15
程よく蒸らされた香茶をティーカップに注ぐ。
赤茶色の液体が光を跳ねさせながら、落ちていくのを緩慢に眺めている。
最後の一滴が波紋を描いたのを確認して、砂糖壺からざくざくと白磁の山を取り入れた。
最初こそ驚きはしたものの、今はすっかり慣れてしまっている。砂糖は熱い液体にあっという間に溶けた。
流れるような所作で主の元へ運ぶ。
差し出すと本を閉じ、手を伸ばしてくる。
だがここで油断してはいけない。
どじっ子もかくやと言わんばかりの不器用さを誇る彼は、気を抜くと手を滑らせる。
両手でしっかり受け止めたのを確認して、持参した焼き菓子を机の上に置いた。
そのまま長椅子の、彼が座るのとは反対側の端に腰掛ける。
初めの内は床に座り込んでいたのだが、さすがに見かねたのか相席を許された。他に椅子が無かったとも言う。まあ、大した進歩である。
美佳は肘掛けに背を預け、声を掛けた。
「美味しい?」
「ああ。」
相当に甘いと思われるお茶を、テイワズは事も無げに飲んでいる。
意外や意外、彼は甘党であった。
というよりは文句なしに頭脳労働な彼のお仕事を鑑みるに、単純に脳が糖分を欲しているものと思われる。
そんな風に色々テイワズのことを良く知るようになったのは、これまた単純に図書室に来る頻度が増したからだ。
常に付き従うアルフォートから気兼ねなく距離を置けるのがこの場所だったのだ。
まあ要は、ぶっちゃけ避難所である。
マリーガルドにはいつでも来てください、と言われたが王女様の部屋に入り浸るというわけにもいかない。
その点図書室には大量の書物があり、隣で黙っていても何も言わない、かつこちらの問いかけには答えてくれる主がいる。
かと言っていつまでもこうして逃げているのも駄目だろう。
しかし正直に理由を言うのは到底無理だ。
言葉を濁して離れたい旨だけ伝えるのは…しょんぼりするだろうなあ。
…というか別に離れたいわけじゃない、し。
うぎゃーと頭を抱える美佳。
怪しいことこの上ないのだが、隣のテイワズは全スルーである。そういった突っ込みが無いのもありがたい。
せめてものお礼の気持ちにと持ってきたお茶請けをもぐもぐする。
自分で食べてどうする、とも思うのだが、ついつい手が伸びるのだ。
溜め息が漏れる。
アルフォートはどう思っているのだろう。
あれから彼の態度は変わりない。ちなみに変化ないのは以前の態度と比べて、という意味である。
祭の時のことなど無かったかのように平常運転な騎士を見て、ちょっとしょんぼり、もとい疑問に思う美佳である。
あれは一体なんだったのか。
あれか、一夜の過ちというやつか。助手さんの言っていたお祭り効果だったのかも知れない。
そう思うと一人でどぎまぎしている自分がひどく間抜けに思えてくる。
そうだ、それにそもそもアルフォートには婚約者とかいないのだろうか。
マリーガルドみたいに実は親の決めた相手が、とかあり得る話である。
「アルって、婚約者とかいるのかな…。」
「いない。」
はっきりとした返事が返ってきて、美佳は目を瞬かせた。
「え、知ってるの?」
「報告書に書いてあった。」
婚約者がいるいないが書いてあるって、一体何の報告書だろう。子細が大変気になるのだが、怖いので深く追求するのは止めた。
下手な勘繰りは寿命を縮めるのである。
しかしどれだけ物知り…と言っていいのか、よく分からないが。
せっかくなのでついでとばかりに他にも聞いてみる。
「じ、じゃあ恋人とか、好きな人とかは?」
「いない。知らん。」
「そ、そう…。」
前半に安心して、後半にもやりとする。
恋人がいないのはうれ……いや、もう素直に言おう。嬉しい。
問題は想い人がいるかどうかだ。
これは知りたい。かなり。ぜひ。
ううー、と唸るとテイワズはちらりとこちらを見た。
「アルフォート・パストラルの」
「うん。」
「感情の機敏が報告書に書いてあるか?」
「…ないです。」
ごもっともである。
再び本に目を落としたテイワズの指先をぼんやり眺めながらしょんぼりする美佳。
好きな人。
本人に…聞くのは無理として、知っていそうなのはジャンあたりか。
友人なのだから、そういった相談とかも受けているかも知れない。
問題は彼が以前別れてから、帰ってくる気配がないということだ。
戦況が思わしくないのか、元々あの日々がイレギュラーだったのかは分からない。
戦争が起きるとかいう話は少なくとも美佳の耳には入って来ていない。
ルドルフの部隊の面々もたまにだが、修練場にいるのを見かけている。
彼らいわく、すごく強いという話だったから、あちこち駆け回っているのだろうか。
「…ジャン、帰ってこないかな。」
「そう言えば良い。」
あっさり言われてまたも驚く。
「どうやって?」
「伝令を出す。」
何やら大事である。
というかアルの好きな人知ってる?と聞くためだけに呼び返すのは忍びない。いや怒られる。それはもう確実に。
もうちょっと軽い感じでお願いしたい。
「そうだ、手紙!手紙出せる?」
「ああ。」
さっそくマリーガルドに貰ったお手紙セットが役に立つ時が来た。
大急ぎで部屋にとって返し、持ってくる。
ちなみにアルフォートにはバレないように、ハンカチで包んで運んだ。
こそこそと胸に抱いている時点で怪しいことこの上ないのだが、彼は何も言わなかった。
ただほんのちょっぴり、寂しそうにしただけである。
それだけでも美佳の精神はがりがり削れたのだが。
ところでまだ、手紙を書けるほど文字の勉強は進んでいない。
今はまだ単語を覚えているような状態である。
そして代筆を頼めそうな人は、ここには一人しかいない。
結果、便箋を手に机に向かうテイワズという構図が完成した。
ある意味希少な光景である。
「ごめんね!このお礼は必ず!」
「ああ。」
拝み倒すまでもなく、テイワズはペンを手に取ってくれた。ありがたい限りだ。
さて何と書こう。
いざ事を運ぼうとすると悩む。
アルの好きな人って知ってる?とかストレートすぎるし。
いやまず礼儀として季節の挨拶から入るべきだろうか。
一方的に質問するのもどうかと思う。ジャンの近況とかも聞きたいかも。
むー、と悩むそぶりを見せるとテイワズがぽつりと言った。
「規程では100字以内になっている。」
「規程?」
「第14条2項。特一級秘匿文書についての規程事項。内容は簡潔に、約100字以内が望ましい。」
あれ、何だか物々しいのですが。
おかしいな、わたしは手紙を書きたいだけなのに。
「特一級秘匿文書って何?」
「一部の人間しか閲覧出来ない機密度の高い文書だ。」
「…他に誰か読むの?」
「王族と将軍位、宰相、第一位の家臣と」
「あっ、もういいです。」
多すぎて、そしてあからさまにお偉方すぎて思わずひきつる。
大体王族という時点で美佳的には無しである。
マリーガルドならともかく王様や王弟殿下に見られたら恥ずか死ねる自信がある。
文字数制限もあることだし、いっそ呼び出しだけにしよう。
美佳は深く頷いた。
「えーと、ジャンへ。相談したいことがあります。余裕があったら戻って来てくれると嬉しいです。美佳より。」
さらさらとペンが動く。
覗いてみてもさっぱりだが、名前だけは判別出来た。
便箋を丁寧に折り畳み、封筒に入れる。
押された印璽は本と羽ペンの意匠だった。分かりやすい。
ベルで呼び出した侍従に渡すと、廊下を駆けていった。
…大事になってないよね?大丈夫だよね?
ひとまずやることはやった。
後は返事なり帰還なりを待つだけである。
美佳は早くも元の体勢に戻っているテイワズに微笑んだ。
「ありがとね、ティズ。」
「ああ。」
「肩でもお揉みしましょうか。」
「いらん。」
尽くし甲斐のない人である。美佳はすごすごと椅子に座る。
わたしも本読もう。絵本くらいなら何とか読めるものもあるのだ。
それにしても何でもある図書室である。
お堅い本ばかりかと思ったら、たまに小説やこうした絵本なども混じっている。
誰が選んだのか、というか選別がされていないように感じる。かなり無差別だ。
ふと、思い付くことがあった。
「あの、ティズ。…ここって、れ、恋愛小説とかあったりする?」
顔が赤くなるのを自覚しつつ問いかける。
この世界のそういった事情について、参考になったりしないかな、などというちょっとした好奇心である。
それに興味があるものの方が言葉が覚えやすいかも知れないではないか、と無理やり理論武装する。
「ある。」
「あ、あるんだ。そう…。」
美佳は本棚を見て、続く言葉を飲み込んだ。
この中の、何処かにあるのだろう。何処かには。
見つけ出すまでにどれだけかかるだろう。
目眩がする。
しかし諦めては何も変わらないのだ、と立ち上がりかけて、ぴたりと止まる。そろそろと浮いた腰を降ろした。
横目で図書室の主を伺う。
「ティズ、もしかして読んでたり、する?」
ぱたん、と本が閉じられた。
「ごごごめんなさ」
「メルヴィは」
「い?」
テイワズは前方を見たまま口を開いた。
「かじかむ手にそっと息を吐きかけた。極冬は越えたものの、まだ寒さの残るこの時期。洗濯当番は侍女の間では良く新人にまわされる仕事のひとつだった。王城に勤め始めてようやく二年目に差し掛かった彼女は、ここではまだその新人として扱われる。冷たく湿った衣服を固く絞り、音を立てて引き伸ばす。」
他人には死んだ魚のように見えるかも知れないが、美佳はその目に彼方遠く、だが確かに物語を見た。
一介の侍女であるヒロインが薔薇の騎士と呼ばれる貴族の男性と偶然出会い、恋に落ちる。
騎士も普段接している令嬢たちとは違う、ヒロインの素朴な人柄に触れやがて想いを通わせ合うようになる。
しかしその身分の差から数々の障害が二人に襲いかかる!スベクタクル!
お経並の、いやまだお経の方がましであったろう息つく暇なく抑揚もない朗読に美佳はしばしそれを止めるのを忘れた。
あまりの事態に凍りついていたとも言う。
話変わってメルヴィとお相手の貴族が二度目の逢瀬を重ねたあたりでようやく我に返った。
ひたすらに語り続けるテイワズの肩を揺さぶる。
「ティズ、ティズ。あのですね、もう少し要約して頂けると助かるのですが。」
テイワズは肩におかれた手を見、次に美佳の顔を見た。
よく見るとその瞳は茶色に黄緑の混じったような不思議な色をしている。
いやそれは置いておいて。
「メルヴィは貴族と結婚した。」
盛大に端折った。
まあ、期待するのも酷というものだろう。
それよりもこれだけ話したことに驚きである。今まででぶっちぎりの最長記録だ。一生分くらい喋ったのではないのだろうか。
うっかり聞き入って?しまったが申し訳ないことをした。
「あ、ありがとう…。わざわざごめんね。お茶のお代わり入れようか?」
案の定というか何というか、黙って頷くテイワズ。
このままずっと話さなくなったらどうしよう。
ともかく早く文字を覚えよう。
美佳は心に固く誓った。