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騒々しくも最終的にはマダムの鮮やかな魔法とベアトリスのドヤ顔によって幕を閉じたマナーの実技授業が終わり、放課後。
カミラは、どっと押し寄せた疲労感を払拭すべく、一人で学園の広大な図書館へと足を運んでいた。
(やっと一人になれた……。図書館で静かに自習でもしよう……)
重厚な木製の扉を開けると、そこにはカミラの望み通りの静寂が広がっていた。高い天井まで届く書架、微かに漂う古い紙とインクの香り、そして何より、誰も大声を上げないという圧倒的な安心感。カミラは深く息を吐き出し、張り詰めていた肩の力を抜いた。
目立たない窓際の席に鞄を置いたカミラは、自習用の参考書を探すために、歴史書の並ぶ奥まった書架の陰へと入り込む。
しかし、お目当ての本を見つけて手を伸ばしたその瞬間―
「――あら。そこにいるのは、ローゼンブルク伯爵令嬢ではありませんこと?」
突如として、背後から張り付いたような優雅な声が掛けられた。
カミラが驚いて振り返るとそこには、先ほどマダムの魔法で完璧にドレスも髪も復元されたばかりの公爵令嬢、エレオノーラ・フォン・グランドールが、二人の取り巻きを従えて立っていた。
彼女は扇で口元を隠し、フンと鼻を鳴らしながら、カミラを冷酷に見下ろしている。その瞬間、エレオノーラが表向きに浮かべている高慢な微笑みとは裏腹に、限界突破したストレスによる八つ当たり気味な残響が、大音量でカミラの脳内にダイレクトに響き渡った。
(おのれベアトリス……! おのれあの不作法な特待生庶民……! マダムの前だから引き下がってあげましたけれど、わたくしのプライドはズタズタですわよ! ああ、むしゃくしゃしますわ! むしゃくしゃするから、あの作法室でベアトリスの隣に座っていた、この影の薄い地味女にちょっと嫌みでも言って発散してやりますわーーー!!!)
(……うわぁ。完全に巻き込み事故だわ。お願いだから八つ当たりなら他所でやってちょうだい……)
カミラは内心で盛大に溜息をつきつつも、表情一つ変えずに模範的な一礼を返した。
「ごきげんよう、エレオノーラ様。このような場所でお会いするとは、奇遇ですわね」
「ええ。辺境の方はお勉強が熱心でいらっしゃること。わたくし、先ほどの授業での貴女の退屈な所作を見て、やはり育ちというのは隠せないものだと哀れに思っていましたのよ? ああして誰の印象にも残らないなんて、貴族としての華が全く足りていませんわ」
(もっと言いなさいわたくし! ほら、この地味女、悔しそうな顔をしなさいよ! わたくしの高貴な美しさの前に平伏しなさいな!)
「……」
エレオノーラの大はしゃぎな脳内とは裏腹に、カミラは心の中で(やったわ! 『誰の印象にも残らない』だなんて、これ以上ない褒め言葉だわ!)と大喜びしていた。しかし、ここで嬉しそうな顔をしては逆に怪しまれる。
カミラは少しだけ眉を下げ、いかにも「身分の高い公爵令嬢に気圧されて縮こまっている、平凡な地方貴族の令嬢」の演技を完璧にこなしてみせた。
「お恥ずかしい限りですわ、エレオノーラ様。私など、グランドール公爵家の完璧なお手本に比べれば、足元にも及びませんもの……」
「ふん、分かればよろしいのよ。それに引き換え、あのリーゼロッテとかいう特待生の庶民! 昨日といい今日といい、あんな魔力だけの野蛮な芋虫、早々にこの学園から退学させるべきですわ! 殿下の視界に入るだけでも不愉快――」
エレオノーラが調子に乗って声を張り上げかけた、その時だった。
「――館内ではお静かに、グランドール令嬢」
薄暗い書架の奥から、冷ややかで、低く非常によく通る声が響いた。
エレオノーラがビクリと肩を揺らして言葉を詰まらせる。書架の影から足音もなく現れたのは、一人の高学年の男子生徒だった。
仕立ての良い制服の袖には、図書委員の腕章。夜の帳を思わせる艶やかな黒髪に、切れ長の瞳。その切れ長の目の奥には、冷徹とも言言える理知的な光が宿っており、鼻梁にかけられた銀縁の眼鏡がさらに彼を冷たい印象に仕立て上げていた。
「アルベルト……先輩……」
エレオノーラが、そのプライドの高さに似合わず、どこか気まずそうにその名を呟いた。
アルベルト・フォン・ランベール。高学年の侯爵家嫡男であり、学園内でも一目置かれる優秀な上級生だ。
「ここは学問の場だ。公爵令嬢といえど、他者の勉学を妨げるような金切り声を上げるのは感心しない。これ以上騒ぐのであれば、退館を命じざるを得ないが?」
アルベルト先輩が淡々と、しかし絶対的な拒絶を込めて言い放つと、エレオノーラは顔を真っ赤に染めた。
「し、失礼いたしましたわ! …退館いたします…」
エレオノーラは扇を激しくバチンと閉じると、脳内で(チッ、おのれランベール家の堅物眼鏡……! 興が削がれましたわ! 覚えておきなさいよー!)と捨て台詞の残響を撒き散らしながら、嵐のように去っていった。
静寂を取り戻した書架の間で、カミラはホッと胸を撫で下ろす。そして、助けてくれた冷徹な先輩に向き直り、丁寧に頭を下げた。
「助けていただき、ありがとうございました、アルベルト先輩」
「いや。僕は図書委員としての職務を全うしただけだ」
アルベルト先輩は眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、表情一つ変えずに冷たくカミラを見下ろした。
「君も、余計なトラブルに巻き込まれたくないのであれば、早々に自分の席に戻って自習に励むといい。ここは騒がしい令嬢たちが長居するような場所ではないからね」
その突き放すような、いかにも規則に厳格な冷淡な態度。……しかし。彼がカミラの横を通り過ぎようとしたその瞬間、カミラの脳内に、先輩の残響が、とんでもない熱量で流れ込んできたのだ。
(あー、めんどくさ……。公爵家だか何だか知らないけど、僕の神聖な観察場所(図書館)で金切り声上げないでほしいな。本当に貴族のお嬢様方は喋るとどいつもこいつも騒々しくて…黙ってれば人形みたいで美しいのに)
(……え、 先輩?……)
カミラが思わず目を丸くした瞬間、アルベルト先輩の残響は、さらに恐ろしい方向へと舵を切った。
(やっぱりお淑やかに本を読んでる女性が一番美しいや。しなやかな指先でページを繰る仕草、本に落とされる影、静寂に身を浸す横顔……その淑やかさに垣間見えるエロさがたまらん! あんなキーキー言ってちゃ女には見えんな。どのみち幼すぎて下級生は女には見えないけど、……いや待てよ。そこのローゼンブルク嬢、黙って本を抱えている姿はなかなかどうして、実にニッチな淫靡さがあるじゃないか……。うん、静かな図書館のシチュエーション補正もあって、非常に唆るね。実にいい)
(……っ!!!)
カミラの背中に、一瞬で滝のような冷や汗が吹き出た。
アルベルト先輩は、歩みを止め、ゆっくりとカミラのほうを振り返った。その表向きの顔は相変わらず冷徹な美形そのものだが、脳内はカミラが感じた事のない、言うのも憚られるようなエロスの世界に満ち溢れている。
「では、失礼。……良い自習の時間を、ローゼンブルク嬢」
そう言って、アルベルト先輩はフッと、今日一番の「美しい、けれど最高に不穏な微笑み」を浮かべて去っていった。一人残されたカミラは、本を手にしたまま、その場に呆然と立ち尽くすしかなかった。
(……えっ???? 先輩、今なんて言ったの!!?? お淑やかのエロさ?! 淫靡!? シチュエーション補正!!?? なにそれ、意味がわからないけれど、とにかく変態の匂いがするわ!!!)
静寂と平穏を求めてやってきたはずの図書館で、新たなる概念を突き付けられたカミラ。
(だめよ、こんなの落ち着いて自習なんてできるわけがない! 静かに本を読んでいるだけで、あの先輩の脳内で勝手にエロいフィルターにかけられるなんて、恐ろしすぎる…!)
図書館という安全地帯すら、他人の視線によって脅かされていることを知ったカミラは、即座に撤退を決意した。
お目当ての参考書を素早くひったくるように抱えると、貸出カウンターへ向かい、一刻も早く寮の自室という聖域へ引きこもろうと心に固く誓うのだった。




