第109話 危機と勝利と政治 7歳 夏
危急を告げる三度の角笛が、再び鳴らされた。
「トール、もっと屈んで!」
背中で手綱を握っているエリン姉が前傾姿勢をとろうと、僕を押しつぶす
僕はほとんど馬の背中に腹ばいになりながら鬣に顔を埋めて首筋に抱きつくことしかできない。
びゅうびゅうと耳元なる風音と、ダダダッと大地を叩き続ける蹄の音。ときおりバシャバシャと浅瀬を渡る水音がする。
小さな馬なのに、本気を出して走るとこんなに速いのか。
僕は場上でほとんど目をつぶりながら、ふり落とされまいと必死に馬の首にしがみついてた。
とても長く感じられたけれど、実際にはほんの数分だったのかもしれない。
「いた!あそこ!」
姉の声で顔を上げると、放牧地の一角に固まっている少年達の集団が見えた。
そして、対峙する一頭の灰褐色の獣。
「狼!」
そう。狼だ。しかも大きい。
いや、本当に大きいぞ。
村長の長屋敷に飾られている毛皮でなく、生きて動いている狼を見るのは初めてだけれど、明らかに僕よりも大きくて重そうだ。
こんな強そうな生き物が、隔離された動物園の中でなく野生で野良として生きているなんて怖ろしすぎる。
「グルルルッ」
幸いなのは、狼が群れではなく一頭だけであること。
群れから旅立った経験の浅い雄の個体かもしれない。
「こっちに来るな!」
「あっちに行け!」
ガンガンガン!ブゥゥーッ!ブゥゥーッ!ブゥゥーッ!
少年達は勇敢にも、というか無謀にも、どこからか持ち出したクナトルレイクの盾を構えて横列を形成し、盾をスティックで叩いて狼を威嚇しながら対峙していた。
「ど、どうしようエリン姉…」
「ええと、武器、どこかにないの!?槍とか…」
武器になるものが何かないか、と周りを見渡すけれども、ここは放牧地の端っこ。
都合よく武器が落ちていたりはしない。
少し遠くから、少年達の母親らしき女性達が手に手に長いもち手の農具を持って集まって来ているのが見える。
けれども、到着までには少し時間がかかりそうだ。
「どうしよう…ええと…ええと…」
僕は未経験の事態にすっかり混乱していた。
馬で走り寄って農具を受け取って場上から攻撃するべきだろうか?
でも、乗馬歴数日の僕達にそんなことができる?
馬で周囲を走り回って狼を威嚇するとか、囮になるとか?
だけど馬は狼を怖がって棹立ちになったりしないだろうか?
とるべき行動を決断できず迷っているうちに、少年達の方に先に動きがあった。
「猪の陣形だ!やるぞ!」
「「おう!」」
なんと少年達が大柄な少年を中央にした楔形の陣形をとって、狼との距離をつめ始めたのだ。勇敢だけれど、無謀すぎる。
それまで、うろうろと少年達の周囲を回りながら、鋤はないかと見定めていた狼も、予想外の動きの変化に困惑したように立ち止まった。
それが、鋤となった。
「投げろ!」
後ろでクナトルレイク用の棒を両手で構えていた子が、棒を利用した投擲を行う。 クナトルレイクのボールを投げる動作で鍛えられたのか、実に堂に入ったフォームだ。
「よけられた!?」
子供にしては驚くほど鋭い投石ではあったけれど、狼は左右にステップを踏んで躱した。
「1人でやるな!全員でやるぞ!石を準備!」
「できた!」
「投げろ!」
子供たちの集団から複数の石が一斉に鋭い放物線を描いて飛び、狼も石を1つ避けそこねた。
「ギャン!!」
「当たったぞ!」
狼の悲鳴に手応えを感じた少年達の士気が上がる。
「もう一回やるぞ!準備ーっ!」
「準備できた!」
「投げろ!」
今度の投擲は空を切り、狼には当たらなかった。
狼の方がくるりと身を翻して、逃げ出したからだ。
投石で打撃を受けたというよりは、人間たちの思わぬ動きに戸惑いを覚えて逃げたのだろう。
野生の世界では、ちょっとした怪我が命を失うことに繋がる。
たかが人間の子供にちょっかいをかけた程度で生命の危機にさらされては、とても割に合わない、と感じたのかも知れない。
「やったーっ!」
「狼を追い払ったぞ!」
「おれたちはフェンリルの加護がある!!」
少年達は狼を自分たちの力だけで追い払った興奮に、勝鬨を上げた。
「俺達は戦士!」
「フェンリルの加護を!」
「「フェンリル!力!勝利!フェンリル!力!勝利!フェンリル!力勝利!」」
少年達の戦歌は、慌てて追いついてきた彼らの母親がこっぴどく雷を落とすまで続いた。
確かに勇ましい勲だったけれど、無謀な行動だったことには違いないから、心配した母親に叱られるのも仕方ないね。
それで母親に叱られながらも、少年達の表情は誇りに輝いてた。
さすが幼いながらも北方戦士の子供たちだ。
本当にすごい。
「僕は全然役立たずだったなあ…」
ぽつりと呟くと、エリン姉は黙って頭を撫ででくれた。
◯ ◯ ◯ ◯ ◯
「村の子供たちを警備に使うんですか?」
「男衆が帰ってくるまでやりたい!やれる!と言い出して聞かないみたいなの」
「ああ…自信つけちゃったんですね」
狼の事件について村長婦人に呼び出されて話をしていたら、子供たちだけで家畜を見回る警備をしたい、という申し出があったとか。
子供たちだけで狼を追い払うことができた、という成功体験が彼らを大いに勇気づけてしまったのだろう。
「うーん…今回のことは、正直なところ運が良かった点もあると思うんですが」
「それはそうね。でも、放っておいたら勝手にやるでしょう?その方が危ないと思わないかしら?」
「たしかに…」
子供が勝手に動いて事故になる前に、大人の方で支援しながら動かした方がいい。
見回りのチーム分け、必ず盾と角笛をもたせる、大人と同道する、見回りの時間とルートを定める…。
少年自警団も、きちんと組織化すればそれなりに役立つし、参加者の危険も減らせるだろう。
直接の戦いでは全然役立たずだったけれど、この種の組織運営なら僕も役に立てそうだ。
「一つ、考えていることがあるんですが…」
今回ははぐれ狼が一頭だけだったので子供たちの投石で追い払ることができたけれど、あれが狼でなく熊であったら、そもそもの打撃力が足りない。
狼が複数で襲ってきたときも対応は難しいだろう。
「これはあまりやりたくはなかったんですが…」
子供たちの中には、クナトルレイクで鍛えられてかなり投擲の技能が優れた子が出てきているようだ。
そうした子だけを選んで訓練した投擲の専門部隊をつくりたい。
「それで…?トールは、いったい何をするつもりなの?」
「その…貝殻粉を投げて目潰しをするんです。薄い陶器とかに入れて割れやすくして…。風上から投げるとか、目に入れないように素手で扱わないとか、取扱に注意が必要な危険物なので、落ち着いた子だけを選びたいです」
村長婦人は、じっと僕の目を見つめてから、頷いた。
「…例の戦士の目潰しをした粉のことね。いいでしょう。村に男衆が戻って来るまでの間だけ、許可します」
「ありがとうございます」
礼を言って頭を下げつつ、どうしてもため息が出てしまう。
石灰は、家を白く塗ったりチョークを作ったり、競技場のラインを引いたりと平和なことだけに使いたかったんだけどなあ…。
「あーあ…気が重い」
村で僕だけが村重の貝塚を自由に掘れる権利と直接的な武力が結びつくと、どういう目で見られるものやら…。
村の政治は大人の父ちゃんに丸投げしたいのに。




