だって、君が
「ウェンディ」
呼びかけると、アルマークの腕の中でウェンディがわずかに身じろぎした。
生きている。
「ウェンディ……ウェンディ」
冷え切った頬を何度か叩くと、ウェンディは微かに目を開けた。
「……アルマーク」
か細い返事。
「よかった」
アルマークは安堵した。
「大丈夫かい。どこか怪我をしているかい」
「闇は?」
意識を取り戻したウェンディが真っ先に気にしたのはそれだった。
「“門”を開いてから、記憶がないの。あの闇がどうなったのか分からない」
「消し飛んだよ」
アルマークは答えた。
「君がやってくれたんだ」
「そう」
ウェンディは、ほっとしたように微笑んだ。
「じゃあこれでもう、誰も傷つかなくて済むんだね」
「うん」
誰よりも一番傷ついているのは、君じゃないか。アルマークはその言葉を飲み込む。
「もう誰も傷つかないよ」
「よかった。それなら――」
ウェンディが何か言おうとした。
だが二人が話せたのは、そこまでだった。
地面の下から、何かが折れるような乾いた音が響いた。
それは断続的に響いていた地響きや爆発音に比べれば取るに足らない、小さな音だった。
しかしそれこそが、耐えに耐えた堤防が決壊する時の、最後の一音だった。
次の瞬間、周囲の景色がぶれ、アルマークはぞっとするような浮遊感に包まれた。
周りの地面だった場所が、単なる土砂となって崩れ落ちていく。
庭園を支える大樹の枝がついに折れ、地面全体が崩壊を始めたのだ。
「きゃ……」
足元の地面が崩れ、ウェンディが滑り落ちそうになる。
「ウェンディ!」
アルマークは残る力を振り絞って、ウェンディをしっかりと抱きしめた。だが二人はたちまちなすすべなく落下に巻き込まれた。
はるか下の地面へと落下していく、大量の土砂と岩石。
その中にアルマークとウェンディもいた。
ライヌルは。イルミスとフィタは。彼らの安否を確かめる余裕もなかった。
このまま地面に叩きつけられれば、助かる可能性は万に一つもない。
だが全てを出し尽くしたアルマークには、もはやどうしようもなかった。
体力も魔力も底を尽き、身体はまともに動かない。マルスの杖も相棒の長剣も、崩壊に巻き込まれてどこにいったのか分からなかった。
アルマークにはただ、引き離されることのないようウェンディの身体を抱きしめることしかできなかった。
「アルマーク」
落下していくアルマークの腕の中で、ウェンディが彼を見た。
「私たち、ここで死ぬんだね」
その目に、どこか安堵したような色があった。
「怖くないよ」
ウェンディは言った。
「あなたと一緒なら」
アルマークは言葉に詰まった。
そうか。
ウェンディにとっては、死への恐怖よりも、運命から解放される安堵の方が大きいのか。
“門”の少女。
突然告げられた、世界を左右するほどの巨大な運命。
なぜ自分がそんなものに選ばれなければならないのか。その理由すら分からないまま、いきなり抗えない渦の中に放り込まれた。
そして回り始めた運命の渦は、彼女の周りの人たちを次々に傷つけた。
クラン島で。この卒業試験で。いや、そのずっと前から。
だがウェンディは、自分の運命を強くしなやかに受け入れてみせた。
彼女が弱音を漏らしたのは、たった一度きり。学院長から自分たちの運命について伝えられた日の、ごくわずかな時間。校舎を出た後の帰り道で、アルマークの肩に顔をうずめて泣いたときだけだ。
それからのウェンディは、決して弱音を吐かなかった。
自分のためにアルマークやクラスメイト達が次々に傷ついていくのを目の当たりにしても。
自暴自棄にもならなかったし、それが自分のせいではないとも言わなかった。
運命に向き合うことから逃げなかった。
けれど、本当はずっと傷ついていたのだろう。
自分の存在そのものが、否応なく周りの人たちを傷つけていくことに。
ウェンディはその苦しみを人に見せなかった。もう自分が助からないと分かった、この瞬間になるまでは。
「もういいよね」
ウェンディは泣き笑いのような表情でアルマークを見た。
「頑張ったもの」
「ウェンディ」
アルマークはウェンディをきつく抱きしめた。やるせなさと、自分への怒り。それから愛おしさ。様々な感情がないまぜになっていた。
「一緒にいよう」
アルマークは言った。
「最後まで、ずっと」
ともに在ろう。それは二人が交わした約束だった。
「うん」
涙でくぐもった、ウェンディの返事。
地表がぐんぐんと近づいてくる。死が迫っていた。
最期まで、ともに。
アルマークはウェンディを抱きしめたまま歯を食いしばった。目を閉じたウェンディの腕にも、力がこもるのが分かった。
いきなり、アルマークたちの真下で光が弾けた。
細い、幾本もの光が噴水のように湧き上がる。
線状の光はたちまち空間を埋め尽くし、曲がりくねって一つの形を描く。
網。
まるで魚釣りに使うかのような網。
瞬時に形成された光の網は、周囲の土砂をすり抜けて、落ちてきた二人だけを正確に包み込む。
その一瞬、網は大きくたわんだが、光の繊維はしなやかな弾力で衝撃を吸収し、二人を受け止めた。
「……えっ」
何が起きたのか分からず、アルマークは周囲を見回した。
地上はすぐそこだった。生えている草の一本一本、そこに叩きつけられていく土砂や石の様子までがはっきりと見えた。
何もかもが落ちていく中で、アルマークとウェンディだけが網に抱きとめられていた。
ああ。そうか。
ようやく分かった。
アルマークは大きく息を吐き、網に身体を預けた。
そうだった。誰が助けてくれたのかなんて、考えるまでもなかった。
僕らは諦める必要なんてなかったんだ。
だって、君がいるんだから。
僕と君がいるのに、何とかならないわけがなかった。
「アルマーク?」
ようやくウェンディが目を開けた。
「これ……光の、網?」
自分たちを包む網を、呆然と見る。
「私たち、助かったの?」
「うん」
アルマークは頷く。
「そうみたいだ」
アルマークは繊細な一本一本の光にそっと触れる。
以前、放課後の補習で見せてくれたものよりも、はるかに精緻な網。
きっといつか必要になるからと、そのいつかのために磨き続けてきた魔法。
「僕らの友達が、まだもう少し頑張ってみなよって言ってる」
「……ああ」
ウェンディは吐息のような声を漏らし、アルマークと同じように自分たちを包み込む光を撫でた。
しばらくそうした後で。
「……そうだね」
ウェンディは微笑んだ。
死とともにようやく手放そうとしていた何かを、ウェンディは再び自らの意思でしっかりと握り直した。それがアルマークにも分かった。
「私は負けない」
もうその声には、いつもの彼女の前向きな力強さが蘇っていた。
「だって、この程度で立ち止まるわけにはいかないものね」
それは強く、美しい決意。アルマークの胸は詰まった。
強さは、悲しさと表裏一体だ。
強くあろうとする人は皆美しく、そして悲しい。
「うん」
アルマークは答えた。
「そうだね。僕らは一緒に歩いていくんだ」




