5. 月と太陽 ー菜々子と槇ー
それはいつものようにCJのライブを見た三十分後。私がライブハウス・ホロホロの出口のところで槇を待っていた時のことだった。
出てきた同い年くらいの女子がひとり、急に私にぶつかってきた。
私は割と体幹がしっかりしていて、よろけることなくその子をぱっと見る。
カーリーヘアで、グレーのカラーコンタクト。ピンクの花柄シャツがよく似合ってた。
「あー、ごめんねえ」
女子にしてはハスキーな声が耳に響いた。
「……大丈夫です」
低い声で答えたら、後ろから来たらしい友達に、睨まれちゃった~と笑って言っているのが聞こえた。
ライブ中、最前列あたりにくるくるカールの髪が見え隠れしていた子だ。微妙な気持ちで私はその女の子たちを見送った。
◇
「お待たせ~……菜々子どうした?」
槇はいつも黒い服で鋭い目をして、周りを威嚇するような歌い方をするけれど、笑うと無邪気でとてもかわいい。にこにこしながら出てきた槇を見て、私はほっと息をつく。
「ううん、なんでもないよ。帰ろうか」
「送って行く」
自然に私の手を握る槇、その掌の熱にやたらと気持ちが楽になっている自分がいた。
季節は夏が近づいてきていて、梅雨の終わりかけで小雨がぱらついている。街灯に照らされて雨の雫が落ちていく様子が目に映る。濡れて光る道に、私たちが水たまりを避けて歩く足音が響いた。
槇のバンド・CJは、あじさい祭りの夜にメジャーバンドのSODA FISHと共演したこともあって、最近急速にファンが増えてきていた。
こんなことはきっと、これからもよくあること。
私もしっかりしなければ。
そんなことを考えながら歩いていたら、不意に槇が私を覗き込む。
「なにがあった?」
「何もないよ?」
「眉間にシワ」
ふふっと笑って私の眉と眉の間にそっと触れる。槇は本当に人をよく見ている。私はたったそれだけで安心して、笑った。
「大丈夫。ぼんやりしてたら人とぶつかっちゃって」
「……ふうん」
私の台詞に、槇は少し考えるように黙って歩く。しばらくして、彼は言った。
「もし、今後、なんかファンの誰かとかから、変なことされたら絶対俺に言って」
私は驚いて槇を見つめる。
「最近、知らねえ顔も増えてきたし……用心するにこしたことないだろ?」
私は少し微笑んで頷いた。そして彼の手をちょっと強く握ったら、槇がぎゅっと握り返した。
いつもこうやって、勇気づけられてばかりだ。
私も槇を支えられる人でありたいって、思う。
◇
私と槇が付き合い始めたのは、一年半くらい前。
高校二年の、文化祭のあとだった。
あの時、うちのクラスは劇をすることになり、私はなぜか魔女役。劇の最後の方で、当時私が習っていたクラシックバレエ、黒鳥の踊りをすることになっていた。その数ヶ月前、夏に開催されたコンクールに私は落ちていて、受験させたい親との間で、その文化祭を最後にバレエは辞めるという話をしていた。
うちのクラスの劇の直前、本当は三年生は文化祭にあまり参加しないのだけれど、槇たちのバンドは人気があって、特別出演で数曲歌った。その時のメンバーは槇のクラスの人たちだったな。当時のバンドは文化祭を最後に解散して、しばらくして大ちゃんや後輩の子たちとCJを作ったんだ。
あまりにも伸びやかに歌う槇を見ていて、私のバレエ人生、最後を飾らなきゃと緊張で震えていた私は、完全に心を持って行かれた。綺麗な声。高い音も裏声を使って鳥の歌声みたいに響く。
この人の歌みたいに、自由に踊れたらいい。
いつの間にか震えは止まって、そんなことを考えていた。
◇
そして私がカーリーヘアの子とぶつかった翌週。事は起こった。
いつも、槇たちのバンド・CJのライブはワンドリンク制で、観客は入場時に五百円と引き換えに金色のコインをもらって飲み物を楽しめる。
私が親友のカリンとドリンクバーに並んでいたら、突然ぱしゃんと肩が濡れた。
「つめたっ」
思わず声を上げたら、肩先にはこの前のカーリーヘアの子。今日は水色にベージュで小花柄が散っているワンピースだった。
「ごめんなさあい」
花柄好きなのかなとぼんやりと考えている内に、微笑んで去って行く。
「……菜々子、大丈夫?」
カリンがすぐにハンカチをだして私の肩を拭いてくれた。今日は黒いレーストップスを着ていた。零れた瞬間、ジャスミンティーの匂いがした。染みにはならない……ってそうじゃなくて。
自分がすうっと冷えていくのを感じていた。
「菜々子? 私、汗かくかなってもう一枚Tシャツ持ってるけど、それに着替える?」
心配してくれているカリンに私は微笑んだ。
「だいじょうぶ、このまま見る。
あの子、この前もぶつかってきた人なの。ライブが終わった後で事情を聞くわ」
え、とカリンが声を出したところで、前の方からきゃあっと歓声があがる。
ステージに出てくる槇とメンバー。照明が落ちてライブがはじまった。
ライブ中にもめるのは最悪だ。
終わってから話を聞きましょう。
私はアイスティーを飲みながら、最後尾からライブを鑑賞することにした。
◇
槇の歌は、大ちゃんのギターのフレーズに乗って私の心臓をつかむ。
最初のときと同じだ。
〝さんざんな雨 問題ないだろ?
おまえの前には 俺がいるから〟
新曲かな。
思わずその歌詞に笑った。
わかりやすい歌詞をメロディーに乗せて、本当にそうだと思わせるんだ。
いてくれてる。あの時も今も。
魔女役で黒鳥の踊りを踊る前、私の手足は震えてた。
でも劇の前に歌った槇の、その自由自在に高音から低音までを行き来する歌声を聴いていたら、自然に震えが止まっていた。
人間ってすごいと思ったの。
声の力ひとつで元気づける。
聴くひとの心の弱さをすくい上げて、奮い立たせる何かを持っている。
そして今日のライブも終わり、大歓声の中でステージ袖に去る槇の背中を見ながら、私は頷いていた。
出口の方に向かう人波に逆らって、私を呼ぶカリンの声も聞かずに彼女の前に進んだ。
内心少しびくびくするような気持ちを無視して、にっこり笑う。
バレエの舞台を思い出せ。怖くても笑え、と自分に言い聞かせながら。
「ちょっといい?」
相手の方が怯んで、黙ってゆっくり頷いた。
どうしようかなと思いながら、このまえの出口のところに向かった。
◇
「なんなの?」
不満そうに尋ねる彼女を私はまっすぐ見た。率直に聞いた。
「このまえぶつかったのは偶然かもと思ったけど、今日のジャスミンティーは二回目だから。どうしてあんなことするの?」
彼女はぐっと言葉につまる。私はもう一度聞いてみる。
「どうして私にお茶を……」
言いかけたら、私の声ににかぶせるようにして、その子が怒鳴った。
「むかつくんだよ!」
「え……」
私は急な大声に驚いて、唖然としてその子を見つめる。彼女は続けた。
「槇くんのことを呼び捨てで呼ばないで! 年下のくせに! そんな細い身体で長い髪で隣に立たないで! 槇くんは皆の槇くんなんだから!」
一気に言われて、内容を整理するのに必死だった。
付き合いはじめて、お互いの誕生日を教え合っていたら、槇は私より学年はひとつ上だけど、誕生日は四月一日だった。私の誕生日は四月十七日。二週間くらいしか変わらないねと言ったら、槇が笑った。
「なまえ。呼び捨てで呼び合おう、お互いに」
私も笑って、いいよ、と言った。
それで私は一学年上の槇のことを、敬称略で呼び捨てで呼ぶ。
でもたぶん、そんな事情はこの子には関係なくて。
私の立ち位置がうらやましくて、見た目だとか色んな事が我慢できずにお茶をかけた。
「……私の見た目はそれなりに努力もしていて、あなたに」
関係ない、と言いかけていたら、突然後ろからがばっと口を押さえられた。
え。
「ごめんなあ、コイツ、俺よりケンカ上等だからさ~」
珍しく鋭さを消した、場を和ませるみたいな槇の声が耳元に流れ込む。私は口を押さえられたまま、身体ごと槇に引き寄せられている。ライブの直後で、汗で濡れたTシャツの質感が背中に伝わった。息切れしてる。走ってきたんだ。
カーリーヘアの女子は言った。
「いっ、いいの! 私が間違えてお茶を肩にこぼしちゃって、それで」
「あーなるほど。今後気をつけてな! ライブハウスなんて、どんな気の荒いやつがいるかなんてわかんねえし。それと、」
にっこり笑ってる感じの槇の声のトーンが、最後に真剣なものに変わった。
その女子は息を呑んだように槇を見つめて、口を押さえられたままの私は仕方なく、槇の胸に半分よりかかったような形で彼の声を聴いている。
「CJの槇を好きでいてくれて、ありがとう。……俺が〝槇くん〟でいるためには、こいつも、メンバーも、家族も、ファンの皆も、全員が必要と思ってて」
いつも、槇は端的なことしか言わないことが多い。こんなに喋るの珍しい、とぼんやりと思いながら、私は目の前の女の子がちょっと泣きそうだなと観察している。槇は真面目な声で続けた。
「俺は、その中の誰が欠けても嫌だと思ってる。
だから、それを君もわかって、CJの槇を応援してくれたらうれしい」
最後の方はにっこり笑うような口調で。私の背中に、槇の上下している胸の動きが伝わってきた。
それは、拒絶と受容が一緒になった、槇の心からの言葉だと感じた。
その女子は涙目のまま、ぺこりとお辞儀して走り去って行く。
「……とりあえず一件落着」
耳元で槇の声。私の身体も、後ろからいつの間にか掴まれた手も、かすかに震えてた。本当は怖かった。あの子と直接対峙したことも、槇が今、私がしていたことに怒っているかもしれないことも。
そんな私の手首を掴んだまま、はあ、と息をついて。
「帰るぞ」
一言だけ呟いて、槇は私の手を引いて歩き出す。
「……あっ、あの、槇、どうしてわかったの?」
「カリンに呼ばれた」
なるほど、たしかにカリンを置いて私はあの子のいる場所に行ったから、それは納得感のある話だった。
私の方を見ないまま、槇は続けた。
「この前言っただろ?」
「……何を?」
「なんかあったら俺に言え」
私たちはそのまま黙って、いつもの帰り道、商店街のアーケードを黙って歩いて。結局終始無言のまま、槇は私を家まで送ってくれた――。
◇
槇が怒っているのかあきれているのかもわからないまま、翌日は日曜日。私は一日部屋に閉じこもったまま、母が作った食事だけ食べてまた部屋に籠もり、気付けば夕方。槇にラインしようか、電話してみようかとスマホに手が伸びつつ、なんだか話すのが怖かった。
すると、部屋のドアをノックする音が聞こえて、振り返るとドアのところに母が立っている。
「菜々子、今、お母さん買い物から帰って来たんだけど……門のところで槇くんが待ってるの。約束してるんじゃないの? 上がらない? って聞いたら遠慮して、いいですって言うんだけど」
一年半の間に、母は私が槇とお付き合いしていることは知っていた。
私は驚いて思わず立ち上がる。Tシャツにジーンズという部屋着で髪もぼさぼさだけど……まあ、仕方ない。
「ちょっとだけ、出かけてくるね」
私は小さな肩掛けポーチに財布とスマホだけ入れて、部屋を飛び出した。
家の前まで来てるなら、どうして連絡してこないのかな。
こいつのことも大事みたいなことを言ってた気がするけれど。もしかしたら、こんなことで終わってしまうのかな、私たち。それは身体の血が一気に下がるような、おそろしい疑問だった。
走って門の外に飛び出すと、門柱に寄りかかった槇と目が合った。
「……槇」
「よ」
なんだかすごく元気がない。って思って、私は思わずそっと槇の手に触れている。一瞬、彼の手がびくんと震えて、でもたしかめるように私の手を、きゅっと握った。
「ちょっと、……歩かねえ?」
「いいよ」
部屋着だったけれど、そしてリップも何も塗っていないけれど仕方ない。私たちはそのまま手をつないで歩いて、気付けば夕暮れの甲斐多公園の噴水のところに着いていた。
◇
噴水の縁に隣同士に座るとき、たったの一日も離れていなかったのにどうしてか心細くて、私は槇の腕に触れるくらい近くに腰掛けた。
そうしたら槇が自然に私の肩に手を回した。……ありえないくらいほっとした。
「……怒ってるの?」
そっと聞くと、槇はふっと笑う。
「怒るわけない。色んなこと、考えてた」
「どんなことを?」
聞きながら、面倒なことを起こす女はもう嫌だとか、そういう話だろうかなんて思っている私は、本当に臆病だ。今日も私は槇と目を合わせられない。最善を尽くしたつもりで最悪のパターンにはまってしまったのだろうか。あの、バレエを辞めることになったときみたいに?
そうしたら。槇は言った。
「色々考えたけど、うまく言えねえから、ちょっと聴いてて」
「……うん」
頷いたら、槇は微かに笑って、そっと歌い出した。
それは、古いアメリカのポップスで、少年たちが冒険の旅をする映画の主題歌だった曲だった。
夜が来て、世界が闇に包まれて、月がのぼってくる。
怖くないよ。何も怖くないけど。
どうか僕のそばにいて。
私は意訳していて、正しい訳ではないかもしれなかった。以前、駅前で槇と大ちゃんは、よく路上ライブをやっていた。その頃によく歌ってた曲。
その英語の歌詞の一言一句、聞き逃さないように集中して私は聴いてた。
一番を歌い終わったとき、私は盛大な拍手を送った。
「ほんとは、あじさい祭りの時に歌いたかったんだ」
照れたように笑ってそう言うから、私も微笑む。
「あの時は十分くらいしか歌えなくて、残念だったね」
「内容は最高だったけどな」
「うん。最高だった」
槇の歌はいつでも、調子が良いときも悪いときも、その陰影がそれぞれの良さを持って人の心に残る。
「あのさ」
背中で、噴水の水が落ちる音。夕暮れの公園には、散歩する老夫婦と、どこかにお出かけしようとしている家族連れが遠くに見えた。
とてもゆっくりと、大切なことを言うように槇は続けた。
「さっきの歌みたいなことを、俺は菜々子に対して思ってて」
さっきの歌声がよみがえる。
〝そばにいて〟
槇の心の声みたいなものが直球で胸に入ってきたと思った。私はじっと槇の横顔を見つめる。
「言いたいことは、本当は色々あって。
あんなに震えてたくせに、ひとりでがんばらなくていいだろ、とか……」
私は仕方なく苦笑する。やっぱり伝わってしまってた。槇は少し首を傾げて私を覗き込むように見た。
「これからも、怖いことも、あると思うんだ。俺も万能じゃねえし。でも、俺はエゴイストだから、未来に起こるかわかんない怖いことのために菜々子を今から手放したりは、したくない」
私は槇の目をやっと見て、うん、と頷く。
「おまえはきっと、自分で何でもできるって知ってる。でも、昨日は口げんかみたいなことだったけど、もしケガするようなことがあったら、大変だろ」
そこまでは考えられていなかった。私の目が揺れたことに気付いたのか、槇はほんの少し笑う。そして、甘えるみたいに私の肩に、そっと頭をもたせかけた。
「……菜々子は俺にとって、手が届かない月みたいなんだ」
「そんなことないよ」
「最初に会ったときから、見た目は色白くて髪も目も薄茶で清楚系なのに、真っ黒な衣装で魔女の黒鳥の格好とか、真逆だろ?」
「あれは色々と陰謀があって」
私の台詞にくっと笑う。
「はめられた?」
「そんな感じ」
思えば、『この役はバレエを習ってる佐伯菜々子さんで!』と決め打ちみたいに決定したことだった。
「でも、その陰謀もくつがえしただろ?」
優しく歌うみたいに言う槇に、私も思い出して微笑む。
「槇の歌を、直前に聴いたから。すごく、槇が歌うみたいに自由に踊りたいって思ったの」
初めて伝えることだった。
私がそう言ったら、槇は驚いたように頭を上げて、私を見つめる。私はゆっくりと言った。
どうか神さま。
私たちがずっと一緒にいられますように。
「私が月だとしたら、槇は太陽なのよね。月は太陽がいないと輝かないもの」
実際の太陽は、ゆっくりと沈もうとしていた。いつしか散歩していた人たちの姿も消えて、公園には私たちだけが残されている。噴水の水音をBGMに私と槇は目を合わせて、そっと彼は私にキスをした。
その唇は薄くて、でも温かくて、私は目を閉じる。
これから空には月がのぼってくるだろう。
槇は、私を月みたいだと言った。槇に照らされて私が輝くように、私がいることで彼が少しでも安らげばいいと思う。
「……私も同じくらいエゴイストだから。簡単に、槇から離れて行ったりしない」
囁くみたいに言ったら、槇は頷いて、うれしそうに淡く笑った。




