42話〜なに、ちょっとしたご褒美だよ〜
「おはよう、黒川君」
四方八方から怒声が飛び交うオフィスを突き進み、自分のデスクまで辿り着くと、星里部長が柔和な笑みで手を上げた。なので、俺は慌てて立ち上がり、彼の元へと向かった。
彼から挨拶して来るって事は、何か話したい事がある証拠だから。
「おはようございます、部長」
「うん。実はね、君に頼みたい事があるんだ」
思った通り、部長は俺を待っていた。そして、振られた仕事は既存工場の操業データ整理。今までどれくらいの月日稼働して、どれくらい成果を出したかなど、基本情報を纏めるようにと指示を貰った。
これは…。
「新規案件ですか?」
俺達が言う新規案件とは、新しく建てられる工場のことである。新たに工場を建てるには、その工場がどれくらいの性能を持っているか、それをどれくらいのコストで実現出来るのかを示さないといけない。
他社と入札する必要があるからね、こう言う建築関係って。お客さんに選んで貰った企業だけが、その案件に携われる。だから正確な情報を得る為に、既存工場の中で性能が似た所のデータを取るようにとの指示かと思ったが…。
俺が聞くと、部長は「むっふっふ」と含み笑いをする。
なんです?
「聞いて驚かないでね。これは、特区の案件だよ」
「特区の…新規案件?」
「そう。凄いだろ?」
それはそれは嬉しそうに、部長が笑みを浮かべる。目を細めて、うわ言の様に呟く。
「私もまだ信じられんよ。我が社が…この私が、直接女性の為に働ける日が来るなんて。40年間、諦めずに勤めて良かった」
「そう、ですか」
恍惚とする部長の様子に、俺はつい、引き気味で相槌を返してしまう。
でも、部長は気にした素振りもなく、「あ、そうそう」と表情を戻した。
「他の仕事も並行して宜しくね。最近の黒川君、随分と仕事のペース遅いでしょ?」
「えっ?」
ペースが、遅い?
「部長。それは、通常業務の事を言われていますか?なら俺は、社長…支社長から貰った案件もありますので」
「ああ、支社長から聞いているよ。だからこの前のお休みは、有休じゃなくて特別休暇で処理しているから」
なぬっ!?特区への出張が、休み扱いだと?
「部長、それはあまりにも…」
余りにも酷い処置ではないか?俺は遊びに行った訳ではなく、仕事をしてきたんだぞ?
そう抗議しようとした俺の言葉を、部長は苦い表情で押し留める。
「分かっているよ、黒川君。有休を使って、女性へ奉仕したい君の気持は」
「えっ?」
いや、そう言う事じゃ…。
「でもね、堪えてくれないか?これは支社長命令なんだ。これを有休にしたら、君個人で女性に奉仕したことになるだろう?それではあまりにも不公平だ。ここは会社の公休として、会社全体で奉仕したことにする。それが組織であり、我々サラリーマンの宿命なんだよ」
「あっ、ああ…はい…」
俺は引き下がった。これ以上、議論しても無駄だと理解してしまったから。この人とは、根本的に考え方が違った。価値観が、俺と見て来た世界が違い過ぎて、話が噛み合わない。
支社長だけでなく、部長は…いいや、この世界の男達は全員、女性の案件を仕事と思っていないみたいだった。
その俺の考えは、正しかった。
夕刻。
終業のチャイムがフロアに響き、普段だったらボチボチ帰り支度をする人々の風景が広がる筈の時間帯。
でも今日は、誰もその気配を見せない。
それどころか、
「田村さん。あの見積もり依頼、業者に送っちゃって」
「津田く~ん。千葉の試験結果出た?」
「ごめん。会議あと15分遅らせて」
定時を過ぎた今の方が、より活発になったように見えた。
これは…。
「まっちゃん、まっちゃん。まだ帰らないのかい?」
困った時の松本君。また彼に聞いてみる。
すると彼は、忙しそうにしながらも顔を上げて首を振って見せた。
「帰れません。今日は3時間、女性の為に奉仕させて頂いたので、その分の仕事をしないといけませんから」
「ええっと…つまり、3時間の残業が発生していると?」
「残業ではありません。奉仕していた時間は就業外ですので、定時が3時間伸びているんです」
なっ…なんだと?
つまり、特区の案件に関わっていた時間は、仕事をしていなかったみなされると。だから誰も、帰ろうとしていないのか?
俺は顔を上げる。そこには、嬉々としてサービス残業に邁進する会社の仲間達がいた。誰の顔にも、無給で働いていることに対しての不満は見て取れない。寧ろ、普段よりも精力的に仕事をしている。
その光景を見て、俺は昨日の工事業者を思い出した。女性の為に働けると言って、常軌を逸した言動を繰り返していた異常者達。その光景が今、俺の目の前にも広がっていた。
これが…。
「女性が希少な世界」
俺は背筋に冷たいものを感じ、椅子から立ち上がることが出来なかった。視線をパソコンに落とし、非常識な常識に打ち震えるしかなかった。
結局その日は、日を跨ぐまで仕事をして、ヘロヘロになって帰宅した。
そして、その疲れが残っている状態で、今朝はいつも通りの時間に出社している。
体が重い。そう思いながらオフィスに入ると、既にそこは喧噪を極めており、昨日俺が帰る時にもバリバリ働いていた人達が、全く変わらない姿で仕事をしていた。
いや、変化はあった。彼らのシャツは酷くヨレており、髪の毛の油が3割増しになっている。目の下には大きなクマが出来ており、瞳も真っ赤に充血していた。
もしかして、帰ってないのか?
「黒川君」
驚いて立ち止まっていると、今日も部長が笑顔で俺を呼ぶ。そして、昨日と変わらず大量のタスクを俺に渡してくる。
いいや、違う。こいつはタスクじゃない。こいつは特区案件。つまり…。
「昨日頑張ってくれた君には、この案件も任せるよ。なに、ちょっとしたご褒美だよ」
そう、これは褒美。女性へ尽くせる奉仕のチャンス。
追加された分厚いファイルを見て、俺は言葉にならない悲鳴を上げる。
そして、直ぐその案件に取り掛かる。就業開始の合図が鳴った気もするけど、そんな事を気にしているヒマはない。1秒でも早く特区案件を終わらせて、本来のタスクに取り掛からなければ。でないと俺は、まだ仕事をしていない状態なのだから。
膨大なタスクに忙殺されていると、電話が鳴る。こんな時に電話なんてと怒りを覚えるも、その着信メロディで一気に気分が落ち着く。
鈴木さんだ。
「もしもし。黒川です」
『こんにちは、鈴木です。先日はありがとうございました』
「それはこちらこそですよ、鈴木さん。今日はどうしました?」
俺は足取り軽く、防音室へと向かう。さっきまで沈んでいた気持ちが、嘘のように軽くなる。
「なるほど。それは厄介だね」
『そうなんです。何とかなりませんか?』
「そうだね。他の施設での成功例なんだけど、先ずは監視カメラを設置してね…」
俺は嬉々として、彼女の困りごとを聞く。疲れていた脳みそに活を入れて、知識と記憶を頼りにアドバイスしていく。
『ありがとうございます、黒川さん。早速やってみます』
そして、彼女は嬉しそうに電話を切る。時計を見ると、30分近くも電話していたことに気が付く。
これで、俺の業務は30分後ろ倒しになった。でも何だろう。全く後悔はない。それどころか、凄く清々しい。鈴木さんの嬉しそうな声を聞けて、彼女から感謝の言葉を貰えて、気分が高揚していた。
ああ、なるほどな。女性に奉仕したいって言うみんなの気持ちが、ちょっと分かった気がする。俺も少しずつ、この世界に洗脳され始めたのかもしれないな。
そんな風にも思ったが、デスクに戻るとやっぱり気分は沈む。大量の仕事に悩殺され、気付いたら定時はとっくに過ぎていた。それでも、周囲は誰も帰らない。俺も、いつ帰れるか分からない。
いつ終わるのかという不安と怒りが頭の中で渦巻いて、ただただ目の前の仕事をこなすマシーンになっていた。
そんな過酷な労働が数日続いたある日、俺は更なる絶望を感じた。
給料日だ。
「はい、黒川君。お疲れ様」
「ありがとうございますっ」
部長から手渡しで貰う給料明細を、俺は嬉々として受け取る。
先月は色々と頑張ったからな。通常業務は勿論の事、社長案件で多くの実績を残した。社長から表彰されたことも1度や2度ではないし、鈴木さんと連携して新しい室を盛り上げた。
それがどんな形で表れているかと、期待して開いてみると…。
先月と、全く一緒の金額だった。
先月の頑張りが、全く評価されていなかった。なんなら、残業した分が無くなっている。
これは…。
「部長…この給料について何ですけど」
「うん?どうかしたかな?」
部長に聞こうと思ったけど、途中で止めた。これは社長案件の話であって、それを振って来た支社長に聞いた方が良いだろうと思い直す。
なので、直ぐに彼の部屋へと赴き、どういうことかを聞いてみた。すると…。
「そりゃお前、当然だろ。社長案件と言う事は、女性への奉仕活動だ。それは業績評価の対象にはならん。奉仕はあくまで奉仕。利益を求める仕事と同じ扱いにする訳にはいかんからな」
こんな回答が返って来た。
いや、何となく予測はしていたよ。特区案件が業務時間に入らないって聞いた時から、そんな事じゃないかって思ってはいた。
でもまさか、全く評価されないなんて思わなかった。社長から直に依頼されたことで、支社長からも宜しくと頼まれた仕事。そして、朝会で表彰されるくらいには評価されていた。
評価されたと思ったそれが、評価0。俺の頑張っていたことが、全部ボランティア活動だって言われてしまった。
正直、やるせない。
鈴木さん達に喜んで貰ったことは嬉しかったし、トラブルを未然に防いだことは誇らしくも思う。でもそれは、仕事として評価されると思ったから。見返りを得られると思っていたからだ。
給料が貰えず、仕事も増える一方なら、幾ら美少女から褒められても喜びきれない。俺の生活は、カツカツなんだよ。
「どうした?黒川」
「支社長…」
もう辞めます。
その言葉が、喉元まで出かかった。
でもそれは時期尚早だ。なにせ、この会社だけが悪い訳じゃないから。きっと、どの会社も同じ状況。この世界の男はみんな、同じ色に染まっている。
「いえ…何でもありません。失礼します」
俺は足早に支社長室を出る。
デスクに座って周囲を見回すと、みんな元気に走り回っていた。目はイッちゃっているけど、何処か楽しそうだ。
誰も彼も、現状に不満を抱いている様には見えない。誰もが女性の為に尽くすことを生きがいだと思っている。
俺が間違っているのか?自分の評価を上げたいと、自分の生活を守りたいと思う事がおかしいのか?社会の為、女性の為に身を削ることが、本当に正しい事なのか?
こんな風に考える俺が、おかしいのだろうか?
「はぁ…」
こんな事なら、元世界の記憶なんて無くなって欲しい。女性への耐性なんて要らないから、他の人みたいに楽しませて欲しい。
俺も、この世界に染まりたい…。
何もかもに嫌気が差したその時、心が軽くなるメロディーが響く。
この音は、
「…鈴木さん、か」




