七十話 恵与⑤
その後もしばらく、兄弟の一方的なやりとりは続くようだった。
始めは二郎も幸村に対して本当に怒っていたらしいが、その顔やら頭やらをばんばんと叩いているうちに、だんだんと気分もずれていったようだ。
今では幸村の後ろに回り込むと、ふざけ混じりに腕を回してぐいぐいと首元を締め上げてくる。
多少手加減はしてくれているようなのだが、それでも幸村からすれば過剰に過ぎた。
ろくに頭にも血が回っていかない。
とはいえ、いつまでもこうして遊んではいられなかった。
幸村は顔を真赤にしたまま、両手で二郎の腕を掴むと、
「……痛ぇ!」
力を込め、その皮膚に思い切り爪を突き立てる。
さすがの二郎も弟がそうした力ずくの抵抗をしてくるとは意外だったようで、鋭い痛みに思わず腕の力も抜けたようだ。
その隙に一気に腰を落とし、二郎の懐から抜け出ると、幸村は地面を這うようにしてこの乱暴な兄と距離を取った。
「……っ!」
幸村は何度か咳をした後で、深く息を吸って体勢を立て直すことに成功する。
そして飼い犬に噛まれたような顔をしている二郎に手をかざし、
『黒田家の郎等として今は働いている』
という自身の現状を、可能な限りの早口で説明した。
今も外の仕事から戻るさなかであり、ふざけている場合ではないのだと。
口調に勢いをつけ、声にもできるだけ力を込めて幸村は言った。
すると、やはり最初は幸村の言葉をほとんど信用できなかったようだ。
二郎は血の滲む腕の痕を手でこすりながら、幸村の顔をにらみつけてくる。
しかし、その後幸村が懐から匕首を出して飾してみたり、市で買った服の生地の良さについて引っ張ったり伸ばしたりしながら熱心に説明すると、幸村がまったくでまかせを語っているとも思えなくなってきたらしい。
また極めつけには、
「そもそも兄貴に負ける程度の腕力で人から物を奪えるわけがないだろ」
という言葉で、かつて胃の中身を吐き出していた弟の姿を思い出したのか、ようやく二郎も弟がきちんと職を得て働いているのだと少しは納得できたようだ。
「黒田家……?」
ただ、どういう伝手を使って黒田家に潜り込んだのものかと疑問だったようだ。
二郎はひどく不思議そうな顔をして幸村に尋ねてくる。
幸村が暮らしていた村は小寺家に米を収めていた(昔、利明に教えてもらった情報だ)ため、その過程が想像もつかなかったらしい。
そこに関しては、幸村も運だったとしか答えられない。
だが正直に伝えても、二郎はやはり納得しないようだった。
とにかく今日は神社に挨拶をしてくる仕事だったと伝えると、
「じゃあ、総社さんのとこに行ってきたのか」
と、ここで初めて二郎は一人得心した様子を見せた。
総社? と訊こうとして、そういえば耳丸が似たような名前で神社を呼んでいたと幸村は思い出す。
「そう、あの本堂が燃えたとこに」
「ああ、やっぱりそうか。あれもいつ建て直されるのか知らんが、燃えたのは結構前だよな? それからずっとあのままってのもだいぶ変な話だったが……黒田? あそこ黒田家で金出して建て直すのか?」
その言い方からすると、あの神社の現状については二郎も知っているらしい。
ずいぶん心配もしていたようだ。
まあ考えてみればそれもそうで、地元の神社が燃えて無くなったというのに、まるで気にもしないような住民はいないだろう。
(……地元?)
そう自分で考えておきながら、幸村は頭に疑問符を浮かべつつ、二郎に尋ねる。
「この辺って、あの村――から近いんだっけ?」
「……あ? 近いって、お前」
我ながら馬鹿らしかった。
返ってきた声の調子ですぐに失言をしたとわかった。
幸村は慌てて言葉を続ける。
「いや、その、近いっていうか、そうでもないっていうか」
「……お前、何言ってんだ?」
幸村の怪しげな態度を訝しんだらしい。
またにらみつけるような視線を向けられ、幸村はとにかく笑ってごまかすしかない。
残念ながら、この辺りの地理関係が幸村にはまったくわかっていなかった。
かつて暮らしていた地元の村はもう少し西の方にあるはず、という微妙な感覚もあるにはあるのだが、きちんとはっきりしていない。
あるいはもしかしたら、今歩いているこの道すら通ったことがあっただろうか。
いや通っていたとしても、二年以上前に一度通ったきりである。
あの村を飛び出した時は「とにかく道なりに東に進め」と叔父の良三に教わった通りに歩いただけなのだ。
「あー……」
もう何をいっていいかわからず、そのまま幸村は黙りこくってしまう。
対して二郎はしばらくの間、幸村の顔をじっと見つめていた。
しかし、最後には呆れたように顔を離すと、
「……ったく。いくら帰ってくる気がないからって、地元に戻る道を忘れたふりするか普通?」
そう言って、ある方向を指で示した。
「あっちの方だろ、あっち」
「?」
幸村が視線を向けると、その指の先には畑、さらに向こうには山が見える。
そちらは太陽の沈む方向、やはり西寄りの方角だ。
「あの山を越えた向こうにあるのが、小利木の村だ。お前、本当に忘れたってのか? 自分が生まれて育った場所だぞ?」
「あ、そう……だったよね」
幸村のやはり鈍い反応に、二郎は疲れたように息を吐いた。
「お前、本当にそんなんでちゃんと働けてるのか? やっぱり嘘ついてるんじゃ……」
「いや! 働いてるよ、ちゃんと!」
これ以上疑われてはかなわなかった。
幸村は何度も首を振って否定する。
『今日は苦労して馬を納めてきた』
なんとか信じてもらおうと幸村が話せば、
「……じゃあなんだ、馬持って逃げないと思われるくらいには信頼されてるって言いたいのか?」
と、さらに悪いように受け取られたらしい。
お前今まで馬なんか触ったこともなかっただろうと。
しかし事実は事実なのである。幸村は何度も同じ説明をしてみせた。
すると必死に話すこちらの姿に、二郎は今度は勘案するような視線を向けてくる。
そうして視線が合うと――、幸村はその目の色に何かまた違うものを感じた。
もちろん、はっきりした印象ではない。
ただこれは疑っているというより、
(……戸惑ってる?)
そのように感じられたのだ。
と考えてみれば、二郎の視点からすると、幸村は夜逃げをするように村を出ていった言わば情けない弟なのである。
それがまさか見知らぬ土地でどうにか生き残っており、それどころかまがりなりにも聞こえの良い立場に就いているという事実を急に知らされたのだ。
過去を知る兄として、驚くには十分なものがあっただろう。
そう思って二郎に話してみたところ、やはりこちらの思った通りであったらしい。
やはり二年以上も地元に帰ってこないのだから、
『三郎は多かれ少なかれ、どこかでのたれ死んでいるのではないか』
というのが、あの村の中では一致した見解であったという。
葬式こそ開くわけでもなかったが、正直なところ、二郎もおそらく弟は死んでいるだろうと思っていたと。
「……そっか」
幸村はその言葉になんとなく正面を見れず、横を向きながら答える。
まさか知らないうちに自分の死亡説が流れていたとは思わなかった。
いや想像できたことではあったろうが、こうやって目の前に差し出されてみると寂しさを感じないわけでもない。
「戦にも、出たんだろ?」
「……うん。何回か」
「そうか」
二郎は一度下を向いた後、またそばに寄ってきてばんばんと幸村の背中を叩いてみせる。
「まあ、こうやってお前が生きてたのは何よりだ。戻ったら皆に伝えてやらなきゃな」
「あ、いや」
下手な波風は立てなくてもいい。
とっさに言おうとした自分に気づいて、幸村は黙り込んでしまった。
そんな幸村の態度に目ざとく気づいたらしい。
二郎はふたたび目の色を変えて叱りつけてくる。
「馬鹿、死んだとわかった上で皆に伝えないならともかく、なんとか生きてるってわかった後にそれを黙ってる理由はないだろうが」
確かにそちらの方が正論だろう。
幸村には何も反論する言葉が思いつかなかった。
いや、正論だとはわかっていて、また違う考えも頭をよぎった。
そんな幸村の態度を見て、二郎は気を取り直すように言う。
「つーか、帰って来いって言っても今はその気はないんだろ。それだったらもう、ちょっとくらい辛いことがあっても帰ってくんなよ」
言葉こそ強いが、それが軽口であるとはすぐに分かった。
「……もちろん」
「ああ。それに今さら戻ってきても村自体にお前の居場所がねえからな」
二郎の言い方に、幸村は苦笑いで応える。
逆にこういう態度に出てくれるのはありがたいことなのかもしれない。
「一郎の兄貴とかは怒ってた?」
「いや、兄貴はそのうち帰ってくるだろうって気のない様子だったが、どっちかって言えば、義姉さんと母さんの方がひどかった。兄貴に向かって探しにいけって、つば飛ばしながら口喧嘩になってたしな。最後には自分たちで近くの村まで探しにいこうとしてたし」
「……そっか」
あの二人に関しては、本当に三郎の身を心配してくれていたはずだ。
村を出る時に、声をかけてから出ていけばよかったかとも思うが――、いややはり無理だった。
二郎が婿入りでいなくなり、さちと一郎と夕と四人で暮らすあの家の空気に、幸村はあれ以上耐えられなかったのだ。
あのとき初めて幸村は、二郎がきちんと弟の盾役になっていてくれていたのだとはっきりわかった。
三郎と夕の関係が一郎にいつばれるのか、いやもうばれているのではないかという恐怖は、それまでの幸村の人生で感じたことがない類の感情だった。
あの頭のてっぺんが痺れて動けなくなるような感覚は今では遠い昔のことのようだが、とはいえ今になってまた味わいたいものではない。
「だから……まあ、なあ。今すぐでなくとも、二三日くらいなら暇もらって顔を見せに戻って来るくらいはできるだろう? なんならうちに泊めてやってもいいから」
その言葉に、幸村はすぐに反応して答える。
「家族がいるのに悪いよ」
「ああ、それは気にすんな。病気だった爺さんは去年の夏に死んだし、婆さんの方も冬に入ってすぐ爺さんを追っかけるように逝っちまった。今日はそっちの関係で、親戚のいる他所の村まで行ってきたところなんだ。だから今はあの家に俺と嫁さんのふたりだけで暮らしてる。空いてる部屋もあるし、たまに客が来たら嫁さんも喜ぶだろうさ」
そう自分で言ってみて、本当にその通りだと思ったらしい。
「そうだな、やっぱ村に帰ってきたら、うちに泊まるようにしろ。今、兄貴の家うるせえから」
「うるさい?」
幸村が尋ねると二郎はああ、と思いだしたらしい。
「そうだ、言ってなかった。今のあの家にな、赤ん坊がいるんだ。最近、夜泣きがひどいみたいで、兄貴なんかげっそりしてる」
「……赤ん坊? 夜泣き?」
「そうだ、去年の春に生まれたから、いまちょうど一年経ったくらいだろ」
そこまで言われて、幸村はようやく気がついた。
「それって兄貴たちの……」
その一言に二郎はははっと笑い、
「それ以外に何があるんだよ。兄貴と姉さんの子供だ、間違いなくな。お前にとっちゃ姪っ子になる。今がかわいい盛りだから、見れるうちに見といたほうがいいぞ」
姪の名前は『あやめ』だという。夕に目元がそっくりなのだと。
それからすぐに二郎とも別れた幸村だったが、道を歩き出した後もしばらくその名前が頭に残って離れなかった。




