芳醇な灯火の香りと朧げな記憶の影
俺、宮島政哉の人生が少しずつ変わり始めたその日は、なんてことはない、ごく普通の朝を迎えていた。
あくびをしながら布団から起きると、台所の方からいい香りがしてくる。それに釣られるような形でダイニングに行くと、妹が朝ご飯を用意していた。
「お兄ちゃん、おはよー」
「おはよう、美佳」
ハートのエプロン姿の美佳は台所で忙しなく動いている。日常的な風景だ。うちは両親がどっちも家を留守にすることが多く、基本的に美佳と二人で暮らしている。
一般男子学生が妹と実質2人暮らしであるとだけ言われたら不健全な妄想が捗るのかもしれないが、俺と美佳はごく普通の生活を過ごしている。家賃滞納など一切してないのにたまに大家さんにじろじろ見られるのは、あっちがそういう妄想をしているからでは無いだろうかと勝手に思ってる。
美佳が朝ごはんを完成させたので、二人で朝食を運んでテーブルを挟んで座る。今日の朝ごはんは炊き込みご飯にかぼちゃの味噌汁、そして鯵の塩焼きである。
「「いただきます」」
二人で手を合わせてそういうと、朝ごはんにありつく。美佳はどんな料理であろうとひょいと作れてしまう。どうやら美佳には料理の才能があるらしい。俺も作れないことは無いが、こちらは男子学生らしく豪快なものになりがちだ。豪快な料理も繊細な料理も軽々と作れる美佳には到底敵わないと感じる。
「ねぇお兄ちゃん、美味しい?」
「美味しいよ。美佳の作るものが美味しくないわけないだろ」
「良かったー」
美佳が相変わらずの可愛い笑顔を見せる。美佳はいつもこう聞いてくる。…そしてその度に、”あの事“に気づかれていないかと不安になるのだが…どうやら今日も大丈夫らしい。
「「ごちそうさまでした」」
朝ごはんを食べ終わると、皿を片付けて俺は自部屋に戻って学校へ行く為の準備をする。洗い物はいつも美佳に任せてしまっている。最初は俺もしていたけど、皿を落として割ってから美佳に触るなと言われてしまった。
美佳にとって相当大事なものだったらしく、えらく機嫌が悪かったので機嫌を直してもらうまでだいぶ時間がかかった。たしか近くの喫茶店のプリンアラモードで許してもらった筈である。美佳は甘いものに目が無いからこうしておけば問題ない。
☆
宮島美佳は使った皿を洗いながら、キッチンの一角に置いてある皿の破片に目を向ける。以前政哉が落として割った皿である。ビニールで包んだ状態であり、キッチンのインテリアになっている。
「お兄ちゃん…ほんとは覚えてるのかな…」
美佳には僅かに変な記憶が残っている。異質な豪邸。長い廊下。クロスシートの敷かれた長いテーブル。そんな中を走り回った。そんな記憶が残っている。
美佳が兄と暮らすのは普通のマンションだし、兄にそれとなく問いただしてもそんな場所の記憶は無いという結果だった。ただ、その時の兄はやけに警戒していた。普段の空気からは想像出来ないほど何かを恐れていたように思える。
美佳は皿を見る度にそんな覚えが頭をよぎる。何故なら、祖母からもらったこの皿が何故かその記憶の片隅に残っている。祖母に聞いてもよく分からないとしか言われなかった。
とにかく、大事なものだと思い残しているのだ。
☆
宮島政哉は支度を整えて玄関へ向かう。すると決まって美佳が来て見送りをしてくれるのだ。
「じゃ、行ってきます」
「行ってらっしゃーい」
再び美佳の笑顔が彩り咲くのを見て安心し、扉を開ける。
そして、歩き始める。