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千春の家は、なかなか広い。
紗和子は、まず薫に家の中の案内を頼んだ。すると薫は紗和子の手を取って、嬉しそうに案内役を買って出てくれた。
紗和子が泊まった部屋は、玄関のすぐ脇だ。部屋の北側は、居間と台所があり、その部屋の向かいは、二間続きの和室がある。
和室を囲むようにロの字型に廊下があって、家の北側は洗面所、トイレ、脱衣所、お風呂、と水周りが整えられている。
手前の和室は、応接室として使っているようで、長机が置かれて座布団が部屋の隅に重ねてあった。その奥には床の間付きの座敷があるが、洗濯物の小さな山がいくつか形成されている。
昨日、箒とちりとりを出した納戸の横には階段がある。丁度、床の間の真裏あたりで、昔ながらの傾斜のきつい階段が上へと続いている。
その階段の向こうにはまだ部屋がある。
「ここもお部屋ですか?」
物置か部屋かという意味を込めて薫に尋ねる。
薫は、うんうんと少し悩んでから、襖を開けるふりをしてから、腕でバツを作った。そして、おもむろにペンか何かを持って何かを書くようなそぶりをみせた・
「むむっ、待って下さい。解読しますから。もう一回お願いします」
紗和子のリクエストに応えて、薫は先程と同じ動きを繰り返した。
おそらく、入ってはいけないと言われている部屋なのだろう。それで何かを書いている。何か、何か。
「あ! 分かりました。ここは千春さんのお仕事部屋ですね!」
薫が正解と腕で大きな丸をつくってくれた。
「お仕事部屋だから、入っちゃいけないんですね?」
紗和子の問いに薫は、首を横に振った。
そして、何を思ったのか、当たり前のように薫は襖を開け放った。
どんな仕事にも守秘義務というものは存在する。彼にだってそういったものがあるのではと慌てた紗和子だったが、部屋の中を見て愕然とする。
「え……千春さんはどこでどうやってお仕事を……?」
日が当たらない部屋を選んだのは、おそらく莫大な量の書籍が日に焼けないようにするためだろう。八畳ほどの部屋はぐるりと本棚に囲まれている。だが、その本は本棚からも溢れかえって、そこら中に薫と同じくらいの高さまで塔を築き上げ、家庭用のコピー機付近は、印刷されるもそのまま落ちた紙が散らばり、部屋の奥にある文机の上はノートパソコンの周り、本当にその僅かな周りだけ何も置かれていないが、あとはとにかくありとあらゆるものが溢れているし、ぐしゃぐしゃに丸められた紙がちらばり、本の塔の隙間には綿埃がたまっている。
千春の職業のことはよく知らないが、在宅だと言う証言とこの部屋を見る限り研究職とか小説家とかそういうものかなとは推測できる。
茫然とする紗和子を他所に薫はそっと襖を閉めた。
「……危ないから入っちゃダメなんですね」
薫が、こくんと頷いた。
乱雑に積み上げられた本の塔は、何かのはずみであっけなく崩れるだろう。紗和子の見間違いでなければ、二、三、既に本の塔は崩れていた。
「ええっと、二階を案内してもらってもいいですか?」
気まずい空気をどうにかしようと口を開く。薫は、くいっと紗和子の手を引いて階段の方へと歩いていく。
昔の階段はどうしてこうも急なのだろうかと首を傾げながら、紗和子は薫の後について階段を登っていく。
二階には、部屋が二つあるだけだった。
L字型の廊下は、南側が廊下になっていて、窓を開けるとすぐ屋根だった。なかなかに危ない作りだが、建てられたのが何十年も前なのだろうから仕方がないのかもしれない。
階段を上ってすぐの部屋は、薫の部屋だとすぐに分かった。
畳の上に桜色の絨毯が敷かれてピンク色のカバーが掛けられたベッドがある。まだ勉強机はないが、飴色の小さな丸テーブルが置かれていて、白いソファクッションが傍に合った。
小さいが本棚もあって、たくさんの絵本とお絵描きの道具がしまわれている。本棚の隣にはクローゼットがあった。どれもこれも可愛らしくておしゃれな家具だ。
その隣の部屋は、千春の寝室のようだった。薫の部屋とは直接は繋がっていない。でも、薫が一緒に寝ているのだろう。畳の上には二組の布団が敷かれていて、枕元には絵本があった。
「んー、まずはお掃除をしましょうか」
家政婦として雇われているのならば、この明らかにくたびれている布団のカバーを洗って、敷布団は屋根の上に干したいが、今は家政婦でも何でもないので寝室の襖を閉める。
だが、紗和子自身が借りた布団は別だ。
一階に降りて、まずは借りた布団を二階へもっていって、屋根の上に広げ、洗濯物を庭の物干し台に干す。
それから奥座敷の洗濯物を片付ける。どれもこれも洗って干して、取り込んだもののようだった。単純に片付ける暇がなかったのだろう。
薫は、熱心に紗和子のお手伝いをしたがるので、紗和子も薫に洗濯物の畳み方を教える。まずは一番簡単なタオル類を任せる。
紗和子は、時折手助けをしながら、自分も手を動かす。
薫の服と二人分の下着類、他にバスタオルなどといった洗濯物はあっという間に片付いていく。おそらく千春は、着物の類はクリーニングにでも出しているのだろう。
洗濯物をそれぞれ片付けたら、部屋の掃除を始める。縁側の窓を開ければ、空気が気持ちいいくらいに入れ替わる。はたきをかけて、ほうきで廊下を掃いて、雑巾をかける。
薫は、今日もタッタッタと軽やかに廊下を行ったり来たりしながら、雑巾がけをしてくれている。幼児のあの身軽さが羨ましい。そんな薫の後を春ノ助が、じゃれるように追いかけている光景は微笑ましかったので、動画に撮った。あとで千春に見せようと思う。
薫は、大人――主に千春のこと、をよく観察しているのが、一緒に過ごしていると分かる。どこに何をしまうのか、何があるのか、薫に尋ねると薫は悩みもせずに答えてくれる。喋れないので、基本は、表情とジェスチャーだが、なんだかんだと伝わるものだ。
紗和子は、縁側で楽しそうに春ノ助と戯れる薫を横目に入れつつ、手を動かし、畳を乾拭きしていく。
この家は一見、掃除はしてあるが細部までは行き届いていない。
千春は、家事が苦手だと言っていた。
半年前までは悠々自適な一人暮らしだったのだから、薫が来た当初は大変だっただろうな、というのは僅かに話を聞いただけの紗和子にだって分かる。
とととっと足音が聞こえて薫が傍にやってくる。どうやら雑巾がけが終わったらしい。黒く汚れた雑巾を掲げて誇らしげだ。
「ふふっ、頑張りましたね」
頭を撫でたいが、掃除をしていた手なので我慢する。
「それじゃあ、雑巾を洗って……」
ゴーンと玄関の古時計が一度だけ鳴った。先ほど、十一回、鐘が鳴った。あの古時計は、三十分になると一度だけゴーンと鳴るらしいので、十一半ということになる。
「そろそろお昼の時間ですね……手を洗ってご飯の支度をしましょうか」
紗和子の提案に薫は、うんと頷いて春ノ助と共に楽しそうに洗面所へ駆けて行った。
昼ご飯は、簡単にレタスチャーハンとスープを作った。今日も卵は薫が割ってくれた。
薫はチャーハンもスープも美味しそうにぺろりと平らげた。だが、今度はお腹がいっぱいになると眠くなってしまったようで、紗和子が台所で片づけを済ませて居間に戻ると座布団の上で春ノ助を枕にして眠ってしまっていた。
その愛らしい光景を写真に収めてから紗和子は、薫に毛布を掛け、そっとしておくことにした。
薫が眠っている間にお風呂やトイレの掃除をして、屋根の上に干して置いた借りた布団をとりあえず一階の玄関脇の部屋に畳んで置いておく。
それから薫の下に戻って、紗和子は、その寝顔を眺めていた。
出来るならば、薫が眠っている内に帰りたいのだ。
どうしてかよく分からないが、薫には紗和子にとても懐いている。昨日出会ったばかりだというのに、紗和子のあとをついて回って、可愛い笑顔を向けてくれる。
今朝も紗和子が「帰る」という言葉を口にしただけで、薫は紗和子にしがみついて離れなかった。午後までの約束をして、ようやく離れて朝ご飯をたべてくれたのだ。
「糸」を見れば、何か分かるかもしれない。だが、あれは心のあり様を示すもので、心の中身については紗和子が自分で推測するか、本人に直接話を聞くかだ。
それにどうしてか紗和子は薫と、そして千春の「糸」を見る気にはどうしてもなれなかった。思考の片隅で「まだ見てはいけない」と何かが訴えかけてくるのだ。
紗和子は、そっと薫に手を伸ばし、柔らかな頬を指の背で撫でた。薫は、すやすやとあどけない寝顔を浮かべていて、とても可愛らしい。
まだ出会って一日だ。それでも、これだけ素直に真正面から好意を示してくれる可愛い薫を嫌いになれるわけもない。ただひたすらに可愛い。
だが、お仏壇を振り返れば、薫の両親が幸せそうに笑い合っている。
薫は、さらさらの髪は母譲りだが、顔立ちは父親によく似ているように思う。
望まれて、愛されて、そうして薫は産まれてきたのだ。
薫の両親を想うと胸が痛む。きっと彼らが最期に想ったのは、薫のことだろう。いや、天国にいる今も絶えず薫のことを想っているに違いない。
昨夜、紗和子は千春が持ち掛けた契約結婚の条件である「護ります」という言葉に心が揺れた。
一度は、その言葉通りに千春はあの異常な婚約者から見ず知らずの紗和子を護ってくれた。あの時感じた安心は、紗和子にとっては初めての感覚だった。
だが、薫を想えば、薫の両親を想えば、とてもではないが傍にいることは出来ない。
紗和子の自称婚約者は、本当に異常な人だ。
不可抗力で見えた彼の「糸」はこれまで紗和子が一度だって見たことのないような、ただひたすらに恐怖を感じる歪なものだった。
きっとあれは、薫や千春に危害を加える。
紗和子になにかある分には、自業自得だ。なにせ自分の父がきっかけを作ったのだから。心の底から憤りは感じるが、それでもやはり身から出た錆だと言ってしまえばそれまでなのだ。
職もない。二日後には家もなくなる。財産も雀の涙。考えれば考えるだけ、胃がきりきりする。千春の言葉に乗ってしまいたい気持ちだって、紗和子の中にある。
でも、薫を前にすれば「はい」と頷くことなんてどうやってもできないのだ。
「……大丈夫。大丈夫です、紗和子、貴女は一人で生きていける強い子です」
いつもの言葉を言い聞かせるように呟き、紗和子は薫とそして春ノ助の頭を順に撫でた。
「……せめて、お夕飯でも作り置きをしておきましょうか」
そう思いついて紗和子が腰を上げた時だった。
「薫、紗和子さん、ただいま戻りました」
不意に玄関から聞こえてきたその声に紗和子は、薫を起こさないように気を付けながらも慌てて居間を出る。
案の定、玄関にスーツ姿の千春が、朝と変わらぬ穏やかな笑みを浮かべて立っていた。
ただ何故か、彼は小さな段ボールを小脇に抱えていて、更には彼の背後にも同じように段ボールを抱えた女性がいたが。
「ち、はるさん?」
「はい、ただいま戻りました、紗和子さん。薫はお昼寝ですか?」
「え、あ、は、はい。一時間ほど前から……」
「とりあえず荷物は奥座敷に運びましょうか。縁側のガラス戸を開けてもらってもいいですか?」
相変わらずのマイペースさに紗和子は、混乱しながらも反射的に頷いて、縁側に行きガラス戸を開ける。
何故か庭先に小型のトラックが停車している。そのトラックには「お引っ越しなら ハヤブサ運輸!」と描かれている。紗和子も知っている有名な引っ越し業者だ。
その引っ越しのトラックから、奥座敷に段ボール、見覚えのある家電、そして、見覚えのあり過ぎる桐箪笥が運び込まれる。スタッフは全て女性だと言うのに、桐箪笥も彼女らの手によって。ものともせずに運び込まれた。
あっという間にその作業は終わり、スタッフたちは「ありがとうございました!」と元気な挨拶をして、颯爽と帰って行った。
「あ、あの……これ、私の部屋の荷物ではありませんか?」
間違いなく自分の筆跡で「春ノ助関係」と書かれた段ボールを指差す。
いつのまにか紗和子の隣に立っていた千春は紗和子を見下ろすと「そうですよ」と事も無げにいった。
なぜ、千春が紗和子の荷物と共に帰って来るのか、訳が分からない。
「薫はどこに?」
「い、居間で春ノ助と一緒にお昼寝を」
「そうですか……では、応接間でお話をしましょう。僕は着替えて来ます。洋装はなれなくていけませんね」
そう言って千春は、二階へと行ってしまった。
取り残された紗和子は、とりあえずお茶の支度でもしようと台所に行く。お茶の支度を終えて、居間の障子を開けて応接間から見えるようにして戻れば、既に着物に着替えた千春が座っていた。
紗和子は、お茶を出してから長机を挟んで千春の向かいに置かれた座布団に座る。
「喉が渇いていたんです。ありがとうございます」
そう言って千春は、お茶を啜った。
紗和子は、開け放したままの奥座敷に視線を向ける。間違いなく紗和子の荷物だ。
引っ越しが迫っていたので、最後まで使うもの以外は全て段ボールに詰めてあったので、間違いない。それに紗和子の何より大事な桐箪笥を見間違えるわけがない。
「さて、どこから話しましょうか」
お茶を飲んで一息入れた神妙な面持ちで千春が口を開いた。