第11章 夏月と楓2〜雨のデート〜
6月6日…もうすぐ梅雨入りだろうか、先取りしたように雨が降っていた。
楓は大会翌日から両親の送迎で登下校していた。校門で車から降りる楓の姿を見かけるたびに、松葉杖をついた小さな背中が俺の胸を締めつけた。声をかけたいのに、いつも人が多くて、結局遠くから見守ることしかできなかった。
そんなわけで数日、会うには会っていたが、二人きりになるチャンスはなかった。教室では他のクラスメイトが楓を気遣って話しかけているし、休み時間も陸上部の後輩たちが心配そうに様子を見に来ていた。楓はいつものように明るく振る舞っているけれど、時々見せる疲れた表情を、俺だけは見逃さなかった。
今日、楓は1日かけて病院で検査をするため欠席していた。
俺は放課後、電車を乗り継いで、彼女に会いに行くことにした。
メッセージの向こうじゃ楓は明るく振る舞ってくるし、好きだってことは直接伝えたかった。あの不思議な体験をしてから、時間の大切さを痛感していた。向こうの世界では楓がもう引退していたように、こちらの世界でも楓は引退を決意しているのかもしれない。そんなときだからこそ、俺は楓のそばにいてやりたいと心から思っている。
緊張しながら、席が空いているのに、窓際に立って電車に揺られていた。外の景色は雨に煙って見えて、車窓に映る自分の顔も曖昧だった。手すりが汗ばんだ手のひらで少し滑る。告白なんて、人生で初めてのことだった。
大会でのことは、ある程度、陸上部員から聞いていた。
秋の大会のケガのこともあり、今年は100mに絞って予選と決勝を走った。楓は本当は400mリレーにも出たがっていたらしいが、顧問の先生に止められたそうだ。「無理をして選手生命を縮めるより、確実に全国を狙える種目に集中しろ」と言われて、泣く泣く個人種目だけに絞ったと聞いた。
そして決勝まで残った楓は、2年の時に出した記録を更新して、見事に県記録で優勝した。陸上部員の話では、ゴール直前の楓の表情は鬼気迫るものがあったという。まるで何かに追いかけられるように、必死で走っていたそうだ。
しかし、ゴール直後に楓は脚に激痛を覚え、大会中に病院へ直行したそうだ。
懸けていた全国大会への出場を掴んだものの、主将として、最後まで会場にいて責任を果たしたかったそうだけど、全国で走ることができる可能性を確かめるために、顧問に早く診てもらうようにと勧められたらしい。後輩たちに申し訳ないと、楓は何度もメッセージでも言っていた。「主将なのに、最後まで応援してあげられなかった」と。
何を持って行っていいかわからなかったから、3年生の時3人で一緒に行ったロックフェスで大好きになったバンド「RADIANCE」のライブDVDを選んだ。あのフェスの時、楓は一番前で飛び跳ねていて、汗だくになりながら手を振っていた。ケイジと俺は少し後ろで、そんな楓を見守っていた。まあ、終わりの方では俺も大興奮で拳を突き上げていたんだが…。帰り道、楓は「また来年も一緒に来ようね」って言っていた。しかし、楓はインターハイだとか、通信制大会だとか、強化合宿だとか大忙しで、結局フェスには行けていない。
「いいじゃん、それ。喜ぶよ」
ケイジがそう言って、背中を押してくれた。
「楓、そのバンドの新曲もずっと聞いてるし。きっと思い出話で盛り上がるって」
家で着替えて、駅へ向かう。いつものTシャツとジーンズじゃ失礼かと思って、父親のクローゼットから白いシャツを借りた。鏡で見ると、なんだかいつもと違う自分がいて、少し大人びて見えた。
「制服のまんまで、よかったくらいだな」
と、恥ずかしくなってきた。誰も気に留めないのに。
雨は億劫だなと歩き、いつもの高架橋への坂道に差しかかる。傘をさしていても、風のせいで雨が横から吹き込み靴が濡れてくる。足音が妙にぺちゃぺちゃと響いて、緊張がさらに高まった。
高架橋の上、そこにケイジが傘をさして突っ立っていた。
「何してんの?」
「よう、これから行くんだろ?」
彼はいつもの人懐っこい笑顔を浮かべていたが、どこか心配そうだった。
「なんでここに?」
「いや、なんとなく。ここにいれば会えると思ったし」
俺にか?まあケイジらしい気遣いなんかな。俺たちはいつものように走る車の音に負けないように少し声を大きくして、他愛もない話をした。楓の好きな花の話、病院の場所、帰りの電車の時間。まるで作戦会議のようだった。
俺はケイジと別れ高架橋を下った。 振り向くと、ケイジが傘を振って見送ってくれていた。 がんばれって、言ってるみたいだった。 手を振り返すと、ケイジはふと何かに気づいたように動きを止め、そのまま背を向けた。
ぼんやりだが二人いるように見えた。
「誰だ?…ま、いっか」
かまわず病院へ急いだ。少し雨が強くなった。
今は楓のことだけを考えよう。
郊外電車と路面電車を乗り継いで、ようやく病院にたどり着いた。古町駅で乗り換えるのに、松山市駅まで乗ってしまった。そのせいで予定より15分程度遅れてしまった。病院の入り口で靴の裏を拭き、髪を手で整える。心臓の音が聞こえそうなくらい緊張していた。
メールで確認した検査室の前で待っていると、松葉杖の楓と、それを支える彼女のお母さんが現れた。楓はいつものジャージだった。けれどいつもと違って少し頼りなく見えた。
「あら、夏月くん。久しぶりね」
「こんにちは。た、大変でしたね…」
声が震えてしまった。
「ごめんねえ、心配かけて。あっ、そうだ。ちょっと買い物行ってくるからお願いできる?」
楓のお母さんは、そっと俺たちを二人きりにしてくれた。きっと察してくれたのだろう。感謝の気持ちで胸がいっぱいになった。
俺は楓を支えながら尋ねる。
「どうする?」
「この病院、2階にカフェがあるよ」
楓の声はいつもよりトーンが低かった。検査で疲れたのかもしれない。
病院の2階にあるカフェは、平日の夕方ということもあってほとんど人がいなかった。ロイヤルミルクティーを頼み、窓際の席に着いた。外の雨は少し強くなったようで、ガラス窓を叩いている。
「検査、どうだった?」
「まだ詳しい結果は出てないけど…」
楓は松葉杖を壁に立てかけながら答えた。
「でも先生の顔を見てると、あまり良くないのかなって」
「そんな...」
「大会の日、何があったの?」
「え?」
「いろいろあったって聞いたけど」
楓の目が心配そうに俺を見つめていた。
「ああ......どう話せばいいかな。信じてもらえないかも」
「なによ、夏月の言うことなら信じるよ」
楓の声には、いつもの温かさがあった。
俺は一昨日からの出来事を、順を追って話し始めた。
俺の家を自分の家だと主張してきた女の子のこと。名前まで同じ「カヅキ」だったこと。 着替え中に鉢合わせたのは、さすがに省略したけど...。 ケイジの顔を見て彼女が泣いたこと、そのまま消えてしまったこと。 そして今度は俺が、彼女の世界に迷い込んだこと。 その子は髪の長い楓と仲が良くて、俺たちと同じようにロックフェスでの写真を撮っていたこと。
話していくうちに、楓の表情がだんだんと真剣になっていく。眉をひそめて、時々「うんうん」と頷きながら聞いてくれていた。
その世界では自分のスマホが繋がらなかったり、小銭が使えなかったりしたこと。 借りた電話でかけたケイジの電話番号がまったく知らない人につながったこと。 公園で途方に暮れていた時に、気づけば戻っていたこと。 ――そして、楓の大会に間に合わなかった理由がそれだということ。
楓は疑いもせず、じっと耳を傾けていた。時々、ロイヤルミルクティーに口をつけながら、一言も漏らさないように聞いてくれていた。
「それって......まるでなんとかワールド!」
「パラレルワールド?」
「そう、それ」
楓の目が輝いた。
「SF小説とかでよくあるやつ。でも現実に起こるなんて...」
「でも不思議なんだよな。向こうはもう真夏だった。 楓の髪も今より伸びてて……その、もう…」
楓の表情が少し曇った。
「うん、わたし引退するよ。全国も棄権する」
「えっ......?」
「もう、いいの。この夏はもっと大切な思い出づくりしたいの」
楓はまっすぐに俺の目を見て、そう言った。その瞬間、カフェの中の時間が止まったような気がした。
真っ赤になって、目を逸らしたくなった。だけど――俺は言わなきゃって思った。今を逃したら、きっと後悔する。
「あの!」
二人の声が重なった。でも......先に言うのは、俺だ。深呼吸をして、手に汗をかきながら、でも真っすぐに楓を見つめた。
「俺......ずっと楓のことが好きだった。 だから......だから一緒に、この夏の思い出を作りたい!」
「うん! わたしも! うれしい......」
気づけば、ロイヤルミルクティーを挟んで、手を取り合って笑っていた。楓の手は少し冷たくて、でも確かに温かかった。 そうやって向かい合って、笑い合っていた……泣いていたかもしれない。二人ともよくわからない表情をしていたと思う。
「わたしはね、あの時から夏月が好きだったよ」
また出た――「あの時」。 ケイジも楓も、よく言う「あの時」。
あの公園の砂場のことだろう。あの場を収めたのは楓じゃなかったのか。
「なんで?」
「いじめられてたケイジを、夏月が守った時。かっこよかったよ」
――記憶にはなかった。 正直、言われてもピンと来なかった。
でも...... 俺は、何の力もない普通の奴だけど、 楓のことも、ケイジのことも、これから先、全力で守りたいと思った。
「楓」
「何?」
「俺、陸上を諦めてほしくない。ずっと支えたいし、応援したい」
楓は少し驚いたような顔をして、それからゆっくりと微笑んだ。
「ありがとう。もちろん、脚が良くなったらまた走る!でもね、残りの高校生活は夏月と一緒に、走る以外の青春を楽しみたいの」
雨はまだ降り続いていたが、カフェの中は温かかった。俺たちは手を繋いだまま、これからの夏のことを話し続けた。
海に行こう、花火大会も見に行こう、そしてロックフェスにも参加しよう。
ケイジ…やったぜ。




