↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/19

2-3


 千春は少し悩むようなそぶりを見せた後、口を開く。


「僕は今日、紗和子さんの元職場とアパートへ行ってきました」


「どうして千春さんがそんなところに……?」


「貴女を護ると約束したからです」


 千春の言葉の意味が分からず紗和子は首を傾げる。


「実は昨日、紗和子さんを助けた時にも薫は傍にいたんですよ」


 その言葉に息を呑む。


「というか、最初に異変に気付いたのは薫なんです。昨日は、薫の定期健診の日だったんです。いつも病院の帰りに薫の好きなプリンを出してくれる喫茶店に寄るんです。喫茶店はあの公園の近くにあったので、そこでお昼ご飯を済ませて、公園で桜を見て帰ろうとしていたんです。その際、薫が異変に気付いて、僕は近くでお花見をしていたお母さん方に薫を預けて貴女のもとに行ったのです。ですから、薫の存在をあの男性は知らないので安心してください」


 千春が気づかわしげに言った。

 紗和子は「はい」と返事をしたが、その声は随分と弱弱しいものだった。


「貴女の勤め先は、昨日貴女自身から聞きましたね。だから僕は、そこへ行って、社長さんとともに貴女の部屋に行きました」


「はい。でもそれが何でこんなことに」


 紗和子は奥座敷をちらちらと見ながら言った。


「ですから、貴女を護るためです」


 そう言って千春は、懐からスマホを取り出して、とんとんと指で画面をタップして操作すると、すっと紗和子の前に差し出した。

 その画面を覗き込み紗和子は息を呑む。

 そこには紗和子のアパートの部屋の前に立つ綾小路の姿があった。


「な、ど、どうし……っ」


 ぐわんと恐怖に息が出来なくなる。

 あの男は、既に紗和子の部屋を突き止めたのだ。いや、最初から知っていて、部屋にいなかった紗和子を探していたのかもしれない。

 スマホをしまい立ち上がった千春がすぐに隣に来て、紗和子の手を握ってくれた。


「すみません。説明してから見せるべきでしたね」


 もう片方の手が子どもをあやすように紗和子の背をとんとんと叩いてくれた。紗和子は、知らず止まっていた呼吸をどうにか落ち着かせながら、小さくお礼を言う。


「……昨夜も言いましたが、あの男性は、初対面の僕でも異常だと感じました。紗和子さんは、自分の情報をお父上がリークしたのではと言っていたので、家もバレていると思ったのです。案の定、部屋の前で貴女が帰って来るのを待ち伏せしていました」


 千春が、助けてくれなかったら、昨日、泊まって行ってくださいと言う彼の言葉を無視していたら、とそう考えるだけで体が勝手に震えだす。


「僕は少々、警察に顔が効くので、警察に来ていただいて彼を……綾小路さんに職務質問をかけてもらったんです。やましいことがあったのか、彼が暴れて警官を殴ったので、今は公務執行妨害の容疑で現行犯逮捕されて、とりあえず留置所です」


「た、逮捕」


「とはいっても公務執行妨害の留置期間は最長でも四十八時間ですし、彼は良家のご子息だそうですので、まあすぐに出てくるでしょう」


 紗和子は、千春の言わんとしていることが分かって俯く。確か綾小路家は、政界に関わる家だとかなんとか父が電話の向こうで自慢げに言っていたのを思い出す。


「ですが、それでも……彼が馬鹿だったおかげで、時間が出来ましたので、僕は、一緒に来ていた社長さんに紗和子さんの部屋を開ける許可をもらって、早々に荷物を運び出したわけです。引っ越し業者は友人に無理を言って女性向けサービスを頼みました。全て女性スタッフが残っていた荷物も片付けてくれましたので。僕は見ていただけですよ」


 紗和子の頭は混乱したままだ。

 どうして千春は、紗和子の部屋に入る権利を社長にもらえたのだろう。

 社長は、はっきり言って馬鹿なことをしでかしたどうしようもない人だが、綾小路から紗和子のことを秘密にしてくれる程度の常識と人情は持ち合わせている人だ。

 黙ったままの紗和子が考えていることが分かったのか、千春は困ったように頭を掻いて、そろりと視線を逸らした。


「……紗和子さんの婚約者だと、そう言って許可をもらいました」


「……社長は信じたのですか?」


 綾小路の時は紗和子が言う前に「あれ、やばいやつでしょ?」と見抜いた社長が、どうして千春の嘘は見抜けなかったのかと首を傾げる。


「写真ですよ。今朝撮った写真。あれを見せたら納得してくださいました」


 写真と言われて、紗和子はそういえば今朝、千春に肩を抱かれて頬を寄せ合い、薫に写真を撮られたのを思い出した。あまりに近い距離を思い出して、紗和子は頬が熱くなる。

 すると何故かつられて千春も頬を赤くしてそっぽを向いた。大きな手が紗和子から離れていく。


「……社長さん、浮気をして会社を潰したと聞いていたので、どんな方だろうと思っていたのですが……心配していましたよ、紗和子さんのこと。帰る所のない貴女から、仕事だけでなく、家まで奪ってしまったことを悔いていました」


 社長は、紗和子の身の上を少しばかり知っている。

 社長は、どうしようもない馬鹿ではあるが、優しい人でもあるのは間違いなかった。だから、ひまわり紹介所の家政婦たちは、生き生きと働いていた。


「写真の中の紗和子さんが笑っていたので、安心したそうです。うちの薫は可愛いので、紗和子さんもとても素敵な笑顔でしたから」


「……でも、それがなんでこんなことに?」


「綾小路が紗和子さんの家を知っている以上、危険だと判断したからです。社長も同意していましたよ。退去も明後日に迫っていたので、とりあえず一時的にでも我が家に荷物を避難させたのです。社長さんが、紗和子さんは春ノ助くんの次にあの桐箪笥を大事にしているから、それだけでも、と。……あの男性は本当に何をしでかすか分かりませんし、ああいう権力や金のある馬鹿は余計に性質が悪いですから」


「そういうことだったのですね……。あの桐箪笥は、私の大伯母から譲り受けた大事なものなんです。ありがとうございます」


 紗和子は、漸く千春がなぜ、そうまでして強引に動いてくれたのかを理解する。

 紗和子のアパートは、防犯レベルはゼロに近い。築年数の嵩むアパートだ。ただあの辺りは、交番も近くにあり、住宅街で治安がいいのでそれでも安心して暮らせた。

 だが、それは綾小路のような人間にはなんの抑止力にもならない。部屋に戻っていたら、今度こそ間違いなく紗和子はあの男に連れ去られ、全ての意思を無視され、結婚させられただろう。


「紗和子さん」


 真剣な声が紗和子を呼ぶ。

 顔を上げれば、千春と目が合った。


「……僕との契約結婚、考えて頂けませんか?」


 契約結婚だったとしても、千春と結婚してしまえば、紗和子の安全は確保できるだろう。だが、それは本当に紗和子の戸籍の安全にすぎないのだ。


「……薫ちゃんに、もし何かあったら私は、千春さんにも……何より、薫ちゃんのご両親に申し訳が立ちません」


 紗和子の安全は、この際、どうだっていい。だが、紗和子が傍にいたら薫に危害が及ぶかもしれないと考えただけでも、息ができなくなる。


「あの人は、異様な人です。まだ二度しか会ったことない私に向かって『もう二度と外には出さない』なんて言うような人です。何をしてくるか分かりません。それでもし、薫ちゃんに何かあったら……っ」


「紗和子さん、痣が酷くなります」


 千春の骨ばった大きな手がそっと紗和子の手首を掴んで、右腕から遠ざける。


「……紗和子さん。僕は言ったでしょう? 僕が必ず護ります、と。貴女のことも、薫のことも僕が護ります。貴女の人生の一時を頂くことになるのですから、貴女はそれくらいの見返りを求めて下さい。それにあんな男のために怯えて暮らすなんて馬鹿げています。紗和子さんの人生は何があろうと紗和子さんのものです」


 千春の穏やかに微笑む顔が、どうしてか滲んでいる。

 大きな手が頬に触れて初めて、自分が泣いていることに紗和子は気づいた。


「……僕は、貴女に救われたんです」


 千春の言葉の意味が分からずに首を傾げる。


「貴女が作ってくれたオムライス。本当に美味しかったです。朝ごはんも本当に美味しくて、心からほっとしました。昨夜、野菜スープを一口飲んだ時、どうしてか泣いてしまいたくなって、だから無言で食べてしまいました。本当は『美味しい』って貴女が聞き飽きるくらいに言いたかった」


 低く静かに染み渡る声が紡ぐ言葉は、どこか迷子の子どものような頼りなさがあった。

 薫の部屋は綺麗だった。薫と過ごす居間も整頓されていた。ただそれ以外の場所に少しずつ綻びが出始めていた。

 紗和子の脳裏に浮かぶのは、廊下の片隅の綿埃、雑然とした台所、奥座敷の洗濯物。そして、お仏壇の写真。

 彼らが大切な人を失くしてまだ半年だ。

 幾ら無邪気な笑顔を浮かべていても、薫は声を取り戻していない。その事実に千春は、じわじわと追い詰められていたのかもしれない。


「薫のことは心から愛しています。僕の命よりも大事な、大事な娘です。ですが、いえ、だからこそ……どうしていいか分からなくなる時があるのです」


 大きな両手が紗和子の右手を包み込み、千春は祈るようにその手に額をくっつける。


「僕は、もうずっと……分からないままなのです。あの子を僕は僕の娘として育てたいと思ってはいますが、彼女の両親を忘れてほしいわけではないのです。あの子が通う幼稚園で僕は『薫ちゃんのおとうさん』と呼ばれます。あの子は、そのことに対してなにも言いません。でも、喋れないので本当は、どう思っているのか聞けないままなのです」


 紗和子の手を握っている大きな手の力が少し強くなった。

 どうして、紗和子の手に縋り俯いた彼が泣いているように思えた。

 未だに声が出ないということは、何かの問題を、薫があの小さな胸の内に抱えているということだ。

 紗和子は、二人の「糸」を見たわけではないけれど、千春と薫の間にはまだ、何かがうずくまっているのを感じる。笑っていても、泣いていたとしても、溶けて消えることない何かが薫から「声」を奪っている。

 握り合う手の上に今度は、膝の上に投げ出したままった自身の左手を重ねた。

 千春が弾かれたように顔を上げる。

 彼は、泣いてはいなかった。

 だが、親とはぐれた迷子と同じ目をして紗和子を見つめていた。


「……紗和子さん、どうかお願いです。僕と結婚してください」


 縋るように握りしめられた手を紗和子は、振りほどくことができなかった。

 お互いのことなんてほとんど知らない。紗和子はまだ、彼の名字だって知らない。

 でも、薫を見つめる目が、とても優しい人だと知っている。

 こんな紗和子を「護る」と言ってくれた人だ。

 彼が「護る」と言ってくれるのならば、紗和子も二人を護りたいと思った。紗和子に出来ることなど限られているかもしれない。それでも、


「……まず、貴方の名字を教えて下さい。私、貴方の下の名前しか知りません」


 千春は虚を突かれたような顔になってから、困ったように笑った。


「僕は、小花衣千春といいます。三十歳です。貴女は?」


「如月紗和子といいます。二十五歳で家政婦をしていました」


「僕は小説家をしています。紗和子さん……いえ、如月紗和子さん」


 千春が紗和子の手を握ったまま居住まいを正す。


「僕と結婚して頂けませんか?」


「……はい。不束者ですが、どうぞよろしくお願いいたします」


 紗和子は、千春の手の下からそっと自分の手を抜き取り、少し下がって畳に手をつき頭を下げた。


「そうですよね、嫌で、す……え?」


 驚いた声が聞こえて僅かに顔を上げる。


「え、あ……ご冗談、でしたか?」


「まさか! あの、手が離れたので、嫌なのかと! ですが、僕から言い出しておいて難ですが、本当にいいのですか? 結婚ですよ……本当に籍を入れれば、離婚した時にバツがつきますよ」


 なんだか昨夜もこんなやり取りをした気がする。


「……私は、誰かに必要とされたくて家政婦という道を選んだのです。だから、必要とされることに弱いんです」


 紗和子が微笑むと千春は、何とも言えない顔をした。だが、すぐにいつもの穏やかな微笑みを浮かべてくれた。


「紗和子さん、僕と薫には貴女が必要です。……これからどうぞよろしくお願いします」


「私の方こそ、どうぞよろしくお願いします」


 差し出された手に自分の手を重ね、千春と紗和子は握手を交わす。


「紗和子さん、一番、重要な薫のことなのですが」


 握手をしたまま千春が言った。

 はい、と返して紗和子は背筋を正す。


「薫には、もちろん契約結婚ということは秘密です。そして無茶なお願いだとは承知ですが、薫の前では夫婦でありたいのです……そして薫には、母のように、姉のように親身に愛情を持って接して頂けませんか?」


「……私は千春さんの願う通りにいたします。でも……薫ちゃんにはお母様がいるのに」


 躊躇うように言った紗和子に千春が目を伏せる。


「……先程も言いましたが、僕には分からないのです。薫の『心』が……」


 紗和子の手を握っている大きな手の力が少し強くなった。

 穏やかだった微笑みが自嘲に変わる。その微笑みは、嫌だと思った。千春には穏やかに笑う顔の方が似合う。


「私に、お手伝いできることがあるかは分かりません。でも、岡目八目という言葉があるように、外から見ると分かることもあるはずです」


 千春は薫の生活にとことん心を砕いている。でも、ままならないこともたくさんあって、それがじわじわと彼を追い詰めていたのではないだろうか。

 こんな、出会ったばかりの女に頭を下げてしまうほど。


「私、見た目が派手なので敬遠されることもありましたが、それでも前の職場では一、二を争う人気家政婦だったんですよ」


 紗和子は、千春の手をあやすようにとんとんと撫でながら言葉を紡ぐ。

 彼は紗和子を助けてくれた人だ。周りには、たくさんの花見客がいたのに、彼だけが体を張って紗和子を助けてくれた。


「家政婦の仕事は、暮らしを整えることだと私は思っています。暮らしを整えると、不思議と心も整います。そうしたら見えてくるものもあるはずです」


 千春が顔を上げた。

 紗和子のように泣いてなどいなかったが、弱弱しく下がった眉の笑顔は、安堵しているように見えた。


「よろしくお願いします、紗和子さん」


「こちらこそ、よろしくお願いします、千春さん」


 つい先ほどと同じ挨拶を交わして、二人は再び笑いあった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。