選択
「そもそも……【無式】がなんなの? 何が傑作なの? 彼はワタシみたいに生物兵器として造られたわけ? 違うでしょ。彼はヴィコラのためにどんなことだってできたけど。それは刃になるためなんかじゃない……」
ジン・ジェスターの理由を、メリアは嫌というほど見せつけられていた。思い出すだけで顔が赤くなってくる。恨めしくて、羨ましい記憶の断片。
ヴィとジンの小さな言葉。
――大穴から入ってくる月明かりの下で、珈琲の匂いがするなか口元を濡らしたお酒が凄く美味しいとか。何もすることがなくて、ただ薄汚い部屋で一緒にいるだけで心が、すごく、助けられていくとか。
ヴィコラとジンのおまじないのような言葉。
――買ったばかりなのに傷をつけたテーブル。地下だった所為で届かなくなったホログラムのノイズ。雨の日に滴る地下水の音。少しカビついた臭い。
――一緒にいるから好きになれる。
ジンはたしかにそう言っていた。……ワタシにではないけれど。
メリアは僅かに表情を歪めた。けれども、すぐに飄々と、地の底でジンがそうしてくれたように笑みを浮かべる。
……ワタシの知らない思い出は聖域のように眩しくて、縋りたくなるものだった。けど割り込むことはできない。ぎゅっと、槍の柄を握り締める。
「ジンは……ただ一緒にいたかっただけで。透き通った殺意だとか、アメウズメの銘だとか。それは貴方の望みでしょ? ……【錆染】。あなたは――ヴィコラのことが大切だったから、何も変わらないでほしかったんでしょう? 思い出のままただじっとしてほしかったんでしょう?」
つらつらと言葉が溢れ出る。【嘲り舌】で注がれた追憶のなかにあった【錆染】の意識を晒し上げて、感情の刃で躊躇うことなく刺し貫く。
ヴィにもジンにもできないことだとメリアは確信していた。
全てを灼き切った部外者にしかできないことだから、なにもかもを露わにしていく。ジンの選択が間違いでなかったことを示すために彼の心を抉り抜いていく。
「けど、ごめんなさい? ワタシはきっと貴方の想うジンをなまくらに変えたわ? 大切なものを壊してしまって……取り返しがつかなくて。――それでも、彼が珈琲を飲むところを隣で見る約束をしたの。外に出て、自由にしてもらえるよう依頼をして、彼は引き受けてくれたわ?」
それはさながら自慢だった。醜い独占欲だ。ワタシが彼を上書きしてやるんだと。未だ残る光の残滓に訴えかける。不安げに、しかし力強く胸を押さえて熱を帯びながら。メリアは言葉を続けていく。
「瓦礫を踏みしめる音とか、遠い潮の匂いとか。美味しくない珈琲の味も。……夜の雨の冷たさも。ジンはワタシと一緒に感じてくれたわ? 曖昧で自由になった先に何をしたいかも分からないワタシに、ずっと、ずっと着いてきてくれたわ?」
おまじないのように小さな言葉を紡ぐ。それは一方的な感受性かもしれなかったけれど。メリアは構わなかった。
「わからないことだらけだったけど。それでもジンは言ってくれたもの。ワタシを他に渡したくないって。だからワタシは本当に、ジンが地上で珈琲を飲んで、隣でそれを眺めて――何か変われたか聞かなきゃいけないの。お酒だって飲まなきゃいけない。ポスターにあったみたいな水着を着て海にだって行く必要があるの。それで、そこに……ジンがいてくれないと嫌だ」
些細な約束。曖昧に口にした願いのリスト。皮算用。言葉にすればするほど、……【錆染】の表情が歪んでいく。
「怪物、お前は自分がしたことを忘れていないか? 苦痛の元凶はお前だ。ヴィコラを光で呑み込んでおきながら、お前が怪物として振る舞わないから生まれた痛みじゃあないのか?」
【錆染】はへし折れた槍を深く構えた。切っ先が欠けようとも、不死の呪いの消えたメリアを仕留めるのに大した力もいらないだろう。
響く鐘音のなか錆の砂塵が広がっていく。
「ええ、そうね。ワタシは自分勝手な願望で全部ぶっ壊したわ? だから止まっちゃいけないの。ジンは何度もそう教えてくれたのに、ワタシは何度も立ち止まっていたわ? ……後悔することがあっても、無駄死ににだけはしちゃいけないの。だから自由になることにした。貴方は償うべきだって言ったけれど。ごめんなさい? 嫌」
一歩、もう半歩。図々しくジンの隣に立つと、ぼろぼろの身体を支えた。
「ジンを過去に引きずり込まないで。諦めないといけないなんて許さない。苦痛ばかりじゃないといけないなんて絶対に許さない。……ジンが自分で選択するならワタシは喜んで殺されるけれど。今ここにある殺意は――あなただけよ。【錆染】」
鋭い翡翠の眼差しが、ジッと【錆染】を見据えた。
不死の呪いが消えた今、全身を晒す悪辣な殺意を前に本能が悲鳴をあげている。華奢な脚は震え、どれだけ強気に言葉を発しても流れ落ちる冷や汗を隠すことはできない。
【錆染】は言葉が終わるまでただじっとしていた。ジンも同様だった。これで終わっちゃいないことを確信していたから、少しでも気力と体力を回復しようと僅かな時のなかで睥睨が交錯していく。
「……はは。そうだな。その通りだ。なまくらじゃあないのはオレ一人だ。オレは選ぶことはできるぞ……。ヴィコラの遺したものだけを選ぶ。槍も壊れたが、へし折れたって殴ることはできる。それも壊れたなら踏み躙る。それで……お前らはどうやってオレを止めるんだ?」
【錆染】は決着をつけるつもりだった。ジンが選ばなかった選択を、彼は躊躇うことはないだろう。
「あなたが諦めるまで手足をへし折ってでも」
「…………どん底に落ちてみろ。足は止まるさ」
それぞれの言葉を前に、今再び激情が戦慄く。
一瞬にして渦を巻く錆の砂塵。悪辣な視界を切り裂くように亀裂が塵を消し飛ばして、互いの領域を拒絶していく。
「これ以上落ちるところはないだろう!? その怪物がヴィコラを殺したときから、とっくに終着点だったんだ! 違う道に向かうことはあり得ない!」
槍先が間合いに触れた。
軸足が地面を踏み砕いて、錆び折れた槍が投げ放たれる。
「ッー!」
メリアは双眸を見開いた。光輝する眦。響く鐘の音。正面から槍の切っ先を打ち付け、一条の閃光が向かう錆ついた槍を消し飛ばす。
同時、錆色が残像を描いて眼前から失せた。横へと跳び、不死の呪いの抽出を行っていた機械へと腕を伸ばす。
徒手が金属板を貫いて――強く、何かを鷲掴んだ。
「ジン・ジェスター、オレ達にとってその女は疫病神でしかない。状況が打破されたと想うか? 逆だよ。これでチェックメイトなんだ。これも奴らからしたら観測事項か? 人が不死性に耐えうるか。見ものだな……」
紫紺の飛沫が舞った。飛び散る電光。
【錆染】は取り出された不死性を握り締め、――呑み込んだ。
ジンとメリアの腕に呪いの痣が刻まれていく。【錆染】は如何なる傷も受けることはないだろう。代わりに傷つくのはジンとメリアだ。
だから次の一手も分かり切っていた。
「これで終わりだよ……。ジン…………メリア!!!」
らしくもなく【錆染】は叫んだ。
飛び散った結晶の破片を握り締めて、自らの頸元へと突き立てんとする。
――――他に選択はなかった。
「お前が選べなかった選択を、……選べばいいんだろう」
ジンは力なくぼやいた。
途方もなく溢れ出る涙を隠すことはできない。痛みに嘘をつくことはできずに、歯を軋ませた。
それでも眦を決して、亀裂を広げていく。
親友に苦痛を与えることになるだろう。
選ばなければならない。
……離れたくない。一緒にいるから好きになれるのだから。
だから停滞していた。だが今なら分かる。離れることはないだろう。苦痛だけはずっと残り続ける。いつか和らぐこともあるかもしれないが――背負う限りは重くそこにある。
――だから、選ばなければならない。
止まった時のなかで遠くへ行ってしまった光を眺めるか。
海へ行き、珈琲を飲むか。
こみ上げる自嘲。もう迷うことはなかった。
数瞬もない僅かな時のなかで、【嘲り舌】もないというのに追憶が巡り続ける。逡巡しているわけではない。
決別するように、別れを告げるように息を呑んだ。吐く息が上擦っていく。
どうしようもなくこみ上げる嗚咽を無様に晒していた。
震える腕を突き伸ばすと、苦痛を背負うようにメリアの手が腕を掴んだ。――震えが消える。……消えた気がした。
「……ありがとう」
小さな言葉が苦痛を貫いた。
そのまま亀裂を引っ張るように、虚空のなかに押し込んでいたヴィコラの棺を取り出していく。
「……ッ、何をする気だ」
血肉を刺す刃を止めて、【錆染】は震える声で尋ねた。血まみれの相貌は一転して、怯えるように引き攣っていく。
ジン・ジェスターは静かに視線を向けた。
激情を燃やし、異界道具の血と共鳴していく。
「止められる時は一つだけだ」
――――ガシャンと。
空間が揺れた。停滞していた時が砕けていく。




