二十一話 悪い夢
この話から五話分回想が続きます。
幸村が他所の家の三男坊になってから、およそ二週間ほどが過ぎた頃のこと。
その日、幸村は二郎に狩りに行こうと誘われた。二人で丸一日をかけて山深くに入っていき、兎だ鹿だという獲物を二人で獲ってこようというのだ。
「しばらく前に鹿を一頭捕まえただろ? あの時の飯がめちゃくちゃ美味かったからな。近く山に入ろうと思うんだが、たまにはお前もどうだ、三郎?」
朝食を取っている最中に話を聞かされた幸村は、一も二もなく頷いて「一緒に行く」と答えた。
そう幸村が積極的になった理由はいくつかある。まあ、それまでの二週間の生活の中で彼にも思うところがあったのだった。
一方、幸村のそうした反応に周囲はよほど驚いたらしい。一番上の兄と母は動かしていた箸を止めて幸村の顔を見やった。
まさか二郎に付いていくとは思わなかったのだろう。狩りで山を動くというのは普段とは違い、体の芯まで疲れる大仕事なのだ。いつもの三郎であればまず断っていたはず。
またそれとは対照的に、夕が心配そうな顔を浮かべながら二郎に向かって言う。
「山深くなんて、三郎には危ないんじゃないかしら」
「大丈夫ですよ、義姉さん。俺がちゃんとついてますから。それに三郎に手伝って欲しいのは荷物持ちで、そんなに危ないこともないはずなんで」
それにほら、本人も行く気あるみたいですから。
二郎がそう答えると、夕は三郎の顔を見やった。幸村はただ頷いてみせる。
夕はまだ不安そうな顔を浮かべながらも、「……本人がいいって言うなら」と、納得したようなことを言った。
「じゃあ、天気が変わらなければ明日出るぞ。いいな、三郎」
二郎の言葉に、幸村は「はい」と頷いた。またどこまで衝撃が大きかったのか、一郎とさちはまだ半分驚いたような表情をしていた。
そうして山に入ることが決まると、朝食をとった後で二郎と幸村の二人は早速山登りの準備を始めた。
準備といってもそう大したことをするわけでもなく、二人が持ったものは弓を一張と小刀、鎌を二本。水と塩を少し。また寒くないように着こむための服を用意したくらいだ。近頃は秋の色もだいぶ深くなっている。
また当然、弓を持っていくのは二郎の方で、幸村は草や枝を避けるための鎌を腰に差すだけ。後は荷物持ちとして気張って二郎の後ろについていくことになる。
それから二日後。
あいにく次の日は天気が悪かったが、そのまた次の日の天気は見事に快晴。二人は朝のうちから家を出ることにした。
ひとまずは山の麓まで歩いていかねばならない。そこまでかかる時間は一刻半ほどだという。
また道中での二郎の話によると、だいたいこの辺りに行けば獲物がいると当たりがついているらしい。ここ何年か空振りしたということもないそうなので、なんとも頼もしい話であった。
「最近はどうしたんだ、三郎」
ようやく山を登り始め、日も半分ほど高いところに上った頃、後ろを付いてくる幸村に二郎が尋ねた。
「どうした、って?」
「ずいぶん真面目に働くようになったらしいじゃないか。母さんが嬉しさ半分、もしかしたら本当に頭を打ったんじゃないかって疑っててな。『むしろ頭打ってよかったじゃないか』と言っておいたんだが」
二郎が冗談を言ったと思ったので、幸村は声を出して笑ってみせる。それにつられるように二郎も大きく笑った。
「それでまあ、俺としてはお前に好きな女でもできたかと思ったんだよ。男が急に変わる理由ってのは、いい方でも悪い方でもだいたいがそれだろ?」
幸村はまた笑って話をごまかそうとした。しかし、二郎は幸村の意図をあえて無視して言葉を続ける。
「前までだったら俺が誘っても山の中なんか絶対付いてこなかったじゃないか。蛇に咬まれるかもしれないだ、どうせ獲物なんか捕まえられないだ、文句を言ってな。それがどうだ昨日は、飛びつくように誘いに乗ってくるなんて、そりゃ何かあったんじゃないかって誰でも思うさ」
「……うん、まあ、いろいろ悩んで考えたんだ」
幸村は迷ってそう答えた。曖昧でどうとでも取れる返答の仕方ではあった。
「言いたくないなら、それでもいいけどな。……ただあんまり、家の中に面倒を起こすような真似だけはやめてくれよ。本当に、その、面倒だからな」
二郎は遠回しにそれだけ言うと、また別の話題を振ってきた。それに相槌を打ちながら、幸村はなんとなく今の言葉の裏を察する。誤解を生むような返答をしたかもしれないと少し思った。
この世界にやってきて二週間。
現代の生活とは一変してしまった周りの環境に幸村は必死で馴染もうとしていた。
目が覚めて朝食を食べたあとは大抵母親や兄たちから細々とした仕事を言いつけられ、それを順次こなしていく。
その仕事も家の裏の畑の草刈りや燃えそうな枯れ枝を拾ってくるなど難しいことではなかった。その分体力は使うので、夕方頃になるとそれなりに疲れもするのだが。
おそらく本来なら、幸村も兄たちと同じように他の家の畑の世話などをしなければならないのだろう。しかし、どうも幸村が入れ替わったこの三郎という人物、これまでまともな生活を送っていたわけではないらしい。
二週間も暮らしていればもちろん、村に住む家族以外の住人たちと顔を合わせることもある。
しかし、そのうちの半数以上の人が幸村と顔を合わせると、なんとなく怒っているような、あるいは気まずそうな顔をした。それでも中には幸村に話しかけてくれる人もいて、どうやら同世代の人間とは多少交流もあったらしい。
ある年代以上の人たちに嫌われているのは、彼らの信頼を裏切った何かがあったということだろう。三郎がいったい何をしたのかは分からないが、自分が村で浮いている存在だという事実を幸村ははっきり理解した。
どことなく嫌な気分になったものの、ある意味家族以外に対してはボロも出にくいかもしれない。そう無理やりポジティブに考えるほかはなさそうだった。
それに加え、もっと大きな爆弾が幸村にはほかに存在した。それは言うまでもなく義姉の問題、夕のことである。
いや、もちろんここはどこなのだとか、どうやったら現代に戻れるのか、というのが幸村にとっての最大の課題ではあるのだが、あまりに特殊な事情過ぎて、どう行動すればよいのか、幸村にはまるで見当がつかない。
こんなわけの分からない事情を誰に話そうと理解してもらえるとは思えず、それゆえ幸村が現状出来そうなのは、とりあえず自分の生活を安定させることだけで。
そうなってくると、自然、直近に埋まっている地雷を幸村は解体処理する必要があった。
初日に判明した驚愕の事実を、その後の会話とさらに後日、幸村がそれとなくそれとなく確かめてみたところ、現在の状況はなんというか、目を背けること必至の状況だった。
とにかく幸村が最初気にしたのは、その三郎と夕の関係がどの程度のものかということ。あるいは行き着くところまで行っているとして、今後どうやってその不安定なバランスを保てばいいのか。
その辺り、経験の少ない幸村にとってはかなりの難題だった。一郎がこの事実を知ればまずろくなことにはなるはずがないし、逆に夕の相手を断り続けた場合はーー。
女性に恥をかかせれば手厳しい報復が返ってくることは風の噂で知っている。いや、まさかこんな形で実際に経験しそうになるとは思いもしなかったけれど。
と、慎重に幸村が動いて測ったところ、どうやら三郎と夕の関係というのは、一度消えた蝋燭にもう一度火が灯りそうな状況であるらしい。さらに正確に言うならば、どうも三郎がというより、夕のほうが積極的に火を付けようとしているようだった。
そもそものところは、かつて一郎と夕の間で夫婦喧嘩が起こった際、一度だけ、夕と三郎の間で間違いが起こったらしい。
そしてその時は(おそらく)両者ともすぐに正気を取り戻した。二人の秘密は互いの心の奥底に沈められ、今後一切出てこないよう厳重に封がなされた。
しかしまた何年かが経ち、夫婦間の事情がその年月によって変化すると、彼女の心の奥底にあった封が少しずつ剥がれだしたようだった。あるいは現状の変化を求める心が、偶然その封を解いてしまったのか。夕は三郎に近づいた。
しかし、過去の思い出はおそらく仕舞ってあるからこそ美しいはずだった。それを後で引っ張りだしてもろくな目に遭うはずがない。もしくはそれがわからなくなるくらい、夫婦間の状況は悪いのか。
そこまで理解した上で幸村が考えたところでは。
今のこの状況に本来の三郎は、おそらく夕に対して引き気味に対応したのではないかと思うのだが、どうだろう。
それとも案外、夕の誘いに乗り気になっただろうか。あのなるべくなら近くには居たくない兄に対して、日頃の恨みを、吠え面をかかせてやれるとでも思っただろうか。
「三郎、そろそろこの辺から注意しとけ。身を低くして音を立てるな。あと崖もあるから足滑らせるなよ」
突然二郎にそう声をかけられ、幸村は意識を現実に戻した。
「はい」
そう答えて、幸村は指示された通りに身を低くする。すると、鳥の鳴き声が頭上から聞こえた。すでに山深くまで二人は入り込んでいる。
「また鹿でも捕まえられたらいいんだがな。この前のはおすそ分けでうちにほとんど残らなかったから」
抑えた声で軽口を叩きながら二郎は進んでいった。その後ろを歩いていると、ふと横の草むらの中で動きがあったのを幸村は捉えた。
「兄さん、あそこ」
「ん?」
振り向いた二郎は幸村の指さした方に視線を向けた。二人のいる位置からおよそ二十歩ほど離れたところに草むら。その中で何かが動いている。
「三郎、音立てるなよ」
二郎はそれが獲物だと判断したようだった。大きさからするに野うさぎか何かだろうか。幸村は予想する。
二郎は弓を掴んで矢を構えると、ゆっくりその草むらに近づいていった。獲物をその目で確認次第、射るつもりだろう。固唾を呑んで幸村は事の成り行きを見守る。
そして二郎がその草むらに足を踏み入れようとした瞬間、草むらから飛び出したのは鳥が三羽。全身が真っ黒だったので、カラスだった。予想外のことに二郎は驚いて後ろに身を引く。
「なんだ?」
そうして気を取り直した二郎が草むらの中をのぞき込むと、彼は思わず、といった様子で声を上げる。それを端から見ていた幸村は、たぶん動物の死骸がそこにあったのだろうなと思った。
「……三郎。こっちに来い」
少し間を置いて、二郎が幸村を呼んだ。幸村はゆっくりと歩いて草むらに近付いていく。
すると少し変な匂いがした。なんというか、ナマモノが腐ったような匂い。だいぶ時間が過ぎた後の、死体なのだろうか。
「袋を持ってこなかったのは失敗だったな」
草むらの中を覗きこんだ幸村は、二郎の言葉の意味をすぐに理解した。
そして彼は草むらから視線を外すと、走るようにしてその場から離れる。それでもすぐに限界が来て、幸村は立ち止まり、下を向いて胃の中の物を吐き出した。
草むらの中にあったものは確かに死体であった。
しかし、それは動物などではなく、残念ながら人間の死骸。そしてそれは山の動物によって食い散らかされた後の死骸であった。




