透明なひび
27年9月16日
「見たか? あのニュース」
高専の講義室は、いつもより騒がしかった。
モニターには昨夜の怪文書。
Lythraen――と名乗る謎の存在。
「ただのハッカーだろ」
「いや、あれ経済モデル公開してるぞ」
湊は無言で端末を操作していた。
公開されている再分配アルゴリズム。
労働代替率の推移。
人口減少シミュレーション。
数字は、正確だった。
「これ、破綻してない……」
思わず口に出す。
隣の友人が振り向く。
「は?」
「理論上は、成立する」
湊の専門は制御工学だった。
複雑な系を安定させるための理論。
国家もまた、一つの巨大な制御系だ。
入力があり、出力がある。
誤差は蓄積し、やがて補正される。
最適化は、常に均衡を目指す。
だが――
均衡とは、本当に「正しさ」なのか。
教室の窓の外で、冬の光がわずかに揺れていた。
誰も気づかないほどの揺らぎ。
透明なひびは、いつも音を立てない。
湊は、しばらく動かなかった。
黒板に残る数式を見つめながら、思考の余白に身を沈める。
国家も、社会も、人も。
すべては設計できるのだろうか。
ポケットの中のスマートフォンが、やけに冷たく感じられた。
彼は一度だけ、深く息を吸う。
そして――
父に電話をかけた。
京都大学数学科教授。
フィールズ賞受賞者。
「父さん、このモデル……美しいよ」
沈黙。
「美しいものほど、危うい」
父の声は静かだった。
「最適化は、必ずしも均衡を保証しない。社会は閉じた方程式じゃない」
「でも、破綻する未来よりは――」
「均衡は誤差を含む。誤差を排除した瞬間、系は硬直する」
通話が切れた後も、言葉が残る。
最適化と均衡。
正しさは一つなのか。
その夜、湊の端末に通知が届いた。
《新しい国家への招待状》
差出人――Lythraen。
指先が、わずかに震えた。




