16
「じゃあ、行って来ます。」
美佳は渋い顔をする彼女の騎士を見て言った。
彼はここに来るといつも豹変と言っても良いくらい態度が変わる。
そんなことを思う、司祭長の執務室前である。
「本当にお一人で行かれるのですか?」
「だって、アル、あの人の前になるとすぐ怒るし…。それに助手さんがいるから大丈夫。」
「もしいなかったらどうするのですか。」
「えーと、何かあったら叫ぶから!」
眉根を寄せて拗ねたような表情。
可愛い…じゃない。ともかく駄目なものは駄目だ。チャーチルに対してだけやたら喧嘩売りたがりなのは数少ない彼の欠点だ。また斬りかかられてはたまらない。
森色の目に陰りが差す。
だからそんな悲しそうな顔をしても駄目だってば。
後ろ髪引かれつつ扉をノックすると、中から何やら声が漏れているのに気付く。
何を言ってるかまでは分からないが、結構な大声のようだ。しかも女性の声に聞こえる。
一瞬助手を思い浮かべるが、何か違うな、と思い直す。
あの助手が叫ぶなど、余程のことがなければあり得ないだろう。
まあしかし、この間喋り倒すテイワズという滅多にない事象にお目にかかったわけだが。
さてどうするか。
一応約束の時間ではあるのだが、取り込み中ならば邪魔になるだろう。
美佳は逡巡の後、とりあえず一度様子を確認すべくそっと扉を開けた。
ふわ、と草の匂いがした。
「私はまだ、貴方のことを…!」
突如、悲痛な叫びが響く。
その音量と、遅れて内容に驚いて開きかけた扉に足をぶつけた。
後ろ姿だけ見えていた女性が振り向く。
焦げ茶色の髪を巻いた、豪奢なドレス姿の女性だった。髪と同じ色の目には涙を貯めている。すらりとした細い手が強く扇子を握りしめていた。
彼女の向かいに腰かけたチャーチルがこちらに気付いてのんきに笑って手を振った。
「やあミカ君。すまないね、ちょっと待っててくれるかな。すぐ済ませるから。」
笑いごとではないし、ここでちょっと待つのも御免なのだが。
どう見ても修羅場な室内を見て思わず扉を閉めようとする。
女性と目が合った。睨まれる。
多分に憎悪を含んだ視線に寒気が走った。
「…貴女が次のお相手ですの?」
いやおおいに誤解です。
そう言おうとする前に後ろに引き寄せられる。
とん、と背中が当たった先にはアルフォートがいた。
見上げれば大層不機嫌そう。
ほらやっぱり怒るし、というか近い近い。
動揺する美佳を気にもせず、アルフォートは庇うように前に出ると女性とチャーチルに対峙した。
「ソードレス殿、無用な面倒にミカ様を巻き込まないで頂きたい。」
「…というわけでお引き取り願えますかね。これから仕事なので。」
「お待ちになって、話は終わっていませんわ!」
悲鳴に近い真摯な声が胸を打つ。
しかし、肝心の相手にはまったく動じる気配がなかった。
かすかな溜め息。チャーチルの目がほんの少し細められる。
「とうにすべて終わっているのですよ。そういう約束だったでしょう?」
「それは、それでも私は…。」
「これが最後です、イルマリ公爵嬢。お引き取りを。しつこいのは嫌いなんだ。」
いつかの短剣のように鋭い、言葉の刃が抜き放たれる。
美佳は何故か自分が言われているような気分になった。胸が痛む。
他人の前でなぜこんな辱しめを受けなければならないのか。
なぜ大好きな人にこんな冷たい言葉をかけられなければならないのか。
…詮ない同情だ。頭の中の思考を振り払う。
イルマリ嬢は大きく肩を震わせ、ドレスを翻えしこちらに駆けてくる。大きな瞳からは惜し気もなく真珠のような大粒の涙が零れていた。
道を譲りざま、憤怒に彩られた相貌が美佳を見据えている。
ごめんなさい、と目を伏せる。
少なくとも最悪のタイミングで来てしまったことについて、胸中で謝罪した。
チャーチルは彼女の背を黙って見送った後、いつもと変わらない笑顔を見せた。
「さて、じゃあミカ君。どうぞ。」
何がどうぞか。
むす、と唇を尖らせつつアルフォートに視線で合図を送り、扉を閉める。
「おや、騎士は側に置かなくていいのかい?」
「貴方が斬られないようにと思ったんです。呼んだ方が良かったですか?」
「はは、遠慮しておくよ。ところで怒っているのかい?」
「怒ってますけど。気にしないでください。」
そう、例え彼が彼女にどんな仕打ちをしていようと関係ないのだ。
勝手に共感して勝手に腹を立てているのだって当のイルマリ嬢にはいらない世話であろうし、チャーチルに文句を言うのも筋違いだ。
美佳が口を挟むことでもない。
だが腹は立つのでチャーチルには我慢してもらおう。
司祭長は赤毛を指に絡ませながら苦笑した。
「そう。まぁ一応弁明をしておくと、彼女とは割り切ったお付き合いをさせて貰ってたんだよ。」
目線で先を促す。彼は肩をすくめてみせた。
「彼女には普段にはない刺激的な恋を、僕は少々の報酬を。お互い冷や水を用意した火遊びみたいなものさ。彼女はちょっと火消しに失敗したみたいだけどね。」
「そうですか。わたしには関係ですけどね。」
「関係ないってない顔じゃないけどなぁ。嫉妬、じゃないね。そう…同情かな。」
言い当てられ、さらに不機嫌になる。
ああ全くその通りだ。あんな風に振られたらへこむどころじゃない自信がある。
万が一にもあり得ないと思いたいが、好きになったのがこの人じゃなくて本当に良かった。
そう思って口を開く。
「合意の上なら良いんじゃないかと思います。ただ、」
「うん?」
「個人的な気持ちとしては、最低だなぁ、と。」
「っ、ははは。」
チャーチルは嬉しそうに笑う。やっぱり変態だ、この人。
「さて検診を、と言いたいところだけど、助手君が出払ってしまったからなぁ。」
「…いないんですか?」
「ちょっと用事が出来てしまってね。その内戻るよ。」
そうは言うが、二人きりは困る。
アルの言った通りになってしまったと美佳は思わず身を引く。さすがに無理やり、ということは無いだろうと思いたい。
「片付けも終わってないことだし、片手間で悪いけど話でもしようか。」
美佳の気持ちを知ってか知らずか、チャーチルはのんびり呟いて机の上を片付け始める。
いつもなら紙の束や本が乗っているそこは、陶器の器具や植物の種などが散乱していた。
乳鉢から鮮やかな緑がはみ出している。
草の匂いはここから発せられていたらしい。
磨り潰された香草を丁寧に小瓶に詰めながら、チャーチルは語り出す。
「むかしむかし、まぁ今もいないことは無いけれど、森に住みその恵みを受ける人たちがいた。彼女たちは葉から傷薬を作り、枝は魔除けに、花は化粧に、実は病に根は滋養にと、その恩恵を存分に使いこなした。」
小さな引き出しを開けては閉めて、散らばっていた種をしまいこんでいく。
手慣れた仕草で枝の束に紐を掛けた。
「森は深ければ深いほど、精霊の領域に近くなる。そんな中に居を構え、それこそ常人には及びもつかない妙薬の数々を生み出す彼女たちを、人々は魔女と呼んだ。」
乾燥した花を持って振り向いた司祭長は、魔法使いの杖みたいにそれを揺らした。
小さな花弁がぱらぱらと舞い落ちる。
「魔女とは本来、薬草などの扱いに長けた薬師のことを差した。病気や怪我を治すのは彼女たちの領分だった。それが長じて君たち癒し手を魔女と呼ぶようになったわけだね。」
「…チャーチルさんは、その元々の意味での魔女ということですか?」
美佳の問いにチャーチルは口角をあげた。
にやり、という効果音がよく似合う、正解とも不正解とも取れるような表情だった。
「魔女と言うのはね、必ず女性であるとされる。そして一子相伝、あとは自分の森から離れない。」
「じゃあ違うんですか。」
「さぁどうかな。」
む、と口をへの字にする美佳。どっちなの。
からかわれているのか、もしかして喧嘩を売られているのか。
アルを追い出しておいて何だが、先ほどの怒りもあってうっかり買ってしまいそうになる。
そんな美佳を見てチャーチルはやはり楽しげだった。
「ミカ君は、よく怒るよね。」
「貴方にだけですけどね。」
「特別ってことかい?それは嬉しいな。」
「違います。まったく違います。」
前向きなのにも程がある。
いやある意味正しいのか。特別の方向が上向きか下向きかが間違っているだけで。
それはわりと致命的な誤解であるが。
「僕はミカ君のこと気に入っているんだけどね。」
「それは、どうもありがとうございます。」
「つれないなぁ。まぁ君の騎士とは違うかもしれないけど、僕も結構一途なんだよ?」
「さっきのを見たらとてもそうは、というかなんで急にアルの話になるんですかっ。」
「なんでって。君、あれのことを」
「わ、わーわー!」
慌ててチャーチルの口を塞ごうと手を伸ばし、逆に手首を掴まれた。
至近距離でその唇が音を出さずに動く。
一気に上昇する体温を自覚する。
「何と言うか、ミカ君はもう少し嘘をつけるようになると良いね。」
「う、ううー…。」
その言い方はまるで出来の悪い生徒に諭す先生だ。
恥ずかしさから離れようとしても、彼は掴んだままの手を放そうとしない。
がうーと威嚇すればさらに優しく目を細めた。
そこで何でそういう表情をしますか。
本当にこの人は分からない。
美佳の憤慨をよそに、チャーチルはことさら甘い声で言った。
「そんなに嫌がられると燃えるなぁ。」
「はり倒しますよ。」
もうやだこの人。
「まぁまぁ。えぇと何だっけ。ともあれ魔女は癒し手としては薬師を遥かに凌ぐ能力を持つ。病は治せないから、まだ彼らにも役目はあるけどね。」
「病気は、治せない?けど、王妃様は…。」
初めてここに来た日を思い出す。王妃を蝕んでいたあの禍々しい何かは、怪我には到底見えなかった。
病でなければあれは一体何だと言うのか。
「あれは毒と呪いの産物でね。計ったのか偶然なのか、変に融合して普通のやり方では解毒も解除も出来なくなっていた。だから君が呼ばれたんだよ。おかげで王妃殿下は助かって、おまけに虚弱体質まで良くなった。」
「役に立てたなら、嬉しいですけど。」
「役に立ったどころじゃないよ。君はこの国の未来も変えたんだ。誇って良いと思うよ。」
偉い偉い、とチャーチルは美佳の頭を撫でた。
大きな手がさわさわと髪に触れるのは何とも言い難い。
いつかの仕返しだろうか。なるほど、微妙な面持ちになったのも頷ける。
手を頭に乗せたまま、首を傾げる。
「妙に持ち上げますね。何か企んでますか?」
「いいや?まぁ、予行練習だと思えばいいんじゃないかな。」
「何のです?」
「王妃殿下がご懐妊なされた。」
「え」
「ちなみにまだ秘密だから、言いふらさないようにね。」
「いや今まさに貴方が言っちゃってます!」
思わず突っ込む美佳に彼は片目をつむってみせた。
「後々正式に発表があるだろうけど、褒美の一つも貰えると思うよ。今のうちに考えておいたらどうかな。例えば君の騎士がほし」
「ぎゃー!」
ごつ、と鈍い音とともに頭突きをかまされたチャーチルは地に沈んだ。