第15章 楓2〜打ち明け話〜
2学期の始まり。
ケイジのお母さんから華月の記憶が戻ったという知らせを受けて、わたしはあの高架橋の下で佇んでいた。どんな顔をして華月と向き合えばいいのか、心の準備ができずにいた。
9月になっても、夏の暑さは容赦なくわたしを包み込む。日陰を探しながら見上げた高架橋に、華月の影を求めた。同級生たちとの挨拶を交わしているうちに、携帯が震えた。
「ごめん、今日は休むね。昨日の雨で風邪ひいたみたい」
雨?昨日は晴れていたはずなのに。
ケイジのお母さんの話では、日勤を終えた後、ケイジの世話をして帰宅したのは午後十時頃。その時、家の前でうずくまっていて、靴も履いてなかったという。わたしが高架橋の手前で見送ったのは夕方だったのに。あの数時間に、いったい何があったのだろう。
一人で学校に向かう自転車の上で、わたしの心は重かった。
やがて、あの交差点が見えてくる。いつ通っても胸が苦しくなる、あの場所が。
1ヶ月前、7月26日のことが蘇る。
「これから、オープンキャンパス行ってきます」
華月からのメッセージで目を覚ましたわたしは、二人の帰りを待ちながら家で過ごしていた。
福岡と神戸の大学から届いた資料を眺め、病院で指導されたリハビリメニューをこなす。汗ばんだ肌に、夏の風が心地よかった。
県外の競技仲間たちからたくさんのメッセージが届く。あの日はちょうどインターハイ真っ只中で、女子100mも午前中が予選で、午後がタイムレースだった。きっと会場で、競技仲間たちがわたしのことを気にしてくれたんだろう。
「どこか決めた?」
「いっしょにやろうよ!」
そんな仲間たちのメッセージが、この大会を諦めたわたしには重荷だった。
「12:37分着で帰るよ」
華月のメッセージを受けて、わたしは駅へ向かった。制服姿の二人を迎えたとき、私服のわたしだけが浮いていることに気づく。まあ、気にはしないけど。
「お昼、食べに行こうよ。そこで話を聞かせて!」
いつもの洋食屋さんへと足を向けた三人。
華月とケイジは、オープンキャンパスでの体験を生き生きと語ってくれた。血圧測定の実習、赤ちゃん人形での育児体験、優しい先輩たちとの交流。充実した一日だったようだ。
特にケイジの瞳は希望に輝いていたのに、華月の表情には雲がかかっていた。
「華月、どうしたの?」
「先輩たちは優しくて緊張もほぐしてくれたんだけど...わたし、やっていけるのかな」
「心配すんなよ、俺もいるんだし」
ケイジの言葉が華月を包む。
「ケイジ、男の子って他にもいるの?」
「午前の部にはいなかったけど、午後の部に数人いるって聞いたよ」
不安そうな華月をからかってみたくなった。
「いやあ、華月に注射してもらうこと考えると、怖くてしょうがないわぁ」
「もう、余計心配になるじゃない」
「そうだな、俺も不安だ」
「何よ!ケイジまで!」
三人の笑い声が店内に響き、ハンバーグの味が格別に美味しく感じられた。
「楓はどうするんだ。福岡と神戸の大学だっけ?」
ケイジの問いかけに、わたしは軽く答える。
「そうだね〜、ホークスかタイガースかっていえば、うちは阪神ファンだからねえ」
「え?そんな基準で選ぶの?」
華月の真剣な反応に、思わず笑ってしまう。
「冗談よ。まあ、阪神ファンなのは本当だけど、今年も優勝間違いなしでしょ!」
「野球の話はもういいから!」
「香川とか徳島の子たちからも誘われてるのは神戸の大学なんだ」
「へえ」
二人の相槌が温かい。
「でも、競争も激しいし...今のこの足で、やっていく自信がまだ持てなくて」
「楓ならきっと大丈夫!」
華月の真剣な眼差しが、わたしの心に染み入った。
食事を終えて、わたしたちはあの交差点に差しかかった。ケイジはパンフレットを広げたまま、華月と熱心に話し込んでいる。その様子が微笑ましくて、わたしは少し距離を置いて歩いていた。
信号待ちで、ケイジは点字ブロックの上で立ち止まった。華月がその後ろに立ち、振り返ってわたしに声をかけてきた。
「あ、足大丈夫?」
優しい気遣いが胸に響く。
「大丈夫、大丈夫。痛くて遅れたわけじゃないよ」
その時、遠くでガシャンと金属の響きが聞こえた。次の瞬間、ケイジが鬼気迫る表情で華月を突き飛ばした。
勢いよく転んだ華月に目をやった直後、目の前を車が駆け抜けた。鈍い音とともに、ケイジの体が宙を舞う。
わたしは華月の後ろで、膝から崩れ落ちた。車はカーディーラーのショールームに突っ込んでいる。ケイジを探そうとしても、足に力が入らない。
「ケイジ!...ケイジ!」
華月を見ると、華月は石のように固まっていた。頭から流れた血を見つめたまま、まるで時が止まったように。
四つん這いで華月のもとへ這い寄る。
「華月!大丈夫!?」
返事はない。その瞳は虚空を見つめている。
「ケイジ!」
ケイジを確認しようと辺りを見ると、何人かの男性が運転手を取り押さえているのが見えた。
「高校生がはねられた!」
誰かの叫び声。ケイジの足が見えた。かすかに動いているように見えたのは、わたしの願いだったのかもしれない。華月を抱いたまま、わたしは震えることしかできなかった。
女性たちがわたしたちに駆け寄り、誰かが華月の傷をハンカチで押さえてくれている。やがて、救急車とパトカーのサイレンが近づいてきた。
「男の子を先に!」
一台目がケイジを運び、わたしと華月は二台目に乗った。
ケガのなかったわたしは、病院のロビーで警察や両親に事故の詳細を話した。二人のために、しっかりしなければ。必死にその思いで自分を支えていた。
ケイジのお母さんは、看護師としてこの病院で働いていた。
「華月ちゃんは大丈夫。おそらく解離性健忘...精神的ショックによる記憶障害だと思う。でも、ケイジは...意識が...」
「おばさん...」
わたしはケイジのお母さんと寄り添い、涙を流した。そこへ華月のお母さんが現れた。
「楓ちゃん、大丈夫?華月は受け応えできるようになったの。会ってもらえる?」
「はい!すぐ行きます!」
振り返ると、華月のお母さんがケイジのお母さんにすがって崩れ落ちる姿があった。
華月は軽い手当で済んだものの、頭部への衝撃のため検査入院となった。病室で横たわる華月のそばには、華月のお父さんが付き添っていた。わたしを見た華月のお父さんが立ち上がる。
「華月は事故のこと、覚えていないようなんだ。うまく合わせてあげてくれるかい?」
小声でそう告げて、その場を離れた。
わたしは華月のそばに腰を下ろした。華月は天井を見つめている。
「華月、大丈夫?」
声をかけると、ゆっくりとこちらを向いてくれた。
「あ、楓...うん、ちょっと痛い...どこでぶつけたのかな?」
「え?」
「今日、二人でご飯食べて、それからどうしたっけ?」
「...二人?...」
会話を重ねるうちに、華月は事故だけでなく、ケイジの存在そのものを忘れてしまっていることが分かった。
華月が再び眠りについたとき、わたしは両親とケイジのお母さんに、華月の記憶の状態を伝えた。
ケイジのお母さんが静かに口を開く。
「多くの患者さんを見てきたから、覚悟はできている。ケイジはこのままだと思う。華月ちゃんが普通の生活に戻れるなら、楓ちゃん、土岐さん、華月ちゃんの周りからケイジに関するものを取り除きましょう」
「命の恩人のことを、このまま忘れていろというのですか」
華月のお父さんの声が震えていた。
「華月のことは、わたしがちゃんと見守ります。学校でのことはお二人にお伝えします。もし記憶が戻るときは、わたしが全て華月に話します」
わたしはそう約束して、ケイジのお母さんと一緒に華月の両親を説得した。この時、わたしは華月のそばにいるために陸上を辞めると心に決めた。この時…そう言うと、わたしたち三人はあの砂場でのことを思い出すだろう。それもたしかにある。でも、華月を大切だと、胸の奥から込み上げるほど強く想うようになったのは、紛れもなくこの瞬間だったんだ。
その夜、華月のスマホからケイジとの思い出を一つずつ消去した。翌日、華月の部屋に向かい、わたしの知る限りのケイジに関するものを、華月の両親と一緒に片付けた。
8月中、華月は何事もなかったように夏休みを過ごした。お盆にはお母さんの実家で過ごし、補習にもいつもと変わらない様子で参加していた。わたしはその日の帰り道、華月を追いかけて一緒に帰ったのだった。
新学期の始業式を迎え、放課後、わたしは華月の家を訪れた。
記憶の戻った華月に、全てを打ち明ける日が来たのだ。華月のお母さんが出迎え、華月の部屋へと案内してくれた。
「華月、調子はどう?」
「だいぶいいよ。来てくれてありがとう。やっぱり楓の顔を見たら安心した」
「華月、これまでのこと、全て話すから。大丈夫?」
「うん、大丈夫。もう逃げない」
わたしは一から全てを華月に語った。話すうちに、涙がポロポロと頬を伝った。華月がベッドから降りて、わたしを抱きしめてくれる。
「ごめん、華月...」
「ううん、楓は何も悪くない。わたしのために、ありがとう...」
わたしたちはお互いの温もりを感じながら、涙を流し続けた。
最後に、華月がささやくように言った。
「わたしはもう大丈夫だから。わたし、ケイジが目指していた看護師になるために看護専門学校へ行く。だから楓も、陸上を諦めないで」
「うん...わかった」
わたしは、神戸の大学へ行くことを決めた。




