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4:線を引いて、それをなぞって

 いつも通りは、いつからがいつも通りなのだろうか。


 そう思ったときには、既にそれはいつも通りで。新鮮だと感じる間は、いつも通りとはきっと呼べない。驚いて浮足立つよりも、微睡むような安堵が勝つ。そうなったら多分それはいつも、だ。

 慣れてしまったから、というと少し乱暴な気がする。

 いつも通りになっても、嬉しいものは嬉しい。むしろ、繰り返した分だけ安心してその嬉しさを受け止められる余裕が生まれて、そういう余裕があってこそ、噛み締められるものもある。


 新しい幸福と、見知った幸福。

 どちらも幸せだと感じられるのなら、どちらもあって欲しいと願うだろう。

 片方があれば、もう片方はいらない、とはならない。そもそも、未知と既知はその両方があってこそ、それぞれの価値を深く理解できるのだから。


 知っているものがあるから、知らないものの価値を知ることが出来る。

 知らないものがあるから、知っているものの価値を知ることが出来る。

 どちらかしかないなら、どちらも価値は減じてしまう気がする。


 なら、新しい幸福が、見知った幸福になるときは、どちらの価値も含むのだろうか。

 その境界線はどこにあるのだろう。そう思う主体は、どこを境にするのだろう。


 膝に乗せているほとりのつむじを眺めながら、ぼんやりとそんな思考を回していた。もう何度も繰り返したこの状況は、そういう意味でいつも通りだろうか。

 回数を数えて、もうこんなにも、と思えばいつも通りとは言える気がする。けれど、俺の主体はまだ彼女を膝に乗せることに慣れていない。何度でも、新しい発見があった。


 今見下ろしているつむじ。そこから流れていく長い髪の毛。艶のあるそれはとても綺麗で、指を差し入れるとサラリとした感触が返ってくる。全く引っかかるようなことはなく、梳くように撫でれば先端までスッと指が通っていく。

 その感触に、真新しさを感じる。何度も繰り返して慣れたはずの行為の中に、新しい幸福を何度も見つける。いつも通りの境界線を、ずっとなぞっているかのような感覚。

 この子との時間は、いつだって価値しかない。二つを含む、線上の幸福があった。


「きげん、よさそう?」

「そうだね、機嫌がいいかな」

「いいこと、あったんだ?」

「うん、いいことがあった。今、ある」

「んぅ……?」


 機嫌良さそうに揺れていた足が、たらりと脱力する。

 疑問をそのまま体に出力させているように、くいっと全体が傾いた。そのまま倒れてしまいそうなほどに力を抜いて、思考にだけ意識を割いたような、適当さを体の動きから感じ取る。

 支えていてくれるでしょう。そういう幼い傲慢さも感じて、また境界線をなぞる感触がした。


「……あぅ」

「わかった?」

「わたしは、いいこと?」

「そう、ほとりはいいこと」


 そうなんだ、と小さく呟きながら、また足が動き出す。機嫌良さそうに。機嫌良く。彼女も、俺と同じ線上にいてくれたらいいなと思う。二つを含む、線上の幸福をあげられたらいいのにと。

 微睡むほどに安堵しながら、驚いて浮足立つほどに喜ばせてあげたいと、そう思う。


「いいこと、あげられるなら……いいこかなぁ?」

「うん、いいことだから、いい子だね」

「じゃあ……じゃあね、あのね……おねがいしてもいい?」

「何でもどうぞ」


 最近は遠慮するような様子は減ってきたのに、やけに言い淀むような気配があった。

 いい子だから、という前置きが必要だと思うくらいのお願いなのだろう。


 数度深呼吸をして、意気込むようにしながら、それでも恐る恐る彼女が振り返る。

 ちらりと見上げる瞳は不安げで、その奥に期待が見え隠れしていて。少しだけ大きなものをおねだりするときの子供の姿そのもので。だから、出来る限り優しく見えるように微笑んで、言葉を待つ。


「おでかけ、したい」

「それくらいなら、勿論いいよ」


 少し拍子抜けしながら、快く承諾する。

 いや、彼女からすれば、割と勇気のいるおねだりだったのかもしれない。今まではずっと、俺たちの関係はこの生徒会室の中で完結していた。

 付き合っていることは誰も知らない。此処以外では、触れ合うどころか殆ど言葉を交わしてすらいないのだから当然だろう。


 それは彼女なりの、身を守るための術なのだと思う。誰かに知られてしまわないように、出来る限り密やかに、そこから何かが伝わってしまわないように。俺との関係性をすら、ひた隠しにした。

 それはどうにも、わかる話だった。


 今まで全く接点のなかった二人。しかも、明らかに片方が見劣りしている。

 それなりに優秀な成績を維持している自負はあるけれど、まぁ頑張っている方だねとやんわり褒められる程度のものだ。運動も出来ないわけではないけれど、目を見張られるほどではない。


 それに比べて、ほとりは本当に凄い。

 同じクラスに持っている人はいる。けれど、その持っている人と比べても、更に一握りの存在だと断言できるほどに、彼女は凄い存在だった。

 けれど彼女の本心を正確に言い表すのなら、そんな才能はいらなかったと言うのだろう。やろうと思っても最初から出来なかったのなら、こんなことにはなっていなかったのだから。


 ただ、そんな内心があっても、努力をすれば天才だと評されるような彼女は、どうしたって目立つ。そんな彼女の隣に立つ人間は、彼女と比べられても仕方がない。

 ようするに、表立って俺が彼女の恋人であると知られてしまえば、注目を浴びて深堀りされる。周りの人の興味を引いて、彼女の知られたくない部分を知られてしまう可能性があがってしまう。


 怯えて自分を守ろうとする程度には、十分過ぎるほどの理由。

 だからこそ、疑問が湧き上がる。


「けど、いいの? 周りの人に知られるかもしれないよ」

「……それは、やぁ、だけどぉ」


 むずがるような仕草。そんなことはわかってるけど、したいのだからしょうがないでしょう。そんな言葉が聞こえてくるような、不安と不満を混ぜた視線で見上げてくる。

 つまり、彼女は俺とのおでかけというものに、それだけの価値を見出しているということだ。

 誰かに見られるかもしれない。そこから自分が最も知られたくない部分を知られるかもしれない。そんなリスクを承知で、そんなことよりも、と。俺と何処かに出かけたいと思ってくれている。


「じゃあ、なるべく遠くに行こうか。それなら、ほとりも少しは安心できるでしょ」

「……うんっ」


 ころりと、彼女が笑顔になる。要望を受け入れてもらったことへの嬉しさ。彼女が気にしていることに配慮してくれたことへの嬉しさ。彼女の内心を、俺が理解してくれたことへの嬉しさ。

 一つの笑顔の中に、幾つもの嬉しさが含まれていた。


 彼女は敏い。敏感過ぎると言ってもいいほどに。子供が大人の機微を自然に感じ取ってしまうのと同じような、そんな幼さを残している。

 だから、俺が彼女に対して思っていることなんてお見通しなのだろう。


「ありがと、ありがとね……」


 だから、恥ずかしそうに小さく、けれど俺に聞こえるように、お礼を何回も口ずさむ。先程の短い応酬の中で、どれほど俺が彼女のことを考えていたのか、理解しているから。

 気恥ずかしくはあっても、やっぱり嬉しかった。それほどに、俺のことを見てくれていることが、こんなところからもわかってしまうから。きっと彼女は、もう俺より俺を知っているんだろう。

 驚きと安堵が、同時にやってくる。二人で線をなぞって、その上を歩いていく。


「それで、ほとりはどこに行きたい?」

「あっ、えっと、うんとね……ゆうえんちでしょ、どうぶつえん、すいぞくかんも! あと、あとそれから、いっしょにおかいものもいきたいし……それと、それと……」

「沢山あるね。でも、ゆっくり考えていいんだよ。何回でも一緒に行けばいいんだから。ほとりが行きたいところ、全部行こう」

「うん、いく……いっしょに、ぜんぶ、いく」


 ふんわりと幸せそうに、顔をほころばせる。

 きっと、本当に、彼女の中では何かが綻んだのだろう。きつく縫い付けられて仕舞いこまれていた何かが。ずっと押し込めていたものが、溢れ出すような必死さから、そういう色が見えた。

 強く握りしめすぎて、滲んだような色が。


「……はじめて、だぁ」

「っ」


 やっぱりという気持ちと一緒に、どうしてだという気持ちも浮かんでくる。彼女にはちゃんと両親がいて、その両親は彼女のことをちゃんと愛そうと、見ようと努力しているはずなのに。

 俺と違って。なのに、それなのに。

 どうしてこんなにも、ずれてしまうのだろうか。


 彼女とその家族は、同じ線上に立てなかった。

 知っている幸せだけ。自分にとっての安堵だけ。それで十分。彼女と家族の間で、損なわれた価値があるのだろう。ほとりにとっては、大事だったはずの価値が。


「んっ、ぅ……? どうしたの?」

「少し強く、触れたくなった、のかな」


 彼女という存在に。その輪郭に。その境界に。

 自分の中の既知と、彼女の中の既知。

 自分の中の未知と、彼女の中の未知。

 触れられないその境界に触れたいと、強く思ってしまったから。

 あぁ、本当に……二つを含む、線上の幸福をあげられたらいいのに。


「だいじょうぶだよ」

「……」

「わたしはちゃんと、うれしいよ」


 いたいけな優しさだった。微笑むその顔は、本当に嬉しそうで。

 だけど、その優しさの根には、これまでの彼女の傷があることを、俺はもう知っている。

 彼女はちゃんと、それを自覚していて、だから――。


「だから、もっと……ちょうだい?」

「……うん、あげるよ。ちゃんと、君にあげるから」

「もらうね。いままで、たりなかったぶんまで、たくさん、もらうね」


 幼い傲慢さも、そこに付け足す。彼女は貰えて当然で、俺は彼女にあげて当然で。ほとりのいつも通りの子供らしさに、初めて見る子供らしさに、安堵して、驚いて、喜ぶ。

 わかっていて、なぞってくる。


「ちゃんと、あげられてるかな」

「もういったよ。うれしいよって、いったからね」

「でも、それは……あげたいものだったけど、本当にほとりが欲しいものかはわからない」

「……?」


 無垢な瞳が見上げてくる。入れ込んでいるな、と思う。

 君のことだけ見るようにする。それは言葉通りの意味じゃなくて、それくらいに見るよというだけのものであるはずで。けれど、本当に今、俺は彼女のことだけを見ている感覚があった。

 彼女のことだけを、考えている。


「君が欲しかったものは、沢山あると思う。でも、俺はそれを全部知ってるわけじゃない。今まで君の周りにいた人たちと同じように、知らないからあげてしまったものもあるかもしれない。これからだって、そういうことはあるかもしれない」

「……うん」


 納得するように頷いて、また無言で見上げてくる。

 まだ話の続きはあるでしょう、と。全部わかったような顔で。


「でも、君は優しいから」

「あなたには、やさしくないよ」


 話を促してきたくせに、言いたいことを理解した瞬間、今度は自分の言いたいことを被せてきた。

 子供のわがまま。無邪気な傲慢さ。

 驚いて、安堵する瞬間。


「ずっと、あなたにはほしがってる。ほしいものだけ、ほしがってる」

「……そっか」

「そうだよ?」


 それくらいちゃんと理解して。

 言葉もなく怒られてしまった。こちらとしても、言葉もない。

 大事にし過ぎるあまりに、大事にしてしまうことがある。まさにこれがそうだった。


 彼女からすれば、なんでそんなことを言うんだろうという気分だったに違いない。だって、俺たちはいつも通りに、お互いに欲しがって、お互いに与え合って、そこに立っていたのだから。

 今度は力を抜いて、柔らかく抱きしめる。ただ、そこに真剣さは含ませて。


 彼女の手が、ぽんぽんと俺の腕を優しく叩く。

 よく出来ました。そう褒めてくれるような力加減だった。

 優しくないと言っておきながら、彼女は優しい。そういうことじゃないのはわかっているけれど、ちゃんと優しくされるのは、やっぱり嬉しかった。


「あと、ね」

「うん?」

「ちゃんと、わたしもあげるから。おもってることを、あげるから」

「……俺にだけ?」

「うん、あなたにだけ」


 他の人には決して見せられない部分を見せている。だから、俺にだけは言えることもある。伝えられることもある。曝け出せるものがある。

 きっと、俺が彼女を追い詰めることはないのだろう。間違うことを許してはくれないから。彼女のことだけは。

 幼い傲慢さで、そんな俺だけは許してくれない。


 きっといつも通りに、彼女が欲しいものをあげられる俺でいさせてくれる。

 そうして、彼女は安堵しながら、驚いて、喜んでくれるのだろう。

 二人で、同じ場所に立ちながら。

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