4
一日の授業を終えて、なーさんとじゅったんは今日も今日とて走りに出かけていく。高校の敷地の前を延びる県道沿いがロードワークの定番コースだけれど、海辺の方向に行くか丘陵地の方向に行くかを、ふたりはもっぱら、じゃんけんで決めている。
今日はじゅったんが勝ったので海の近くを走ってくるのだと思われる。大学受験の勉強に追われる身にとっては、走ることがちょうど良い息抜きになっているみたいだ。
なぜ走っているかといえば、ふたりは陸上部だからである。
もともとじゅったんはサッカー部だったけれど、二学年上の先輩たちが引退して、部員数が試合成立の最低人数である八人を割った、一年の高校総体後に、サッカー部は廃部になった。
サッカー部だけでなく、硬式野球部にバスケ部、男女バレー部、剣道部、卓球部、新聞部、パソコン部、料理部、昔はいろいろ活動していたみたいだけれど、今の縹高校に残っている部活動は、陸上部と吹奏楽部のみ。
陸上部がふたり、ということはつまり、吹奏楽部は私ひとりである。
ふたりがいない放課後は暇だ。「優雨も一緒に走る?」とじゅったんにたびたび誘われるけれど、丁重にお断りしている。
じゅったんはそういうところ、律儀だ。なにしろ三人しかいないので、そのうちふたりが一緒に行動したら、自然と残されたひとりが除け者にされた感が出てしまうがものすごく嫌らしい。
四人兄弟の末っ子であるじゅったんは、常に過保護な視線と愛情を注がれ、なにをするにも兄弟のうちで最も優先されて育ってきたためか、自分ひとりだけ割を食っている状況が許せない、無自覚な王様タイプの甘ちゃんである。
でも、陸上部の男子ふたりと私が同じペースで走れるわけもなく、一度として、ふたりのロードワークに参加したことはない。
陸上部が活動する日は、吹奏楽部も不定期で活動している。たいてい三人で一緒に帰るので、走るふたりが戻ってくるのを待って、音楽室で時間をつぶすことが多い。
校舎は四階建ての本館と別館に分かれている。音楽室は別館四階の端だ。音楽の授業は一年生のときだけだったので、もう丸一年以上、授業では使用されていない。そしてこれからも使用される予定はない。そもそも、この学校には昨年から音楽の先生もいないのだ。
本来の役目を果たさなくなって久しい音楽室は、私が時おり暇つぶしにやってきては、置き去りにされた楽器に触り、気が向いたら掃除をしている。隣の準備室には、使われない楽器が今でもそのまま残されている。私よりも背の高い大きなスチールラックに、大小さまざまなケースに収まったまま保管された楽器たち。全部を利用したら三十人編成の演奏くらいは余裕でできるだろう。それでも吹奏楽としては少人数だけれど。
フルート、クラリネット、ホルン、トロンボーン、チューバ……私は置き去りにされたそれらを気分で選び、音を出したり、棚に残っている楽譜を見ながらなんとなく演奏の真似事をしてみたりする。音程のコントロールが難しくて挫折した楽器もある。ホルンがそうだ。トランペットは一時期、嵌って練習していたから、かなり上達した。嵌ったきっかけは、主人公がトランペットを吹くシーンのある昔のアニメ映画がテレビで再放送されているのを観たからだった。
でもいちばん好きなのは、木管楽器や金管楽器ではなく、ピアノだ。幼い頃、家の近所で開かれていたピアノ教室に通っていたから馴染み深い。音楽室にはグランドピアノが置かれている。公式な出番はほとんどないけれど、今でも表面がつやつやと光る、美しいピアノ。
椅子に腰かけて、鍵盤に指を下ろす。ポーン、と音がなる。ポーン。ポーン。冷房設備が備わっていない音楽室は暑いので、硝子窓と入口扉を開け放したまま、指が動くままに適当に、拙い音を紡いでいく。四階の窓からは地上付近よりも涼しい風が通る。音の粒は四角い室内を跳ね回り、そのうち風に流されていく。
そうやってしばらく弾いていると、扉のある場所からひょこりと見知った顔がのぞいた。
養護教諭の百合岡先生だった。
いつも羽織っている白衣の下は、夏らしいシンプルな白いTシャツにチノパン。ビターチョコレート色のミディアムへアが肩の上で跳ねまくっている。化粧気はない。かろうじて眉は描かれているものの、アイシャドウもチークも、ファンデーションすら塗られていなさそう。いつもながら、休日に散歩していた近所のお姉さんが誤って学校に迷い込んだ末に、なぜか白衣を着てみました、みたいな風情である。
仮にも先生がこんなにラフな装いでいいのだろうか。まあ、生徒数に比例して教員数も少ない学校だし、クレームを入れるような保護者もいないから、何も心配する必要はないのだろうけれど。
「リクエスト、受け付けてる?」
「私が知ってる曲なら」
先生が色のない唇に乗せた曲名は、聞いたことないものだった。「これは?」「わかんないです」という会話を数回繰り返すうち、先生が胸を撃たれたような仕草をする。
「うわ、ジェネレーションギャップを感じた。胸が痛い」
「選曲が古いんじゃないですか」
「ぜんぜん古くないよ、私が高校生のときとかに流行ってた。本当に全部知らないの?」
「知らない。先生、今いくつ?」
「28? 9だったかな?」
「かな? って」
「優雨ちゃんもこの歳になったらわかるよ、年々、歳をとっていくのが嫌になってきて、数えるのをやめちゃおうかって現実逃避していたら、本当に何歳かわからなくなるの」
仮にもまだ二十代の身で、哀しくなることを言わないでほしい。平均寿命を考えると、先生の年齢からさらに人生は五十年間ある、どうやって残りの半世紀を乗り越えればいいのか。
「先生はまだ大丈夫ですよ。若いしかわいいから」
「お世辞がうまいなあ。私が科目担当してたら成績甘く付けちゃうのになあ、残念」
「ほんとですか? 数学でお願いします」
「数学か、私も一番苦手だったんだよねえ」
お世辞抜きに百合岡先生はかわいいと思う。華やかな美人ではないけれど、ほとんどすっぴんの肌は綺麗だし、愛嬌もある。恋人とかいるのかな、いるとしたら島外だろう、狭い島内での色恋沙汰はすぐ噂になるから隠しようがない。
「ていうか十年前の曲って普通に古いですよね、立派な懐メロじゃないですか。十年ひと昔、って言いますよ。最近の曲は知らないですか?」
腕を組んで首を捻る先生。残念なことに、どうやら彼女のなかでの音楽の歴史は十年前に途絶えてしまったようだ。
じゃあ、と先生は定番の合唱曲の名前を挙げる。旅立ちの日に、BELIEVE、翼をください、COSMOS、マイバラード。
「好きな合唱曲ってある?」
「思い出に残ってるのは、『手紙~拝啓十五の君へ~』です。中学の文化祭で合唱したんです。全校生徒で……と言っても、二十人もいなかったですけど。私がピアノ伴奏で」
当時の光景が脳裏に蘇って、胸がいっぱいになって少し苦しい。この高校に通う私たち三人以外は全員、今はもう島を離れてしまった。三人きりではもう、合唱は成立しない。
伴奏を失敗するわけにはいかないから、文化祭の前はめずらしく頑張って練習した。ピアノの練習に必死になったのは後にも先にもあのときだけだ。だから、思い出すよりも先に指が自然と動く。懐かしい前奏。百合岡先生の身体がピアノの音に合わせてかすかに揺れる。
「あー、サビしか歌詞わかんないかも」
と悔しがる先生の代わりに、ピアノを弾きながら歌いだした。
「優雨ちゃん、リアル・アンジェラ・アキじゃん、やば」
「っふは、笑わせてないでくださいよ」
「ていうかアンジェラ・アキが現役高校生に伝わるとは思わなかった」
「お母さんが好きで、家にCDあるんです」
聴いているあいだに思い出したのかもしれない、私の歌声に、いつしか先生の歌声が重なる。かと思えば、歌詞を誤魔化すように途中から「フフフ〜」とか「ラララ〜」とか歌っている。
笑いながらも一曲を歌い終えた私たちは、その後も思いつくままに合唱曲のカラオケに興じた。いつのまにか夕暮れがせまる。
「廃校になったら、このピアノってどうなるんですか?」
「うーん。どこか別の場所に行くのかな。いや、運ぶのも大変だし、古いものだから、そのまま放置されるかも」
「それなら、私、もらえないかな」
「さすがにタダでは無理でしょ」
「ピアノの値段っていくらぐらいですか?」
「中古でも、最低何十万ってするんじゃない。それにさ、廃校になる頃には優雨ちゃんも卒業して、この島にはいないよ? ピアノ、持っていくの? 福岡だっけ、志望してる専門学校」
「ああ……たしかに」
きっと狭い単身者用の賃貸マンションに住むことになるから、到底無理だ。都会の片隅、六畳のワンルームで、グランドピアノと共に生活している自分のすがたを想像する。ピアノはひとり暮らしの部屋にはあまりに大きすぎて、インテリアというよりもはや同居人だ。巨大で動けなくて、綺麗な音を出す、芸術的な同居人。
「持っていけないけど、ここにいるあいだはせめて、たくさん弾いてあげて。いま、優雨ちゃん以外にピアノ弾けるひと、教員のなかにもいないから」
「そうですね。先生の青春の思い出の曲も練習します」
ぐっと親指を立てたところで、窓の外から声がした。
「ゆーうー!」
じゅったんの声だ。ロードワークから戻ってきたらしい。
窓から身を乗り出して下を見ると、見慣れた白いワイシャツ姿のふたりがいた。すでに着替えて、帰宅の準備万端だ。
きっとふたりとも、汗ではなく人工的なデオドラントウォーターの匂いがするだろう。鼻をすっと抜ける柑橘系の匂いが自動再生される。じゅったんが使っているほうの香りだ。
「お、そこにいたのかー。帰れるー?」
「待ってて、今行く!」
声を張り上げて返事をする。慌てて音楽室を出ようとして振り返ったら、ピアノに寄りかかっていた百合岡先生がひらひらと手を振っていた。
「戸締まりはしておくよ。じゃあ、また明日」
「はい。ありがとうございます。さようなら」
先生の影が夕暮れに滲む。




