ファントムドラゴン
「はぁ、はぁ」
男は森の中を全速力で走る。
日は落ち、辺りはすっかり暗くなっている。夜の森を走るのは自殺行為だ。
それでも、男は止まらない。止まれば命はないからだ。
「はぁ、はぁ、はぁ」
男は後ろを振り返る。
何も追ってこない。どうやらまいたようだ
「はぁぁぁ」
男は止まり、息を整える。もうこれ以上走れそうにない。
突然、ガサガサと草陰から物音がした。
男は慌てて振り向く、落ちていた木の枝を掴み、武器の代わりにする。
「はぁ、はぁ」
男の心臓の音がどんどん大きくなる。
ガサッ。
草陰から出てきたのは、一匹のキツネだった。
「驚かすなよ」
男は、安堵の表情を浮かべる。
ガサガサとまた背後から音がした。男の背筋を寒いものが伝う。
男はゆっくりと振り向いた。また、キツネであってくれと願う男の希望は打ち砕かれた。
そこにいた生物を見て、男の顔は絶望に染まる。生物はゆっくりと近づいてきた。
「や、やめろ。来るな、来るなあああああ!」
暗い森に男の悲鳴が響く。だが、それもほんの短い間のこと。
森は直ぐに静寂さを取り戻した。
「キャー」
森の中を少女が走る。
すぐ後ろには、彼女よりも遥かに大きなドラゴンが迫っている。
そのドラゴンは飛ぶことができない。その代わりに強力な脚力を持っている。踏みつけられたり、蹴られたりしたら、命はない。
ドラゴンが少女の目の前まで迫まる。少女は恐怖のあまり目を閉じる。
「ピー」
鋭い鳴き声が聞こえた。少女は恐る恐る目を開ける。
ドラゴンに真っ黒なドラゴンが襲いかかっていた。黒いドラゴンは何度も何度も大きなドラゴンに体当たりしている。
「キー」
少女を襲っていたドラゴンは黒いドラゴンの攻撃を嫌がり、逃げ出した。
それを見届けると黒いドラゴンは少女の目の前に降りる。
「ひぃ」
少女は再び怯えた。黒いドラゴンはさっきのドラゴンほど大きくはない。大人と大体同じくらいの大きさだ。
しかし、真っ黒な体。赤い目。少女を怯えさせるには十分だった。
黒いドラゴンが少女に近付く。少女の目から、大粒の涙が零れ落ちる。
(食べられる!)
少女は、きつく目を閉じた。
ペロリ。
顔に生暖かい感触がした。少女は恐る恐る目を開ける。黒いドラゴンが、少女の涙を優しく舐めていた。
まるで、『大丈夫だよ』、『泣かないで』と言っているかのようだった。
「クロ、戻れ」
少女の後ろから声がした。真っ黒なドラゴンは声のする方に飛んで行く。
「よしよし、よくやった」
男のヒトが黒いドラゴンを撫でている。少女はその光景をじっと見る。
ふと、男のヒトと目が合う。男のヒトは笑顔で少女に近付いてきた。
「大丈夫?怪我はない?」
少女が頷くと男のヒトは、よかったと言って笑った。
「お兄さん、誰?」
男のヒトはニコリと微笑んだ。
「俺はアド、こっちはクロ」
「ピー」
『よろしくね』と言う風に黒いドラゴンが鳴いた。
「ドラゴンバンチャー?」
「ドラゴンベンチャーね」
「何をする仕事なの?」
「簡単に言えば、ドラゴンのことを調べたり、ドラゴンのことで困っているヒトを助ける仕事だよ」
「ドラゴンで困ってるヒトを?」
「うん」
この森を一人で帰らせるのは危険と判断したアドは、少女と共に森を出ることにした。近くに少女が住んでいる村があるそうなので、そこまで送っていく。
「君は」
「リン」
「え?」
「私の名前。リン」
少女は元気よく自分の名前を告げる。
「分かった。リンだね」
「うん」
「リンは、あそこで何をしていたの?」
こんな森の中で、親も連れずに少女が一人だけいるというのは明らかに不自然だ。
アドの問いにリンは俯く。何かを隠しているような感じだ。
「ワニを見に行ってたの」
「ワニを?」
予想外の答えにアドは少し驚いた。
「森の向こう側に川があって、そこにワニがいるの、大人は絶対に行ったらダメって言ってたけど、どうしても見たくて………」
「この近くにワニがいるんだ」
「うん」
「ワニが好きなの?」
「うん、お母さんがよく昔話をしてくれるから。本物がどんなのか見たくなって」
「なるほど」
子供と言うのは好奇心の塊だ。大人がするなと言っても、抑えられるものではない。まして、昔話に出てくる生物が近くにいるのなら、なおさら見てみたくなる気持ちはとてもよく分かる。
「だけど、一人で行ったらダメだよ。森は危険が多いから」
リンを襲おうとしていたドラゴンの名前は、ランナードラゴンという。
その名の通り、地面を走るタイプのドラゴンだ。翼はほぼ退化しているが、その代り、強力な脚力を持っており、一蹴りで太い木の幹もへし折ってしまう。ヒトが蹴られたら、骨などは軽く砕ける。
今の季節は、ちょうど繁殖期で、オスは気が立っている。さっきのもオスのランナードラゴンだ。
「でも、早くしないとワニが見れなくなっちゃうから」
「ワニが見れなくなる?どうして?」
アドの問いにリンは悲しそうに答えた。
「ドラゴンのせいでワニが減ってるんだって」
森を抜けると、村が見えた。
村の前には、大勢の人だかりができている。リンはその中にいた男女を見て叫んだ。
「お父さんとお母さんだ!」
少女は嬉しそうに走り出す。
「お父さん!お母さん!」
その声にリンの両親が反応する。
「リン!」
両親もリンに向かって走り出す。両親は走ってきたリンをしっかりと抱きしめた。
「どこに行ってたの!!心配したでしょ!!」
「ごめんなさい」
両親がリンを離すと、リンはアドを指差した。
「あのヒトが助けてくれたの!」
大勢の目がアドに向く。少し照れながらアドは一礼した。
「ありがとうございました!」
「いえいえ、大したことはしてませんよ」
「いえ、貴方は娘の命の恩人です!」
リンの両親は、アドに何度も頭を下げた。
「どうか、お礼をさせて下さい!是非、家で食事でも」
お礼をさせるまで、離さないという雰囲気だった。
「分かりました。ご厚意に甘えさせてただきます。あの」
「何でしょう?」
「この子にもいいでしょうか?出来たら魚などがあれば」
「ピー」
リンの両親が微笑む。
「もちろんです」
リンの家は、レンガ造りの昔ながらの家だった。
「お口に合うかどうか………」
豪華な料理がテーブルに並ぶ。こんな豪華な食事は久しぶりだ。
「ありがとうございます」
「ピー」
窓の外からクロがうらやましそうに見ている。流石に家の中に上げる訳にはいかないので、今は外に置いている。
「魚はありますか?」
「今朝、獲れたばかりのものがあります」
アドは大きな魚を一匹貰うと、窓を開け、外にいるクロに渡した。クロはあっという間に魚を頭から丸呑みにすると、その場に寝てしまった。
「お腹が一杯になると、すぐに寝てしまうんです」
アドは苦笑する。
「凄いね」
リンはドラゴンの食事を見るのは初めてだったようで、とても興奮していた。
「この子は、何にでもすぐに興味を持って、直ぐにいなくなってしまうんです。今日も朝から姿が見えなかったから、もしかして、森で迷っているんじゃないかって、村人全員で森の中を探そうとしていたんですよ。全く皆さんに迷惑をかけて………」
「ごめんなさい」
リンがシュンと落ち込む。
子供が落ち込んでいるのは、あまり見たくない。アドは話題を逸らすことにした。
「そういえば、この村ではワニの作り物が多いですね」
村のあちこちにワニの銅像が置いてあり、家の門にはワニの絵が描いてある。
「ワニはこの村の守り神ですから」
この村には古い伝説がある。
昔々、村に心の優しい少年がいた。ある日、少年は怪我をしたワニの子共を見付けた。少年はワニを手当てしてやると川に返した。
それから数年後、戦争が起こり、国は火に包まれた。この村にも何万もの敵が攻めてきた。とても勝てる数ではない。村人が諦めかけた時。
川からワニの大群が押し寄せた。ワニは村人には手を出さず、敵に喰らいついた。敵兵は逃げ出し、ワニの大群もどこかに消えてしまっていた。
「ワニの恩返しですか」
「私、その話好き」
アドの隣でリンが笑っている。
「他にもこういう話もあります」
昔々、村に心の醜い少年がいた。少年は盗みを働き、物を壊し、人を傷つけた。
ある時、川にいたワニの子供を少年は面白半分に殺した。
その日の晩、ワニの大群が少年の家を襲った。ワニは言った。
『私の子供を殺したお前を許さない。子供と同じ目にあわせてやる』
少年は、どうか助けてくれとワニに頼んだ。ワニは言った。
『村にいる者の中で、一人でもお前の身代わりになると言う者がいたら、お前を助けてやる』
少年は村中を走り、自分の身代わりになれと迫った。だが、村の誰も少年の言葉には耳を貸さなかった。
少年はワニに川の底に連れて行かれた。その日から、少年を見た者は誰もいない。
「怖い話ですね」
リンを見ると耳を塞いでいる。どうやらこの話は苦手のようだ。
「悪いことをしていると、自分に返ってくるということですね。村では子供が悪いことをすると、ワニに連れて行かれるといって躾けるのが、昔からのやり方なんです」
「それは怖い」
アドは差し出されたお茶を一杯飲む。
「ところで、リンから聞いたのですが、最近ワニの数が減っているとか」
「はい」
「それが、ドラゴンのせいであるとも聞いたんですが」
リンの母親が答える。
「私は見たことはありませんが、何人かが、ドラゴンがワニを襲っているのを見たとか……」
「ドラゴンがですか?」
アドは考え込む。そんなアドを見て、リンが口を開いた。
「お兄ちゃん、ドラゴンバンチャーなんだって」
「ドラゴンベンチャーね」
「ドラゴンで困ってるヒトを助けてくれるんだって」
リンは輝く笑顔をアドに向ける。
「ねぇ、お兄ちゃん。ワニを助けて」
リンの両親は、慌ててリンを止める。
「ちょっと、何言ってるの……。そんなの迷惑でしょう!」
「いいですよ」
「え?」
「正式な仕事の依頼なら、お受けいたします」
「いえ、その……、確かにワニがいなくなるのは悲ししいですが、家に依頼するようなお金はありませんし……」
話を聞いていたリンが突然、立ち上がる。そして自分の部屋に戻ってしまった。 少しすると、小銭が入った貯金箱を持ってきた。それをアドに渡す。
「これでワニを助けて!」
「何言ってるの……、それっぽっちのお金で……」
アドはリンから貯金箱を受け取る。
「その依頼、受けましょう」
アドは、依頼を完遂するためにリンの家を後にした。