第14章 ケイジ2〜届かぬ声〜
カヅキちゃんが突然、家を飛び出した――。
あの絶叫が耳に残っている。部屋の空気を引き裂くような、魂の奥底から絞り出されたような声。何かを思い出したんだ。きっと、とても辛い何かを。
俺はすぐに後を追って、玄関を飛び出した。
共用廊下に出ると、外灯の光が薄暗い影を作っている。そこでうずくまったはずなのに、姿がない。
「カヅキちゃん!どこ行ったんだよ!」
声が夜空に吸い込まれていく。返事はない。風の音だけが聞こえる。
階段を駆け下り、住宅街を見回す。街灯の下、電柱の陰、駐車場の隙間。どこにも彼女の姿は見えなかった。
交差点まで走る。左右を見回す。人影はない。公園に向かう。ブランコが風に揺れているだけ。坂道を上がって見下ろす。車のライトが遠くで光っているだけ。
あちこちを走り回って探した。息が切れて、汗が額を流れる。けれど、彼女の姿はどこにもなかった。
まるで最初からいなかったかのように。まるで夢だったかのように。
立ち止まって、夜空を見上げる。雨上がりの空、星がいくつか見えるけれど、雲に隠れてぼんやりしている。
「あっちの世界の俺とあの子にはいったい何があったって言うんだ?」
でもそんなことより、あの子の泣き顔、思い悩んだ顔、笑った顔が俺の頭の中を占領している。
一緒に卒業アルバムを見て笑ったこと。記憶の違いを面白がって話し込んだこと。コーラを飲みながら、自動販売機の前で立ち話をしたこと。些細なことばかりなのに、どれも鮮明に覚えている。
そして、あの最後の表情。何かを思い出して絶望に染まった顔。
あの子は、何を背負っていたんだろう。
「好きだってこと、言いたかったな......」
夜の街に、ぽつりとつぶやいた。言葉が宙に浮かんで、そのまま消えていく。
もう二度と会えないかもしれない。もう二度と話すことができないかもしれない。そう思うと、胸の奥が痛んだ。
家に戻ると、彼女の靴が残っていた。
玄関の隅に、ちょこんと置かれた小さなスニーカー。確かにここにいたのだ。俺の家に来て、俺の部屋で笑っていたのだ。夢じゃなかった。
靴を手に取る。まだ温もりが残っているような気がした。彼女の足跡がそこにある。彼女が確かに存在していた証拠。
彼女の靴を持って、部屋に入り棚の奥に隠した。いつか返せる日が来るかもしれない。そんな淡い期待を込めて。
そして夏月に電話した。
「ああ、ごめん何度も、さっきの話、お泊まりの件、うん、なかったことに」
「どうした?大丈夫か?何があった?」
夏月の心配そうな声が聞こえる。でも、どう説明すればいいんだろう。別の世界から来た女の子と出会って、恋に落ちて、そして突然いなくなった、なんて。
「ああ、大丈夫、大丈夫、楓のそばにいてやんなよ、じゃあな」
「ケイジ——」
電話を切った。夏月の声を最後まで聞いていたら、きっと泣いてしまいそうだった。
風呂に入って、熱いお湯に身を沈める。湯船の中で、今日のことを反芻する。彼女の笑顔、困った顔、そして最後の絶叫。すべてが鮮明で、でも同時に夢のようでもある。
歯を磨きながら、鏡の中の自分を見る。いつもと同じ顔なのに、何かが変わった気がする。たった数時間の出会いだったのに。
母さんに夏月の都合が悪くなったとメッセージを送って、寝床についた。布団に潜り込んで、天井を見上げる。
「あの子はもとの世界に帰ったんだ。実際はこの世界にはいない子だ」
そう何度も言い聞かせて眠りにつこうとする。でも、眠りにつく前に、彼女の声が頭の中に何度も何度も響いていた。枕を濡らすって、こういうことか…。俺は誰にも見せない涙を流した。
あれからひと月半が過ぎた。
夏休みになり、ある程度歩けるようになった楓と夏月と、また三人で会うようになった。楓の回復は順調で、松葉杖なしでも歩けるようになっている。
「リハビリ、二人にだいぶ付き合ってもらったから」
楓が照れながら言う。夏月がその横で嬉しそうに笑っている。
これでもたまには気を使って夏月と楓を二人にすることだってある。カフェで「ちょっとトイレ」と言って席を外して、実際は外で時間を潰したりする。
夏月と楓が付き合い始めたことを、俺は誰よりも喜んだ。
「前から思ってたけど、お前ら、絶対お似合いだよ」
本当にそう思う。夏月の優しさと楓の強さが、互いを補い合っている。見ているだけで微笑ましい。
でも同時に、少しだけ寂しさも感じる。消えた彼女のことをどうしても考えてしまう。
それより二人に打ち明けることがある。
「......俺、看護師になろうと思ってる」
「へえ、マジで?」
夏月が嬉しそうに笑う。その表情に、昔からの友達らしい理解がある。
「うん。母さんの背中、ずっと見てきたからな。今度オープンキャンパスに参加してみるよ」
母さんの働く姿を見て育った。夜勤で疲れて帰ってくる姿も、それでも患者さんのために頑張る姿も。そして、カヅキちゃんと話したあの日の会話も、この決意を後押ししている。
「俺も行くよ!」
夏月が突然言う。
「夏月も興味あるの?」
楓がたずねた。
「多分俺、ずっとケイジに憧れがあったんだよ。それに楓のリハビリに病院へ通うたびそう思うようになったんだ。だから俺も一緒にやってみたい」
照れてる俺をニカッと見つめる夏月、その夏月を微笑んで見つめる楓。
三人の間に流れる空気が温かい。こんな風に、お互いを支え合えることの幸せを感じられるなんて。
俺と夏月はオープンキャンパスに一緒に行く約束を交わして別れた。
その後、オープンキャンパスに申し込みをして、準備をして、看護専門学校までの公共交通機関もちゃんと調べた。パンフレットを取り寄せて、必要な科目を確認して、受験対策も始めた。
でも、あの子のことを考えないなんて日は結局なかった。
朝起きるとき。補習に行く途中。友達と話しているとき。夜眠りにつく前。いつも彼女のことが頭をよぎる。
彼女は今、どうしているんだろう。あの絶叫の後、何があったんだろう。元の世界で、ちゃんと生きているんだろうか。
この世界に来たのは、あの子が向こうの俺を思い出すためのきっかけの現象に過ぎなかったんじゃないか。
そんな風に考えるようになった。彼女が記憶を失って、それを取り戻すために、別の世界の俺——つまり俺——と出会う必要があったんじゃないか。
なぜそんなことが起こるかなんて科学的に一向にわからない。世界が重なったり、人がその世界間を移動したりするなんて、普通に考えれば不可能だ。でも、実際に起こった。俺の目の前で、俺の心の中で。
ただ、もうあの子が現れることはないんだな。
そう思うと、寂しさが胸を締め付ける。でも同時に、彼女のために俺ができることがあるとも思う。
看護師になること。人を助ける仕事に就くこと。それが、彼女との出会いが教えてくれたことなのかもしれない。
棚の奥に隠した彼女の靴を、時々取り出して眺める。小さくて、よく歩いた跡がある。この靴で、彼女は俺のもとにやってきた。そして、この靴を残して去っていった。
「カヅキちゃん…」
名前を呼んでみる。返事はない。でも、心の中で彼女の声が聞こえるような気がする。
靴を棚に戻した。
彼女がくれた想いを胸に、俺は歩いていこう。看護師という夢に向かって。人を助けるという使命に向かって。
いつか、どこかで、また会えるかもしれない。その時まで、俺は成長していよう。彼女に恥じない人間になっていよう。
そう心に誓って、俺は明日への準備を始めた。




