第10章 華月と楓4
わたしの中でぽっかりと抜けていた記憶には、彼、そう、あのカヅキくんと一緒にいたケイジくんがいるはずだった。
さっき楓と話した砂場の思い出、看護師になる夢を語り合った記憶、高架橋での長い会話......全ての断片が、一人の男の子を中心に回っているのに、その人の顔だけがぼやけて見えない。まるで写真にモザイクがかかっているようだ。
楓との会話の中で、なんとか思い出そうとしても、肝心な部分だけがすっぽりと抜けている。
ケイジくんに違いないはずなんだ。
でも、それ以外の記憶が曖昧で、つかもうとするとするりと手の中から滑り落ちてしまう。まるで水を掬おうとするような感覚だった。
――なぜ、わたしはケイジという男の子を忘れているの?
「もういいかな?」
楓がそう言ったのが聞こえた。そして、
「会いに行ってみようか?」
――なんて? 言葉の意味がすぐには飲み込めなかった。
楓は、何かを決意したような強さがあった。でも同時に、わずかな迷いも感じられた。
楓は立ち上がり、誰かと携帯で連絡を取り合い、やがてわたしの手を取って、 「行こう」 と小さく呟いた。
わたしの手を握る楓の手は、いつもの力強さはなかった。緊張感、それとも不安感なのか、わたしにもその気持ちが伝染して、胸がドキドキと騒ぎ始めた。
わたしたちは駅まで歩くと、郊外電車と路面電道を乗り継いだ。
いつもなら会話を弾ませていた電車での時間も、今日は重苦しい沈黙が続いた。楓は窓の外を見つめたまま、何かを考え込んでいる。わたしは楓の横顔を見ながら、聞きたいことが山ほどあったけれど、どこから聞いていいのかわからなかった。
わたしは何も聞けなかった。 楓は何かを知っていて、わたしは知らない。いや、きっと忘れてしまっているのだ。
電車の窓に映る自分の顔を見ながら、ふと思った。楓が秋の大会でケガのせいで負けた時、この夏の大会で全国大会を諦めなければならなかった時、わたしは何をしてあげられたんだろうか。楓はわたしの知らないところで、ずっとわたしのために悩み続けていたのかもしれない。
路面電車が走る街の風景は、見慣れた松山の景色だった。今日はおかしな違和感は感じられない。
「赤十字病院前」で降りた。
ここは、楓が脚を痛めたとき、検査や治療をしていた病院だ。わたしも来たことがあるはずだ。
病院の白い建物を見上げた時、足がすくんだ。何かとても大切なことが、この中で起こったような気がする。楓がわたしの手を軽く握って、「大丈夫?」と声をかけてくれた。
病院のロビーへ入り、楓は再び携帯で誰かと話していた。
「華月が来てくれたんです」
楓が話す声がそう聞こえた。
相手は誰なのだろう。楓の表情は真剣で、重要な話をしているようだった。
「わかりました。ありがとうございます」
楓が電話を切った後、わたしたちは無言でエレベーターに向かった。病院特有の消毒液の匂いで、より緊張感を増す。
エレベーターに乗り、何階だったか覚えていないけれど、長い廊下を抜けていく。病院の独特な静けさが、どこか現実感を失わせていた。
廊下を歩きながら、足音だけが響いている。他の患者さんや看護師さんとすれ違う度に、わたしの心臓は早鐘を打った。この病院にいる理由、会いに行く人のこと、全てが曖昧なまま歩き続けている不安。
「今日は顔色いいよ」
看護師さんが微笑みながら楓に話しかける。
楓と看護師さんが知り合いのようで、楓は「ありがとうございます」と丁寧にお辞儀をした。楓がここによく来ていることがわかった。
部屋の入り口にあったネームプレートに、知っている名前が見えた気がした。 だけど、それが誰の名前だったのか、すぐに記憶から滑り落ちていく。
「石川」という文字が見えたような気がしたけれど、確信が持てない。まるで目の前に霞がかかったように、文字までがぼやけている。
病室の扉が開いた瞬間、時間が止まったような感覚に襲われた。
「華月が来たわよ」
楓がそう声をかけた先には――
いくつもの機械に囲まれ、何本ものチューブにつながれた男の子が、ベッドに横たわっていた。
心電図のモニター音が規則正しく響いている。点滴のチューブ、酸素マスク、様々な医療機器......まるでSF映画のような光景だった。
男の子の目、その目は開いていたけれど、どこも見ていなかった。 何も見えていないように、ただ虚ろに、遠くを眺めていた。
でも――その目は、わたしがよく知る目だった。
優しくて、少し内気で、でもとても真っ直ぐな目。看護師になりたいと夢を語っていた時の、輝くような瞳。高架橋で将来について話していた時の、真剣な表情。
記憶にある光景の一つが一気に迫ってきた。わたしは恐ろしくなり、その記憶にある光景が鮮明になることを拒んだ。いや強制的に自分の感情で覆い隠した。
「あ、あ、あ、ああああああっ」
わたしは崩れ落ちるように泣き出した。
膝から力が抜けて、その場にしゃがみ込んでしまった。涙が止まらなくて、息ができなくて。
苦しくて、悲しくて、どうしようもなかった。
あの男の子との思い出、あの交差点での会話、そしてその後……全てが鮮明に蘇ってきそうになった。わたしは必死で拒絶してしまったのだ。
「どしたの?華月!......すみません!まだ早かったみたい!」
楓が誰かに謝る声が聞こえた。
看護師さんか、お医者さんか、誰か女性と楓が慌てて話している声が遠くで響いている。
わたしはそのまま楓にすがりついて、声をあげて泣いた。
楓の温もりだけを頼りに、自分の体を預ける。楓の手がわたしの背中や頭を優しくさすってくれる。
そしてわたしは別の思い出を覆い被せていく。
ああ、あの時、楓と競技場の外でばったりあった時、この逆だったよね。わたしが慰めの言葉を取り繕うとした時、楓は私の胸に顔を押し当てて、肩を揺らしていた。ずっと強がっていた楓の緊張の糸が急に切れたようだった。あんなふうな楓は初めて見た。わたしはただただ、楓を抱きしめた。そしてその光景はやがて、フェードアウトしていった。
それから、どうやってその病室を出たのか、どう歩いたのか――何ひとつ覚えていない。
楓に支えられながら、ふらふらと歩いていたような気がする。電車に乗ったことも、駅で降りたことも、全て夢のようだった。
ふと我に返ると、いつの間にか自宅最寄りの駅のホームのベンチだった。 わたしは楓にもたれかかっていた。
夕方の駅のホームは、いつもと変わらない日常の風景だった。行き交う人々、電車の音、アナウンス......さっき何があったんだろう。
涙の跡が頬に残っている。胸の奥の痛みも微かに残っている。
「華月、帰ろうか」
楓がほっとしたように言った。 まるで、何もなかったかのように。
楓の表情を見ると、さっきまでの重い雰囲気が嘘のように、いつもの明るい笑顔に戻っていた。
「楓、わたし...さっき誰かに会ったよね?」
「何のこと?華月、なんか夢でも見た?」
「病院に行ったような...」
「うん、わたし脚を診てもらったじゃん。付き合ってくれてありがとうね」
そう言って、楓はサポーターを巻いてある足首を見せながらいつもどおりに微笑んでくれた。
確かに楓のかかりつけの病院だったけど、そんな理由であの病院へ行ったのだろうか?
でも、楓の表情があまりにも自然で、わたしの方が混乱してしまった。本当に夢だったのだろうか。
わたしたちは歩いて駅から高架橋の手前まで帰ってきた。
楓は高架橋への坂道に差しかかる前に、左折して帰るので、いつもはそこで別れる。
「大丈夫? 家まで一緒に行こうか?」
「ううん、もう大丈夫。ありがとう。」
「明日から新学期だよ。朝、ここで待ってるからね」
「うん、じゃあね」
楓と別れて坂道を登る。
一人になった途端、静寂が降りてきた。さっきまでの出来事が本当にあったのか、それとも幻だったのか、もうわからなくなっていた。
高架橋の坂道をとぼとぼ登っていくと、空からは細かい雨が降り出していた。 ――今日って、晴れだったよね? 今、こんな状態でも朝の天気予報は覚えていた。
でも今、確実に雨粒が頬に当たっている。暑かった空気が一気に下がっていく感覚を覚えた。高架橋の上に、一つの傘が見えた。
傘をさした誰かが、こちらにくるりと向き直る。
その瞬間、心臓が止まりそうになった。
あ!――君は!?
彼はとても驚いた顔でわたしを見ていたけれど、やがて傘をそっと差し出してくれた。
その優しい仕草、その表情、その佇まい。全てが記憶の中の男の子と重なった。
わたしは彼の顔を見て言った。
「なんでだろう?ずっと会いたかった...君に」
心の奥底から湧き上がってきた言葉だった。理由はわからないけれど、ずっと探していた人に、やっと会えたような感覚と確信があった。
彼はこう返した。
「俺もだよ、カヅキ......ちゃん」
その声は、記憶の中で何度も聞いた声だった。




