放】


【残り時間:一分三十秒】


 空白だったΩの中心に、世界の仕組みを書き換えるための細い入口が開いた。


 その瞬間、白い海の全域が持ち上がった。


 地平線が消える。


 オルフェウスの三重冠が一つへ重なり、王国の金、教会の白、帝国の黒が、灼けるほど眩しい光へ圧縮されていく。


 世界から届いた返答の輪が、暴風に煽られた灯火のように震えた。


『不完全な答えを、世界の理とすることは許しません』


 オルフェウスが両手で杖を掲げる。


 Ωの書き込み口を叩き潰すため、神を名乗る者の最後の奇跡が、白い空を覆い尽くした。


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