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人嫌いの転生記  作者: ラスト
前章 プロローグ
1/56

捨てる神あれば拾う神あり

 見慣れた景色が逆さまに映っていた。生徒達が行き来する校門、体育や部活で生徒達が走り回るグラウンド。そしてどこまでも遠くへ続いて行く、赤く染まった空と影を落とす黒い雲。

 それら全てが、彼には逆さまに映っていた。自由落下で校舎から落ちる彼は、自分が何でこんな事になってしまったんだと、今更ながらに後悔していた。一つ言える事があるとすれば、衝動に身を任せると碌な事にはならないという事だ。

 尤もそんな事を今学んだ所で、以後気を付ける事は出来無いだろう。何故なら彼には、もう次など無いのだから。

 校舎の屋上から地面に落ちる彼は、もう助かりはしないだろう。地面で頭をかち割られて即死は確実だ。


(本当…最悪だ)


 これまでの人生が走馬灯となって脳裏を過る。思えば碌な人生じゃ無かった。幸せだった思い出なんて、今ではうろ覚え程度でしか思い出せず、しかも小学校の後半以降の記憶では皆無に等しかった。痛い、辛い、苦しい、悲しい、悔しい、ムカつく、そんな負の感情が伴う記憶ばかりが呼び起こされる。

 こんな人生に一体何の意味があったのだろう。自分は何の為に生まれて来たのだろう。そんな哲学的な事を本気で考えるくらいには、彼の心は疲弊していた。

 そして最大の不幸として、こうして屋上から転落して地面へ向けて落ちている。中々に酷い人生だ、こうして死に向かっているというのに、心は寧ろ死ぬ事を救いとすら思っているのか、これまでの日々を生きるどの時よりも穏やかだった。

 もう地面が直ぐそこまで迫っている。最後に視界に映ったのは、闇に染まりつつある空に浮かんだ満月だった。普段は余り気にはしなかったが、こうして見ると中々どうして、心が澄んで行くと錯覚すらしてしまう程に綺麗なものだった。月の浮かぶ夕闇に、彼の心は少なからず安らぎを感じていた。

 最期の最期で、心安らかに終わる事が出来たのは、彼にとっては最後の幸福だったのかもしれない。


ーーー


 最初に感じたのは、眩しいだった。瞼の上から射す日の光が、瞼越しに光を感じさせている。続いて感じたのは草の匂いだ。総じて、まるで野原に寝転がって日向ぼっこしているような感覚である。

 だが、その後に来たのは強烈な違和感であった。何がどうなって今自分は寝転がっているのか、その過程が思い出せなかったのだ。最期に覚えているのは、夜に寝た所まで、そこから目覚めるまでの一切合切の記憶が抜け落ちたみたいに、綺麗さっぱり無くなっている。

 ここはどこなのだろう。そう思って目を開けると、そこに映ったのは見た事も無い景色だった。花畑と言えば良いのだろうか。近くを埋め尽くすように花や背の低い草が絨毯のように生えており、その周囲をグルッと囲むように木々が生い茂っている。一見すれば幻想的とも取れるそんな場所に、彼は高校の制服である学ランを着てそこに居た。


「ここは…どこだ?」


 こんな場所は記憶には無い。地元の周辺にはちらほらと森は存在しているが、こんな場所があるなんて話は噂の範囲であっても聞いた事が無い。

 仮に実在するとして、自分はどうやってここに来たのだろうか。記憶がすっぽり抜けている今ではそれも分からない。


「どうやら目が覚めたみたいね」


 抜けた記憶の事を考えていると、後ろから女性の声が聞こえた。大人の女性を思わせる綺麗な声だった。不意に聞こえた声に咄嗟に後ろを振り返ると、そこには大人の女性とは到底思えない幼い女の子が、白い椅子に座っていた。


「あ!本当だ!」


 もしかしたらこの幼女がさっきの声の主なのかと思ったりもしたが、今幼女から発せられた声は、その見た目相応の幼いソプラノボイスだった。

 若草色で白いフワフワのレースの付いたゴスロリ服を来た少女は、その碧色の目で彼を見ると、ニパッと花が咲いたような笑顔になり、椅子から飛び降りると嬉しそうに彼に駆け寄る。


「レーイ!」


 そして少女は彼の胸に飛び付くと、ムギュッと抱き着いて頬擦りし出した。全身から嬉しそうな雰囲気を醸し出しているが、彼はそんな事よりも、さっき少女が言った言葉に気を取られていた。何故なら、少女はさっき彼の名を呼んだからだ。

 朝霧あさぎり れい、それが彼の名前だった。しかし嶺は少女に名前を教えた記憶は無いし、それどころか以前出会った記憶すら無い。

 だとすると、名前を教えたのは記憶が抜け落ちた間という事になるのだが、そもそも見覚えの無い場所で知らない少女と一緒に居るというこの状況に至る経緯、そして理由が理解出来ない。

 分からないという事が、今嶺に抱き着く少女に警戒心を抱かせる。子供だからという理屈は、嶺には通用しない。子供だろうが大人だろうが、人間は皆自分を害する可能性があるのだから。


「フィリア、そろそろレイ君を離してあげなさい。レイ君が警戒しているわ」


 又しても女性の声が、さっき少女が座っていた方から聞こえて来た。先程聞こえて来た女性の声だ。声のした方を見てみると、そこには白い椅子と同じ材質で作られたであろう白いテーブルの上で、一匹の黒猫が座っていた。

 毛艶の良い黒猫はただ座っているだけなのに、オーラというか、気品の様なものを感じさせる。


「え〜、でも〜」

「でもじゃありません。嬉しいのは分かるけれど、それでレイ君に嫌われたら嫌でしょ?」


 また黒猫の方から女性の声が目の前の黒猫から聞こえて来た。しかもその声は、黒猫の口の動きに合わせて聞こえて来ていた。つまりこの女性の声は、黒猫から発せられた事になる。


(どういう事だ?)


 スピーカーが何かを使っているのかもと考えたが、それだと黒猫の口が動いている事の説明が付かないし、そもそも首輪が無い。つまりスピーカーを付ける場所が無いのだ。

 だとすると目の前の黒猫が人間の言葉を喋った事になる。しかしそれは余りにも非常識だ。一体どういう原理なのか全く分からない。


「ム〜、しょうが無いな〜」


 フィリアと呼ばれた少女は黒猫に諭されて渋々嶺から離れる。しかしそれでも嶺の学ランから手を離さない辺り、本当は離れなく無いという気持ちが現れている。

 しかしそんな残念そうなオーラを出しているフィリアには目もくれず、嶺は目の前の不思議な黒猫を凝視していた。それに気付いた黒猫は優しげに目を細める。猫に優しげという表情があるのか分からないが、表現するのであればそんな感じだった。


「驚かせてごめんなさいね。彼女も私も、貴方に会えるのを本当に心待ちにしてたから」

「あ、あぁ」


 黒猫はテーブルから流れる様な足並みで降りると、嶺の手前まで近付いて来た。


「自己紹介がまだだったわね。私はアールシュタット、長いようならアルスでも良いわ。宜しくね、レイ君」

「……」


 いきなり宜しくと言われても、知らない人(猫?)にいきなり名前で呼ばれて馴れ合える程、嶺は楽観的な性格では無かった。例え見た目は可愛らしい黒猫でも、それが人間のように喋るのであれば、それだけで嶺は警戒してしまう。

こればかりは仕方ないとしか言い様が無い。既に嶺はそういう風に出来てしまっているのだから。


「警戒しないで、と言っても無理だろうけど、私達は貴方に危害を加えるつもりは一切無いわ」

「…それを信用しろと?」

「いきなり信用出来なくても良いわ。今は私の事を知って貰えただけで満足だから」


 黒猫も嶺の意思を察したのか、それ以上近付いては来なかった。嶺としても横にいるお子様のようにいきなり距離を詰められては困るので、アルスの大人な対応には少し安心した。


「ねえねえ」


 横からフィリアと呼ばれた幼女が袖を引っ張る。振り向いた瞬間に顔が近い事に驚いて咄嗟に背筋を伸ばして顔の距離を離す。


「な、何だ?」

「えっとね、私はね、フィリアって言うの!」


 どうやらただ自己紹介をしたかっただけらしい。子供らしい幼稚な挨拶だ。


「そうか」

「ム〜、何だか暗〜い」


 嶺の反応が満足行かない様子のフィリア。子供は正直である。


「まあ良いじゃない。これからお互いに知って行けば良いのだから。それより、ずっとこのままで居るのもどうかと思うし、先ずはお茶にしましょう」


 アルスが仲裁して取り成し、二人をお茶に誘って自分は先にテーブルの上に移動する。


「ん?」


 アルスを追ってテーブルを見ると、さっきまで一つしか無かった椅子が二つになっていた。また記憶喪失かと疑ってしまうが、流石についさっきの事を忘れる程耄碌はしていない。


「どうかしたかしら?」

「あ、いや…」


 きっと見間違いだろう。椅子の数になんて一々注意は払わなし、一つだろうが二つだろうが大して変わらないだろうと結論付け、先にフィリアが座った方とは別の椅子に腰掛ける。

 テーブルの上には自分の椅子の目の前にティーカップが置かれており、その中には既に紅茶が淹れられていた。出来立てだと分かるくらいに湯気が出ている。アルスは猫だから兎も角、フィリアが紅茶を淹れている所なんて見ていない。いつの間に淹れたのだろうか。もし目覚める前に淹れたのなら、彼女達は嶺の目覚める時間が分かっていた事になる。


「もしかして、紅茶は嫌いだったかしら」

「いや、そうじゃ無い。…一つ、聞いても良いか?」

「私に答えられる事なら」


 フィリアは美味しそうにクッキーを頬張りながら紅茶を飲んでいる為、『私』と言ったのだろう。元より子供であるフィリアに尋ねる気など皆無だが。


「あんた等は、俺がさっき目覚めるのが分かってたのか?」


 普通ならもっと聞くべき事はあっただろうに、と尋ねてから気が付いた。アルスは案の定クスクスと笑い、自業自得とは言え気を悪くした嶺は誤魔化すように目を逸らす。


「ごめんなさいね。まさかそんな質問が来るなんて思ってもいなかったから」

「…で、どうなんだ?」


 一度聞いてしまったので今更撤回するのもどうかと思い、仕方無くそのまま追求する。


「流石にそんな事は出来ないわ。私達だって、貴方が目覚めるのを今か今かと待っていたんだから。でも、ここの事や、貴方がどういった経緯でここに来たのか。それくらいなら教えてあげる事が出来るわ」

「ッ!本当か?」


 本来聞くべきだった事、そして知りたかった事。それをアルスは知っている。


「ええ、貴方が私の言う事を信じてくれるのなら、だけどね」

「…取り敢えず聞かせてくれ」


 信じるも何も、情報が無ければ判断も出来無い。どちらにせよ、話は聞く必要がある。


「先ずは、一番重要な事を伝えさせて貰うわね」

「重要? それは俺とお前等のどっちにとっての重要なんだ?」

「どちらかと言うのなら、断然貴方の方になるわね。何せ貴方に関する事だもの」


 自分がここに居る理由。一体自分は何故こんな所に居るのだろうか。緊張の所為で無意識に手に力が入る。


「レイ君、実は…貴方はもう、死んでいるのよ」


 一瞬、何を言っているんだと思わずにはいられなかった。到底信じられない話だった。現に、自分はこうして見て、聞いて、話せている。下を見ても足はちゃんと付いている。


「信じ難いな」

「それでも信じて貰うしか無いわ、これからの話は、全てそれが前提で進められるし、それ等の話もきっと、信じられないような事ばかりだと思うから」


 そう言うアルスに嘘を言っているような様子は見受けられない。でも自分が死んだと言うのもまた信じられない。いずれにせよ、判断するにはまだ情報が足りない。


「…続きを」

「さっきも言った通り、貴方は死んだわ。今の貴方は魂のみの姿、つまり幽霊みたいな霊体って事ね」

「つまりここは、あの世的な場所なのか」

「現世では無いという点ではその通りだけど、具体的に言うのであれば、貴方の認識とは少し違うわね」


 という事は、ここは天国とか地獄とか、そういう次元の場所では無い、もっと別のどこかという扱いになる。


「ここはとある世界の神々の住まう世界、神界の一角にある場所よ」


 今度は神様と来た。最早怪しい宗教のような話になって来た。もしくは厨二病の集まり。


「じゃあ、あんた等も神様だって言うのか?」

「ええ、私は闇と安らぎを司る神、月の女神アールシュタット。尤も、今は殆ど力なんて無いのだけれどね」


 やや自嘲気味に言うが、嶺にはそれに何と答えて良いのか分からない。そもそもその話が本当なのか疑ってすらいるのだから、何も言ってやれる事が無いとも言える。どちらかと言うとやっぱり雌なのかと思う位だ。


「で、彼女は精霊神フィリアスフィール」

「その名前嫌〜い!」


 フィリアというのは愛称みたいな物だったらしい。というか神様が自分の名前を嫌って詐称しているんだが、それで良いのだろうか。

 まぁどちらにせよ、嶺としては目の前の少女は神様というよりも御子様なので、変に長ったらしい名前よりもフィリアと呼ぶ方が覚え易くて良いのだが。


「またそういう事言って、そんなだから、折角信仰が厚いのに権能が弱まるのよ」

「だって、フィリアの方が可愛いんだもん!」


 可愛いという理由で信仰されてる名前にケチ付ける神様とか、信者が聞いたら卒倒するだろう。


「フィリアの名前については今はどうでも良い」

「どうでも良く無いよ! フィリアにはとっても大事な事だもん!」


 遂には自分の事をフィリアと呼び出した。自己主張が激し過ぎる。


「それより、何でそんな神様の居る世界に、一般人の俺が居るんだ」


 少なくとも偶然で迷い込めるような次元では無いだろう。


「私がフィリアと協力して、貴方の魂をここに呼び出したからよ」

「何で俺なんかを?」


 自分で言うのも何だが、嶺は特に秀でた才能なんて無いと自負している。勉強は少しは出来るが、それでも学校全体から見れば埋もれる程度の学力しか無いし、運動に至っては平均以下だ。何か光る特技も無ければ、趣味はネットやテレビを見るくらい。集団に居れば一切目立たない現代っ子、それが嶺だ。

 こういう場所に呼び出されるなら、寧ろ嶺の記憶の中に居る『アイツ』の方が適任だろう。


「呼び出した理由。それは、貴方が夜の帳に、静寂に、安らぎを感じる人間だったからよ」

「…………」


 確かにアルスの言う事は間違いじゃ無い。昔から、星とか月とか、そういった天体とかに興味を持っていた。小さい頃は夜更かしして望遠鏡で空を眺めたものだ。これでも小さな頃は宇宙飛行士になろうと思っていた時期もあった。最近では精々天文台の職員が良い所だろうと悟っているが。

 そうして夜の世界に魅せられる内にいつからか、何者も視認させない暗さに、誰の存在も感じさせない静けさに、安らぎを感じるようになっていた。これには別の要因も有るのだが、それは今は語るまい。


「俺以外にも、そういう奴は大勢いる筈だ」

「そうね。でも、貴方ほど純粋に夜を愛してくれる人は殆ど居なかったわ。貴方はその中でも特別強い思い入れがあった。これ以上に適切な人間はそうそう居ないわ。少なくとも今貴方を見逃せば、次に現れるのは数百年は先になる位には」


 そこまで評価されているとは嶺自身も驚きだった。もしアルスが本当に女神だとしたら、これ程女神に評価される人間は珍しいだろう。そう思うと悪い気はしない。

 しかしその内容に一つ気になる事があった。


「適切って、何に対してだ?」


 これ以上に適切な人間はそうそう居ないと言っていたが、そもそも何の適性があってそう言っているというのか。


「それこそが、貴方をここに呼び出す事になった一番の理由よ」


 さっきの話は呼び出す理由の一つに過ぎないという事か。いや、きっとさっきの話は呼び出す対象に嶺を選んだ理由であって、嶺をここに呼ばなくてはならなくなった理由が別に有るのだろう。


「それは?」

「貴方に御願いが有るの。レイ君、貴方には私の使徒として、私達の管理する世界で生活して欲しいの」


 転生、その言葉が嶺の頭に浮かんだ。まるで小説のような出来事に少し興味をそそられるが、いきなりそんな事を言われてもハイ分かりましたとは言えない。

 第一アルス達が本物の神様だと信じている訳でも無いのだ。特にフィリアなんて神様オーラゼロだ。その辺の子供に厨二病設定を覚えさせたような感じさえする。実際フィリアは話に一切参加せず一人で黙々とクッキーを頬張り紅茶を飲むという完全なマイペースだ。


「あ、お菓子無くなっちゃった…」


 そしてお菓子が無くなると悲しそうな顔で空になった皿を見る。ますます唯の子供にしか見えない。


「もう、フィリアったら。私もレイ君もまだ一枚も食べて無いのよ?」

「ム〜、だって〜」

「だってじゃありません」


 完全に母親が子供を叱る場面にしか見えない。母親の方は姿が黒猫なのに。


「もう、仕方無いわね」


 アルスはそう言うと、前足を招き猫のようにクイックイッと動かす。すると次の瞬間には空からクッキーが落ちて来て、皿一杯にクッキーが並べられた。


「わーい!」


 それを見たフィリアはテンションが急上昇。直ぐさまクッキーを掴み食べ始める。だが嶺は喜ぶより先に驚愕に目を見開いた。今のクッキーは一体どこから来たのか、その事に頭が一杯になっていた。空を見上げても虚空が続くだけで、クッキーなんて一つも無い。


「さ、レイ君もどうぞ。使徒の話については直ぐに回答しなくても良いわ」

「あ、ああ」


 雰囲気からさっきの事について聞けず、言われるがままクッキーを一つ取る。見た目はただのクッキーだ。間に何か挟まっている訳でも、厚さからして中に何かが入っている訳でも無い。極普通のクッキーだ。さっきからフィリアがバクバク食べているから、変な味がする事は無いだろう。

 意を決して一口頬張る。味は結構美味しかった。しっとりとした食感で、生クリームでも使っているのかミルクの味がまろやかに広がって行く。その甘さが紅茶と良く合う。加えて紅茶の香りも悪くは無い。別に紅茶に詳しい訳では無いからどうとは言えないが、それでもこのクッキーとは良く合っているという事は分かった。瞬く間に一個目を平らげて、次のクッキーに手を伸ばす。


「気に入ってくれたようね。良かったわ」


 そう言アルスには何時の間に食べたのか口の周りにクッキーの食べカスが付いていた。猫なのにクッキー食べて大丈夫なのだろうか。神様特権でセーフという事なのだろうか。

 嶺の視線でアルスも気付いた様で、顔を洗う仕草に隠して口の周りに付いた食べカスを払って行く。

 あまり追求すると嫌がりそうなので、そこは黙ってやる事にして、皿に残った最後の一つを手に取る。


「あ!それ私の!」


 しかし口に入れようとした所をフィリアが咎める。因みに嶺はまだ三枚目で、クッキーの殆どはフィリアが一人で食べてしまっている。それでも尚最後の一枚を欲するという貪欲さ、本当に神様だったら世も末である。


「煩い、お前はもう一杯食べただろ」

「ム〜! ム〜!」


 更にはムクれて喚く始末。そんな風にムクれられても早い者勝ちだ。世の中は非情なのである。


「ム〜!!」

「………」


 それでもムクれて自分の物と主張するフィリア。嶺は暫く睨み付けて来るフィリアを目線だけで見て。そして手に持っていたクッキーを二つに割り、片方をフィリアに差し出した。


「ムぇ?」

「半分こだ。これ以上はやらん」

「わぁ〜! うんっ!」


 パッと花の咲いた笑顔に戻ると、フィリアは半分になったクッキーを幸せそうに頬張った。嶺もクッキーを口に入れると、微笑ましげに嶺を見ていたアルスと目が合った。


「……何だよ」

「優しいのね」

「騒がれても面倒なだけだ」


 嘘を吐いた訳では無い。実際にこのまま一人で食べれば、暫くフィリアがムームー言って来ただろう。それは酷く煩いし思考の邪魔なので、仕方無く妥協したというだけの話だ。


「そう」

「ムフフ〜、お兄ちゃん大好き!」


 しかし二人にはそうは思われなかったようで、アルスは微笑ましげな目をを止めず、フィリアに至ってはいつの間にか嶺の膝の上に移動して抱き着きて来た。そして何時の間にか呼び方がお兄ちゃんに格上げになっている。

 否定したい所だが言っても無駄そうなのは何と無く分かって、バツが悪くなった嶺は二人を無視して意識を紅茶に没頭させた。


ーーー


 その後も紅茶を飲みつつ追加のお菓子を食べたり、へばり付いて来るフィリアを引き剥がそうとしたり、アルスに茶化されたりしながら過ごしている内に、いつの間にか嶺は眠ってしまっていた。背凭れに体を預けて眠る嶺の膝の上にではフィリアが嶺にしがみ付いた状態で一緒に眠っていた。

 さっきまでのワイワイと騒いでいた後の仲良く眠るこの姿はまるで兄妹の様で、それを見ていたアルスにも笑みが溢れた。


「フフフ、本当に良く眠ってる」


 目覚めてから然程長い時間が経過した訳では無いが、それでも驚きの連続で精神的に疲労していたのだろう。陽光を浴びてスヤスヤと眠っている。

 安らかな眠りの時間。アルスは逆に、その眠りが不安になっていた。今の嶺は魂だけの霊体だ。そしてその霊体の中には、嶺がこれまでに経験した出来事の全てが記録されている。勿論、嶺が忘れている部分、嶺が死んだ日の出来事もだ。それを思い出すのも時間の問題だろう。寧ろ他の事を考えていない休眠時が、一番思い出す可能性が高くなる。

 彼がそれを思い出して心の均衡を保っていられるのか、それがアルスには心配でならない。安らぎを司る女神とは言え、今はその権能も殆ど使えない状態だ。そんな自分に出来る事があるとすれば、それは嶺が正気を保てる様に祈る事だけだ。既に女神である自分が一体誰に祈れば良いのかなんて分からないが、そうせずには居られなかった。


「どうか、彼が健やかでいられますように」


 瞬間、嶺に抱き着きて眠っていたフィリアが仄かに輝き出した。そしてそれはフィリアを伝って、嶺を優しく包み込む。それを見たアルスはさっきまでの不安そうな表情を一転させて、安心したように笑顔になる。


「フィリア、貴女が守ってくれるのね」


 何もしてやれない自分の代わりにフィリアが嶺を守ってくれている。それなら安心出来る。


「お願いフィリア、レイ君を守ってあげて」


 アルスはスヤスヤと眠る二人の前に座り込み、静かにその様子を見守るのだった。

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