30、それは光り輝くもの
何か、周囲が騒がしかった。
イヴェッタは広場で座り込んだまま、膝の上のダーウェの頬を撫でる。
あちこちで人が走り回る。
少し前までクレメンスが傍で放心していた気もするが、街の騒がしさに自身を奮い立たせ、騎士達を連れてどこかへ行った。
何かよくない事が起きているのだろうことはイヴェッタにもわかったが、街のことは街の人間が上手くやるだろう。
(わたくしを見る目)
好意的に、振る舞うクレメンスの目の中に恐怖があったのをイヴェッタは理解している。化け物、何か、おぞましいものが目の前に存在しているような不気味さを感じ取り、それでも刺激しないように「相手は自分と同じ人間だ」と思い込もうとしている目。
イヴェッタは自分の服の袖でダーウェの顔に付いた血や泥を拭う。
「……」
「ダーウェ」
ゆっくりと、ダーウェが目を開いた。何かで強制的に混乱・凶暴化させられていたが瞳には正気の光が宿り、彼女は何度か瞬きをして「イヴェッタ?」と掠れた声を出した。
「おはよう、ダーウェ。大丈夫?」
どこか痛いところはないか、イヴェッタは微笑みを浮かべて問うた。すると、ぐしゃり、と、ダーウェが顔を歪ませる。激痛が走ったのかとイヴェッタは心配になった。が、ダーウェは血と泥で汚れた腕をイヴェッタに伸ばし、手でその頬をぐいっと、引っ張る。
「ふぇっ」
「なんて顔してるんだよ。なんだ、それ。なんでまた、そんな顔で笑ってるんだよ」
「わたくし、悲しい顔をする理由なんて、ないもの」
周囲で人が泣き叫んでいるからだろうか。走りながら、恐怖を口にしている人がいるからだろうか。そんな状況じゃないだろうとダーウェは思ったのだろうかと、イヴェッタは困ったように、やはり微笑む。口元を少し釣り上げて、瞳を細める。
「大丈夫よ、ダーウェ。わたくし、いつも恵まれているのよ。わたくしは、他のひとより、ずるいの。だから、悲しい顔なんて、しないのよ。不幸じゃないから、笑っていないと」
「そうじゃない。そうじゃないよ、イヴェッタ。あんた、折角、ちゃんとマシに笑えるようになったのに。なんでそんな顔に戻ってるのさ」
ゲホゲホと、何度か咳をしてダーウェが上半身を起こす。イヴェッタはその背を支えるように手を添えた。体の怪我は何もかも癒えたはずだが、気管に血でも入っていたのかもしれない。ダーウェは口元を拭い、慎重に周囲を見渡した。顔を歪め、ぐいぐいと何度か乱暴に顔を拭う。
「ぼんやり覚えてる。体が熱かった。頭の中でガンガン、殴られるような痛みがあって、沢山、暴れなきゃならないって、そうしないと苦しかった。――あたしは何をした?」
イヴェッタは微笑む。
「何もしていないわ」
「イヴェッタ、その顔で笑うんじゃないよ」
「……ちょっと、街の人たちに怪我をさせたけど、大丈夫よ。わたくしが全部、ちゃんと治したもの。治ったからいいのよ。元通りだから、何もしてないのと一緒よ」
「よくないよ。――そうか。あたし……」
ダーウェは首を振る。少しずつ思い出してくる。体がいう事を聞かなかった。強い酒に酔った以上の、感覚だった。だが、それは言い訳にはならない。ダーウェは自分が「弟と、その他の人間」のどちらが大切か、自分が判断した自覚があった。意識が「そうしなければならない」と方向を決められていたとしても、正気に戻った今でも「他人よりゼルの方が大切だ」と、自分は思っている。もちろん今の自分は、その為に他人を殺せるほど正気を捨てられはしないが、その根本がどうしたってあるから、良いように動かされてしまったのだ。
「あんたが、幸福なもんか」
治したからそれで問題ない、などと微笑むイヴェッタを、ダーウェは睨み付ける。何が、恵まれているのか。何が、他の人間より幸せなものか。
(野宿の仕方もわかんなくて、布を敷いてその辺で寝てるような世間知らずが、一人で国から出されて、何が幸福だ)
ダーウェには難しいことはわからない。だが、ダーウェにとっては、自分が持っていないものを他人が持っているのは当たり前のことだった。
だが、それで、だからといって、自分が持っていない何かを持っている他人が、自分より幸せかどうかなど、そんなこと、ないだろうとダーウェは知っている。
例えば、先に立ち寄った村だ。村の住人達は家がある。家族がいる。畑がある。ダーウェとゼルにはないものだ。けれど、あの村の人たちにだって苦労がある。だから自分達を騙してきたのだ。その負い目から、あれこれ融通を利かせてくれたからこそ、ダーウェは彼ら自分たちとは違う苦労や辛さがあって、だから、「仕方ないな」と納得してきた部分がある。
誰だってそうだろう。きっと、そうなのだ。ダーウェは難しいことは、わからない。だから、平民も孤児も貴族も「皆、色々大変なんだ」と思っている。だから、自分と違う他人を「ずるい」などと思うことがない。
「でも、飢えたことがないわ。お金がなくて困ったこともない。貴族の娘として生まれて、恵まれてるの」
「だったらなんだよ、それがどうしたんだよ。自分は他の人より恵まれているから、ずっと笑ってなきゃいけないなんて思ってるやつが、そんな、ちっとも楽しそうじゃない顔で笑ってるやつが、何が、幸せだよ」
ダーウェは苛立った。誰が、イヴェッタにこんなことを言ったのだ。こんな、まともに笑えないようにしたのだ。腹が立った。こんな風に笑わせて、こいつを化け物みたいにしたいのか。ダーウェは知っている。イヴェッタは、とても可愛く笑うのだ。嬉しそうに自分を見上げて、宝石が零れ落ちそうなほどキラキラした目を向けて「ダーウェ」と名前を呼んで笑えるのだ。
「イヴェッタ。あのさ。これから、ちゃんと楽しもうよ。あんたがちゃんと笑えるようにさ、あたしはあんまり賢くないけど、ゼルと一緒に考えるから」
ダーウェはイヴェッタの両腕を掴んで向かい合った。
じっと、その瞳を覗きこむ。
「……どうして?」
「うん?」
「どうして、そんなことをしてくれるの?ダーウェたちの方が、わたくしよりずっと、大変じゃない。どうして、わたくしに関わろうとしてくれるの?」
「どうしてって、あんた、馬鹿だねぇ」
不思議そうな顔を、イヴェッタはした。何か奇妙な物を見るような、小首を傾げて、菫色の瞳を揺らす。思わず、ダーウェは吹き出した。
どうしてって、そんな、簡単なことがわからない。
「あんたが好きだからだよ、イヴェッタ。友達が苦しんでるなら、なんとかしてやりたいって、当たり前じゃないか」
ダーウェは、イヴェッタより持っているものがずっと少ない。生まれも育ちも、教養だなんだというものも、容姿も愛嬌も何もかも、イヴェッタがいうところの「恵まれている」というのは、確かにイヴェッタの方なのだろう。だが、そんなこと、友達が困っている時に関係あるのか?
「あんたが好きだよ、イヴェッタ。だから、また、ちゃんと笑えるようになって欲しいんだよ」
「……」
大きく、イヴェッタが目を見開いた。
驚いている。こんなに、驚く人の顔を見たことがないほど、驚いていた。イヴェッタは何度か、口を開き、閉じた。何か言いたい言葉があるが、それを口に出すのが恐ろしいような、躊躇い。
「……わたくしも、わたくしも、あなたが……」
その先が言えない。言ってしまえば、何か、自分の意思ではない大きな物をダーウェに押し付けてその重さで彼女を押し潰してしまうという畏れが、イヴェッタの目にあった。怖がっている。これも、初めて見る色だった。イヴェッタが、何かを怖がっている。自分の言葉で、ダーウェの人生を変えてしまうことを恐れていて、それが分かったダーウェはイヴェッタの言葉を最後まで待たなかった。
「うん、そりゃあ、嬉しいなぁ」
言ってくれようとしている言葉は分かっていると、そう顔をくしゃくしゃにして笑い、頷いた。
「……っ」
ダーウェ、と、イヴェッタが泣きそうな声で、小さな声で、呟いた。「うん」と返すと、イヴェッタが顔をぐしゃぐしゃにして、ついに泣き出す。
ぎゅっと、ダーウェは抱き着いてくるイヴェッタを抱きしめ返した。胸に顔を埋めて泣きじゃくる小柄な少女をあやすように頭を叩き、ぎくり、と顔を強張らせた。
「……」
「ダーウェ?」
「……動くな、じっとして」
二人の直ぐ傍に、大きな魔物がゆっくり歩いて来ていた。ここは広場、近くに門がある。そこから入って来たのだろうか。ダーウェはそこで改めて、そういえば周囲が騒がしく、人が叫んで逃げまどっているのだと思い出した。馬車程もある大きな、四足の魔物は一回り小さな魔物たちを引き連れていた。小さなといっても、馬より大きい。それらは辺りの人間を追い掛け回し襲っているが、大きな魔物はわき目もふらずこちらに真っ直ぐ歩いて来ていた。
急に動けば飛びかかってくると、ダーウェは冒険者としての経験から察している。斧を探すが、見当たらない。イヴェッタを抱きしめる力が強くなる。見たことのない魔物だ。だが鋭い爪に、口から覗く獰猛そのものの牙はこれまでダーウェが相手にできた下位の魔物とはわけが違う。イヴェッタを背に庇い、ダーウェは拳を構えた。飛びかかってきたら、自分の片腕を食わせて、その隙にイヴェッタを逃がす。絶対に離さなければ、建物の中に逃げる時間くらい稼げるだろう。
「いいか、イヴェッタ。あたしが合図をしたら、」
走って逃げろ、と言おうとしたダーウェ。が、その言葉が最後まで言い終える前に、大型の魔物がこちらに飛びかかってくる。
「逃げろ!」
ダーウェは叫んでイヴェッタを突き放した。先に動いたイヴェッタに注意が向かないよう、ダーウェは前に飛び込むように地面を蹴る。突進してきた自分の方を、魔物は襲うだろうという計算だ。
腕が食われる痛みを覚悟した。イヴェッタの悲鳴が聞こえた気がする。ちゃんと笑えるようにしてやると約束した側から、泣かせてしまったと自分で自分が嫌になる。
「妻の友人、ということは私にとっても友のようなもの。怪我はありませんか?」
しかし、その魔物がダーウェの太い腕に食いつく前に、イヴェッタが杖を構え神に助けを乞う前に、獣の体が引き裂かれた。
大量の血を噴き出し、断末魔の悲鳴を上げる暇さえなく絶命し地面にいくつかの肉の塊となる魔物の体。
ダーウェと魔物の間に現れ、目に見えぬ速度で斬り付けた男。長身に、流れる銀の髪。返り血を浴びた顔、体をこちらに向けて小首を傾げて見せるその男。
「……なんだい、この、胡散臭い兄ちゃんは」
すぐ後に「イヴェッタの夫です」と紹介してくるギュスタヴィアを見たダーウェの、素直な感想はそれだった。
なんでダーウェがヒーローじゃないんですか?





