魂の性格の証明と聖書と法律と神の存在について
魂をレベルアップさせる方法は、今までの魂グループ以外の魂と交流し、自分が成りたい性格に成れたのか証明する事でレベルアップする。
そして、神様が居るか居ないかによって、証明できる事柄が違っている。
証明できる事柄とは、殺す事、盗む事、奪う事、犯す事、束縛する事、所有する事などなど多岐に渡っている。これらに関する自分の性格を証明する為に、神様が居ると知っている時と居ないと思っている時では、証明できることが変わってくるのだ。
ますは、殺す事を肯定する事、殺す事を否定する事で考えてみよう。
殺す事を否定するという事は、聖書や法律で人を殺してはいけないという事を守るという事になる。聖書や法律があるから守る。これは、自分の性格の証明には成らない。聖書や法律が無い状態でも守るのか証明が出来ない。
また、神様が見ていると思っている時でも、神様が見ているから守っているのか、見ていなくても守るのか判断が出来ない。
殺す事を否定する時には、聖書も信じていない法律も罰があるから守っている。神様は居ないと思っている。この状態で、人を殺したいと思える場面に出くわした時、殺さない選択をする必要があるのだ。
私の場合は、それを試された。酔っぱらって前後不覚になり、理性が働かなくなり聖書も法律も忘れて神様は居ないと思っている状況で、殺意を覚えた。実際に殺す事は無かった。相手が殺されて苦しむと思った時点で殺意は消えていた。
殺さないを証明するには聖書も法律も神様も無い状態でも殺さない。
これでしか証明できないのだ。そんな状況は稀だし、仮に証明できなかったら刑務所行きだ。なので、まともな人生を歩んでいる場合は、人生で一度きりのチャンスとなる。私は、そのチャンスを無駄にしなかった。
ちなみに、犯罪者組織に所属しているとか戦場に強制連行されるといった特殊な状況に居る場合は、何度もチャンスはある。
逆に、殺す事を肯定するには、聖書を知っていて法律も大切だと思っていて、神様が存在すると知っている時でなければ証明できない。それでも殺していいと思って実行できなければ嘘になる。聖書で禁止され法律で禁止され神様も見ている時に「それでも私は殺しを肯定する」と言えなければ、殺しを肯定したとことには成らない。
その上で、法で裁かれ死刑が確定し、反省の期間として自由を奪われ刑務所で何十年も過ごし、遺族に責められ家族にも責められ刑務官にも法律家にも聖職者にも責められて、それでも死の瞬間まで間違っていない。自分が殺される事も間違っていない。間違っているのは神様であり、聖書であり法律だと思って死ねたのなら、殺す事を肯定した事になるのだ。
ここまで話を聞いて、殺す事を肯定する事も否定する事も大変だと感じたとおもう。
なので、霊界に所属する為に一番のネックになるのが、この殺しに関する証明だったりする。殺人事件の多くは、この証明にチャレンジした魂のせいで起こっている。殺す事の否定に失敗した者は酒か薬で理性を失ってやってしまう。殺す事の肯定にチャレンジし、シリアルキラーになるが、見苦しく死刑を逃れようと足掻く。
殺す事の否定に成功すれば、事件にはならない。殺す事に肯定に成功すれば、裁判で起訴事実を認め、反省の弁は述べず。自身は正義を貫いたと言って死刑に望むだろう。
極端な例を挙げたが、神様が存在を証明してくれないと思っている人は、聖書や法律や神様が定めた正しさを証明する為に生きている可能性がある。そして、その証明はまだなされていない。
魂が定めた証明したかったことが全て証明できた後なら、神様は居ると姿を現してくれるだろう。
自身の性格を証明する為に神様の存在を知っていると邪魔になる場合は、殺し以外にも多く存在しているので、神様に会うためには色々な試練を越えなければ成らない。
自分がまだ未熟だと感じているのなら、まずは自分を完璧ではないにしても神様に見てもらっても『恥じるところはない』ぐらいには成らないと会えないのかもしれない。この時に、過去に行った失敗は恥じる必要は無い。以前は出来なかったが、今は出来ているのなら胸を張って良い。




